32話目 『友』
見えたのは沢山の足と、彼だった。
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――ドクンッ
「ぐ、あ”……」
荒い呼吸が漏れる。何処だ、何処にいる。視線を巡らせるとここは花壇だった。人集りもなく、生徒達は皆忙しそうに動き回っている。部活動の準備、練習。それぞれが目的を持ち、日常を過ごしていた。
あの時と同じだ。鉄骨が落ち、雪桜が死んだ。そして『水墨世界』の後、生き返った。ならば、彼は。
「ねぇ、起きてよ」
涙が溢れた。堰を切ったように、止める事など出来なかった。雫が彼の胸へ落ちる。震える手で胸元へ耳を当てた。聞こえる、鼓動が。規則正しく、確かに生きている音が。上下する胸が、暖かな体温が、それら全てが証明していた。
世界が――死が、無かった事にされている事を。
「ねぇ……どうして?」
額を彼の胸元へ押し付ける。黒いコートを強く握り締めた。声が震え、上手く喋れない。それでも聞きたかった、伝えたかった。彼自身の口から、大好きだったその声から真実を。
「どうして……仲良く、してくれたの?」
花壇の周囲には低木が植えられており、外からは見えない。大声や、覗き込まない限りここは隠れてしまう。だから泣き顔も見られない。今だけは、二人きりだった。
「信じてっ、た、のにっ」
信じていた、信頼していた、信用していた、大好きだった。彼と過ごす時間が何よりも掛け替えのない時間だった。揶揄われても、馬鹿にされても八重歯を見せて笑うその顔が好きだった。
「友人って……言って、くれた……」
お節介で、面倒見が良くて聞き上手で、気付けば頼っていて。そんな唯一無二の友人――雪桜の事が、本当に大好きだった。
「なんでっ……!」
「――るせぇ」
低い声だった。重低音ではない聞き慣れた声、雪桜の声だ。隣にいるだけで安心出来たあの声。
漆黒の髪に、ゆっくりと開かれる紺碧の瞳。見知った顔だった、知っているはずの顔だった。なのに今はまるで別人に見える。それが酷く胸を抉った。
「なんで、雪桜が……なんでっ!」
「……はぁ」
溜息。あの男と同じだ。呆れ、諦め、退屈全てを混ぜたような溜息だった。
黒い手袋が頭へ触れる。次の瞬間乱暴に押し退けられた。容赦など無く、本気だった。反動で尻餅をつく。頭を押さえながら顔を上げた。
「分からないどうしてなんでなぜ信じてたのに。そればっかだなお前は」
雪桜は上体を起こし、片膝を立てたまま雪月を見下した。
紺碧の瞳、長い睫毛そのどれも見覚えがある。だが光が無く、何も映していない。以前の澄んだ輝きは跡形も無い。感情も読み取れない。
冷淡な声はただ事実だけを並べる。まるで理解不能な生き物を見るような目。笑みも、温度も無い氷のような冷気だけが漂っていた。思わず息を呑む。
――誰だ、目の前にいるのは。そう錯覚する程に別人だった。
「飽きねぇ? 気付けよ。騙されたんだってな」
「だま、された……?」
反芻する。言葉の意味が理解出来ない、飲み込めない。雪桜を見つめ、そして耐え切れず視線を落とした。土が見える。先程まで血に濡れていたはずの土は、今は何事もなかったように乾いていた。
「また失敗か。はぁ……久しぶりだ、こんな失態」
雑に髪を掻き上げ、独り言のように吐き捨てた。後半になるにつれ苛立ちが滲み出る。その空気に雪月は身を竦ませた。
怖い、怖かった。全身の毛が逆立つ。威圧感だけで呼吸が苦しくなる気配は、もはや人ではない。それでも、聞かなければならない。
「なんで……こんな、ことを?」
「あ? んなの決まってんだろ」
雪桜は立ち上がり服へ付いた土を払う。そして見下ろした。当然のように、当たり前のように紡がれる言葉。それは心を砕くには十分過ぎた。
「危険因子は排除する。そんだけだ」
それだけだった。そこに迷いも罪悪感も躊躇も無い。ただ当然の理屈として語られた。
次の瞬間、彼の身体が黒霧へ溶け輪郭が崩れ、霧散する。そして、何も残さず消えていった。雪月だけを置き去りにして。
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のらり、くらり、ゆらり。世界が歪み、色褪せて白黒に見える。都会の喧騒も紙芝居みたいで、何だか可笑しかった。体が重い、鉛みたいに。体が自分の物ではないみたいだ。操作しているような、不思議な感覚だ。
頭が痛い。全てが面倒だ。何も考えたくない。
「あ……」
みゅーものガチャだ。
彼にあげるため、早朝から引きに行った。でもその彼に押され、轢死した。プレゼントを貰った彼は、無邪気に笑っていた。それが嬉しくて、人生初のプレゼントは大成功だと思ったんだ。
「鉄……」
右折すると、工場地帯へ辿り着く。
一緒に帰れる事になり、前日の事もあって酷く安心した。二人なら大丈夫だ、そんな形の無い確信は粉々に砕かれた。鉄骨を支えるロープが切られ、落ちて来たからだ。彼と共に下敷きになり、ここで二度と人を巻き込まないと決意した。生きてる、そう心の底から安堵したのに。
「家……」
工場地帯を抜け、住宅街。
意識を失った俺は、彼の家で介抱して貰った。甘いお粥は珍しくて、驚いたんだっけ。丸一日泊めて貰って、嬉しかった。友人の家に来る事なんて初めてだった。
「……」
石段。鳥居へ続く階段は、長く果てし無く思えた。
参拝客に扮していた彼は、フードを被り顔を見せないようにしていた。二度も殺しを誤り、焦ったんだろう。直接手を掛けることにした。階段から突き落とし、そして手で銃を作って頭を。黄昏時なのも相まって、彼の顔を見る事は叶わなかった。
「っ……」
正中を避けて鳥居を潜り、膝を着く。
転校初日。彼はペットボトルを抱える俺を見兼ねて手伝ってくれた。強引だったけれど、不器用な優しさが不安だった心に染み渡った。
施設の後。流行の話をして、お互い分かんなかった。どこが可愛いのか分からなくて悩んでると、彼がモテるかなってふざけて。それが可笑しくて笑った。
「……う、うぅ……っあ、ぁ」
授業中。眠ってしまった時に順番になる前に起こしてくれて。ちょっと乱暴でびっくりしちゃった時もあったけど、それでも感謝してた。
食事中。おかずを交換したりして楽しんだ。いつも自炊してくる彼の弁当は色鮮やかで、本当に料理が上手だった。
掃除中。上手くサボる彼に気付くのは俺だけだった。バレると八重歯を見せて笑い、誤魔化していた。そして、すごく雑にやってたっけ。
「ふっ……う、……」
楽しかった。全ての時間が大切で、大事で、大好きで、かけがえの無いものだ。
嬉しかった。全ての行動が新鮮で、気遣いがすごく上手で、それが演技だとしても。
悲しかった。騙されたんだって、知りたくなかった。教えられたく、無かった。
「雪、桜ぁ……」
涙が止まらない。拭っても眼窩から溢れてくる涙は、留まることを知らなかった。砂利が膝を刺しているにも関わらず、泣きじゃくった。少しの痛みが、心の痛みを和らげてくれるのを信じていた。
全てが嘘だったと言うのか。あの優しさ全て演技だったと言うのか。酷い、酷すぎる。あまりに、辛過ぎる。
「雪月……?」
霜柱の声音が鼓膜を揺らす。泣き止まなくては、そう思う程に溢れてくる。
尋常では無い様子に気付いた母は慌てて駆け寄り、何も言わずに抱き寄せた。膝が痛いだろう、にも関わらずただ抱き締め、優しく頭を撫でる。大丈夫だと、そう言うように。
「――ねんねこ ねんねこ 愛しい子」
反則だ、そんなの。もう何も、考えられない。瞼が重い。意識が深淵へと落ちていく。
「母はあなたを 愛してる」
「夢の野原を 渡ったら」
「明日もまた 遊びましょう」
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