33話目 『悪の王』
翌朝、朝食を済ませ、いつものように学校へ向かった。母が何か言っていた気がする。天さんも何か話していた気がする。だが、思い出せなかった。桜羽もいつの間にか姿を消していた。恐らく既に帰ったのだろう。
慣れ親しんだ通学路は、今日も人で溢れていた。通勤する大人、通学する学生誰もが決まった時間を生きている。その流れに混じりながら歩く。横断歩道を渡り、ガチャの前を通り過ぎ、真っ直ぐ歩く。やがて校舎が見えてきた。
人で溢れる学校は今日も賑わっていた。生徒も、教師も誰一人欠けていないかのように朝を迎えている。雪月はその人波を掻き分けるようにして教室へ向かった。
教室へ辿り着き、鞄を自席へ置く。そして後ろを見る。そこにいるはずの人は、もう居なかった。空になった席、何も置かれていない机。それは妙に寂寥としていて、見なかった事にしてそのまま席へ着く。
放課後、濁流のように流れていく生徒達に混じりながら帰路へ就いた。いつも通り何事もなく、平穏な一日だった。このまま日常が戻ってくるのではないか、そんな淡い希望を抱いてしまうほどに。
ガチャのある交差点へ差し掛かる。そして右へ曲がった。考えるよりも先に身体が動いていた。まるで機械のように。右左右左、ただ足を前へ運んでいく。そこに意思は無かった。
「……」
気付けば辿り着いていたここは、彼の家だった。暖かな空気のある場所、死の匂いがしない場所。無意識に足が向いていたのだろう。
雪月は小さく息を吐き、そして踵を返す。このまま時間が過ぎれば彼のいない日常にも慣れるはずだ。遠い思い出は、やがて笑い話になる。そう信じたかった。背を向けて歩き出した、その時だった。
「お兄さん! 遊びに来てくれたの?」
後方から溌剌とした声が飛んでくる。振り返ると、そこにいたのは紫色の髪を肩へ広げた少女だった。紅い瞳を細め無邪気な笑みを浮かべている。そんな顔を向けられてしまえば邪険になど出来なかった。
「ううん、何でもないよ」
「そッかァ……残念だなァ」
目に見えて肩を落とし、眉尻も下げる。その様子があまりにも分かりやすくて、雪月は居た堪れなくなる。数歩近付き、目線を合わせるように屈んだ。少女はぱちぱちと瞬きを繰り返しており、小動物のように愛らしかった。
「君は……ルミはいつからここに住んでるの?」
「んー、ずっと前だよ? 十年は経ってるかなァ」
「そっか、長いんだね」
自然に口元を緩める。穏やかに平静を装う。産まれて間もなく捨てられたのだろうか、そう考えれば十年という年月にも納得出来た。
彼もきっと――そこで、不意に記憶が引っ掛かった。
「ルミ……って、さ」
「んー?」
雪月は立ち上がり、そして数歩後退った。少女は小首を傾げる。紅い瞳に雪月を映したまま。血の気が引き、鼓動が速まる。胸元の服を無意識に握り締めた。
嘘であってほしい、否定してほしい、そう願いながら問い掛ける。彼が死んだ時、自分を殺した存在。その正体へ最も近い可能性。
「サタン、なの……?」
奴の言動、行動全て合理的だった。認めたくなくとも理解出来てしまう。標的へ近付き、懐柔し警戒心を解き、そして仕留める。如何なる手段も厭わない。そんな存在が保護する?
そんな話があるだろうか。いや、あるはずがない。そこには必ず理由がある。ならば導き出される答えは一つ。この少女こそが、奴にとって重要な存在。力の源なのではないか。
「ルミ……」
「んー」
少女はさらに首を傾げた。そして細い人差し指を口元へ添え、考え込むような仕草を見せる。普段なら愛らしいだけの光景。だが今の雪月には不気味にしか映らなかった。返答までの時間が長くなるほど、確信が強まっていく。違うと言って、首を横に振ってほしい。そんな僅かな希望へ縋っていた。
けれど、やはり世界は残酷だった。
「――そうだと言ったら、どーするの?」
「え……」
悪びれる様子も罪悪感もない。無邪気に弾む声で問い掛けてくる。
その姿は知っている少女のままだった。だからこそ恐ろしい、最初から隠す気など無かったのだと錯覚してしまう。否、恐らくそれは錯覚ではない。これほどの存在にとって、正体が露見する事など些事なのだろう。その証拠に、少女は冷や汗一つ流していなかった。
「よく分かったねェ、偉いね! そうだよオレがサタン! よろしくね」
両手を後ろで組みながら身を乗り出してくる。雪月は反射的に後退った。一定の距離を保ち、それ以上近付かれないように。
彼らは、奴らは俺を殺して嗤っていたのだろうか。反応を楽しんでいたのだろうか。まるで檻の向こう側の動物を眺めるように、滑稽な見世物を見るように。
「なんで、お前らは嗤ってるんだよ……」
「えー?」
間延びした声、何も理解していないような顔。それが余計に腹立たしかった。
「ふざけるなよ! 俺は、俺は人間なんだぞ……!!」
「知ってるよ? だからこそ不思議なのさァ」
モルモットじゃない。玩具でもない。生を受けて生まれた人間だ。感情がある、意思がある、生きている。殺されていい理由なんて何処にもない。
だというのに、少女は自分のペースを崩さない。表情も変わらない。長い年月を生きてきた差なのか、唯一変わったのは口元から覗く鋭利な歯だけだった。まるで獲物を噛み千切る獣の牙だ。人間に擬態していた、そう考えるだけで虫唾が走った。
「何が不思議なんだよ、何が!」
「オレだってぜーんぶ雪桜にやらせてた訳じゃないよォ? ちゃんとお手伝いしてたからさ」
「お手伝い?」
幾度も殺したと、彼はそう言っていた。だが今になって思う。あの言葉は少しおかしかった。雪月が殺された回数は四回、それを幾度もと言うだろうか。
そして、コイツが関わっていたのなら尚更だ。
「紐を切ったのはオレなんだ。どんぴしゃだったでしょ?」
鉄骨事件。脳裏に鮮明な記憶が蘇る。
あの時、雪桜は隣にいた。ならばこいつは、彼ごと殺そうとしたのか。味方同士のはずなのに。
「知らなかった、のか……?」
「何がァ?」
「だって、雪桜がいたのに……殺したのは」
「あー! アレね!」
ぽん、と掌を叩く。合点がいったような顔はあまりにも軽い反応だった。
今は怒る余裕もない、少しでも情報が、少しでも判断材料が欲しかった。
「知ってたよ? でも死ななかったらいいでしょ?」
「死なかった、って……お前何言って」
「死んで無いじゃん。君も雪桜も。勝手にサツジンキにしないでよォ」
眉尻を下げながら笑っている。その言葉は事実だ。誰も死んでいない。雪月も、雪桜も死は無かった事になっている。
「紐を切ったって言ったじゃないか」
「切ったけど切ってない! でもそっかァ、ありがとね」
「は?」
突然の感謝、意味が分からない。理解が追い付かない。コイツは一体何を言っている?
「君、生き返ってるでしょ?」
心臓が跳ねた。核心を射ていた。全身の毛が逆立つ。見透かされた、そんな錯覚に襲われさらに数歩後退る。
「あの時、確信しちゃッたんだよねェ。あれー生きてる! ッて。」
「確信……確信の為に、俺ごと……?」
「そうだよォ? 面白いじゃん」
狂っている。理解の外側にいる。人間の尺度で測れる相手ではない。眉を顰め、コイツの言葉の先を待つ。
「何より、オレ達の目的は――」
刹那、黒い霧が周囲を覆い尽くす。視界が塞がれ、息苦しいほど濃密な闇。
誰だ、そんな問いは不要だった。こんな真似をする人物は一人しかいないのだから。
「――喋り過ぎだ。」
低く冷え切った声だけが、闇の向こう側から届いた。




