31話目 『反撃の狼煙』
翌日。早朝に家を出た。人の少ない時間帯を選び、周囲へ注意を払いながら通学路を進んでいた。ちなみに桜羽はまだ夢の中で、朝に強い彼女ですら起きられない程の時間帯は当然雪月も眠かった。だが背に腹は代えられない。このまま安全に登下校出来るのなら、どんな僅かな希望にでも縋り付きたかった。
常時開放されている裏門から校内へ入り、そのまま教室へ向かった。流石にこの時間では教員の姿すら疎らだった。静謐な空気に包まれた校舎は、不思議と心を落ち着かせてくれる。思い返せば、学校で殺された事は無かったなと思い出す。ここは安全圏なのだろうか、なんて淡い期待を抱いた。
自席へ鞄を下ろし、椅子へ腰掛ける。早起きの反動だろうか、既に強烈な睡魔が襲って来ていおり瞼が重く意識が沈む。そして、抗えずにそのまま眠りへ落ちていった。
――急激な冷たさが頬を襲い、意識が無理矢理引き戻された。ひんやり、なんてものではない。まるで氷を押し当てられたような冷たさだった。
「……んめたっ?!」
「おはよう」
屈託のない笑み。八重歯を覗かせる雪桜の手には一本の缶が握られていた。平然と挨拶を交わしながら、状況を理解出来ていない雪月を愉快そうに眺めている。
雪月は橙色の瞳を巡らせる。教室内には既に生徒達の姿が揃っていた。間もなくホームルームが始まるだろう。どうやら雪桜は自販機で飲み物を買い、その帰りらしい。
「これ飲んで目ぇ覚ませよ」
「あ、りがとう」
赤い缶が机へ軽く置かれる。どうやら買って来てくれたらしい。善意へ感謝しながら開けようとする、が開け方が分からなかった。取っ手のような部分をどうにかするのだろうか。と缶と睨めっこを続けていると、見兼ねた雪桜が無言でそれを奪い取る。そして慣れた手付きで開封してみせた。
「雪桜の分は?」
「俺水派だから」
ふと疑問が浮かぶ。雪桜の両手は空いており、自分の飲み物は持っていない。それを問い掛けると、彼は恩着せがましさなど微塵も見せず悠然と答えた。理由はどうあれ、わざわざ買って来てくれたのだ。そう思うと自然と口元が緩んだ。
「ありがとう」
「別に、お返しだ」
「ふふっ」
みゅーもの件だろうが、雪月自身は気にもしていなかった為思わず吹き出してしまう。心外そうに眉間へ皺を寄せる雪桜の顔が妙に面白かった。今この瞬間だけは安心出来る、そう思うと笑いが止まらなかった。
「笑い過ぎだ。友人にこんくらいすんのは普通だろ」
「ごめん」
軽いチョップが頭へ落ちて、反射的に謝罪した。目尻に浮かんだ涙を拭いながら雪桜を見ると、彼は腕を組み不貞腐れたように顔を背けていた。そこへもう一度謝罪すると、雪桜は大袈裟に嘆息する。
「おはようって返して貰ってねぇけど?」
「あ、おはよう」
「良し」
話題を切り替えるように催促する。紺碧の瞳が見下ろして待っていた。満足のいく返事だったのだろう、口元を綻ばせる姿はどこか年相応で可愛らしかった。
そうして自席へ戻っていく背中を橙色の瞳で見送る。やがて教師が教室へ入って来る。そしていつも通りのこの日の学校生活が始まった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
放課後。閑散とした教室へ橙色の陽光が差し込んでいた。照明の落とされた空間を夕暮れの光が柔らかく照らしている。現在この教室へ残っているのは二人だけ、雪桜と雪月だった。
「じゃまた明日な」
「うん、またね」
時計の針は五時台を指している。人が疎らになった頃合いを見計らい、雪桜は帰宅していった。窓の外へ視線を向けると、グラウンドでは部活動が最盛期を迎えていた。掛け声、笛の音、活気に満ちた声、それらが夕暮れの風に乗って届いてくる。
もう少し遅らせよう。部活生はまだ帰らず、一般生徒は既に帰宅しているその狭間。六時頃なら丁度良い、そう判断した。
やがて時計の長針と短針が上下を指す一直線の形を描いたのを確認し、雪月は鞄を手に取った。そして教室を後にする。校舎内に人影はない、賑わっているのは部活動で使用されている教室だけでそれ以外は静まり返っていた。
正門を潜り、そして帰路へ足を踏み出した。この通学路を歩き始めてまだ一週間も経っていないが、記憶だけは嫌に鮮明だった。中でも最も強く脳裏へ焼き付いている場所がある。
「ガチャ……」
みゅーものガチャが設置されている区画、人集りが出来ていた場所。そして、最初に死んだ場所。
何度も夢であって欲しいと思った、何度も忘れようとした。それでも記憶は消えてくれない。雪月は深呼吸を一つした。覚悟を決め、真っ直ぐ進む。あの横断歩道を越えれば終わりだ。きっと帰れる。そう信じて歩き出した。一歩、また一歩地面を踏み締める。耳を澄ませ、警戒を解かない。全身が緊張している。息をする事すら忘れそうな程に。
「――っ!」
反射的に踵を返し、そして全力で駆け出した。学校へ、安全圏へ少しでも遠くへ逃げる為に。
いた、確実にいた。人混みの中に、黒い人物が。顔は見えない。だが背丈も、姿勢も纏う空気も全てが一致していた。追って来ているのかは分からない、だが関係なかった。ただ走る。無我夢中に、学校へ向かって。安全だと思える場所へ向かって。
正門を潜るが人はいない。当然だ、その時間帯を選んだのは自分なのだから。走る、校舎へ飛び込む。足音が鮮明に響く。反響する音は耳を澄ませる必要もない。二人分、自分の足音ともう一つ、確実に迫って来ているとそう確信した。
階段を駆け上がり、ひたすら逃げる。相手は本気なのだろうか、それとも手加減しているのだろうか。悪魔なのだとしたら後者の方が余程有り得そうだった。
気付けば屋上へ辿り着いていた。縁には近寄らず中央へ立ち、迎え撃つ。せめて顔だけでも、それだけでもいい。最悪死ぬ、その覚悟は出来ている。――いや、死にたくない。それが本音だった。
「お前は、なんなんだよ……」
「……」
返答はない。黄昏に染まる屋上、相手の顔は見えない。何も分からない、何一つ手掛かりを掴めない。俯いている、ずっと顔を隠すように、視線を伏せるように。仮に昼間だったとしても見えないだろう。
何か方法はないか、頭の片隅を探る。そしてある違和感へ辿り着いた。待て。――常に俯いている?
「悪魔、なんだろ? 知ってるぞ、その力使えるのは一人だけだって!」
「……」
相手は沈黙を貫き、雪月も動かない。中央から一歩も動かず橙色の瞳で真っ直ぐ見据える。視線を逸らさない。逸らした瞬間、死ぬ。そんな確信があった。
恐らく奴は顔を見られる事を恐れている。だから俯き、顔を隠している。ならば真正面から至近距離へ迫って来る事はない。少なくとも今は、打開策を見付けるまではこの均衡を崩さず相手を見続ける。それだけが雪月を生かしている、唯一の生命線だった。
「俺はこっから動かないからな……! お前も動けないんだろ!」
「…………はぁ」
これほど相手を観察する機会は今までなかった。黒い手袋に黒いコート、その内側には黒いフード。目深に被られているせいで顔は見えない。肌すら露出しておらず、全てが黒。まるで夜そのものを纏っているようだった。
そうして警戒を緩めず見据えていると、奴は溜息を吐く。何故だ、溜息を吐きたいのはこちらだというのに。そう思った刹那、奴の指先から黒い靄が伸びる。細く、糸のように。否、これは黒霧だ。それは紐のように細く伸び、奴の喉元を囲うように歪な輪を形成した。
「――怠い、面倒、厄介、億劫、退屈。もううんざりだ」
「……は?」
眉間へ皺が寄る。全身が強張り、脳が震える。低い、重い、地を這うような重低音。その声だけで圧迫感を覚えるほどだった。そして、そこから紡がれる言葉の意味が理解出来ない。こいつは、一体何を言っている?
「幾度も殺した。ああそうだ、殺したんだ。ってのに手前は何だ? 喋る、立つ、歩く。んなこた人生初だ」
奴の左手にはナイフが握られていた。薄く光を反射する刃、鋭利な切っ先。危険極まりない代物を、まるで玩具のように指先で回している。退屈、その言葉を体現するような仕草。
「何、言ってんだよ……勝手に殺しておいて! 死にたくないよ! 俺は、ただ普通に……」
「普通? 何が普通だ阿呆らしい。んなクソッタレな言葉誰が信じるかよ」
「そんなんじゃない! 俺は、ただ俺は放っておいて欲しいだけだ!」
熱いものが込み上げる。眼窩の奥が焼けるようだった。駄目だ、相手から目を逸らしてはいけない。視界を滲ませてはいけないと分かっている、分かっているのに止まらない。何故だ、何故なんだ。何故ここまで殺意を向けられなければならない。何故放っておいてくれない。何故普通に生きる事すら許されない。
「はっ、論外だ。危険因子は排除する」
「なん――」
瞬きをした、ただそれだけだった。その一瞬で、奴は消えていた。視界が塞がれ、目の前が黒に染まる。そして、喉元へ冷たい感触が。
「死ね」
その言葉だけが、耳に焼き付いて離れなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
息が出来ない、吸えない、苦しい、熱い。
あぁ、また死んだのか。死ぬのは嫌だ、痛いのは嫌だ。
助けてくれよ、誰か見てるんだろ。 いるんだろ、いてくれよ、救い出してくれ。俺はどうすればいい?なぁ。俺はどうすれば助かるんだよ。
頼むから、返事してくれよ――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――ドクンッ
「うッ、ぁ”ぁあッ!!」
「なっ!」
崩れかけた体勢を無理矢理立て直す。そして視界を覆う掌を、両手で全力で掴んだ。予想外だったのだろう。まさか掴まれるとは思っていなかったのか、相手の力が僅かに緩む。
その瞬間、確信した。この機会を逃せば終わりだ、次はない。離したら終わる。本能がそう警鐘を鳴らしていた。
「なんだよお前! 気持ち悪ぃんだよ!!」
「離さない! 離して――ゔっ」
後ろを向けない、顔が見えない。身を捩っても視界は塞がれたままだ。雪月に出来る事は、その手を掴み続ける事だけだった。だが当然、相手も容易く諦めたりはしない。雪月は両手で引き剥がそうとしているのに対し、奴は片手で対応している。
次の瞬間、背中へ冷たい感覚が走った。熱い、痛い、遅れて激痛が全身を焼く。それでも離さない。
「さっさと死ねよ! 死ね、死ねって!!」
何度も、何度も何度も刃が突き立てられる。意識が飛びそうだ。視界が明滅する。世界が揺れる。それでも口内を噛み締めた。鉄の味が充満する。
今すぐ許しを乞いたい、地面へ額を擦り付けてでも助けを願いたい。だが、それで助からない事を誰よりも知っていた。
「ぁぎ、ぁぁぁあああッ」
「離せよ気色悪ぃ!!!」
全体重を後方へ掛ける。強引に、無理矢理に後退する。刃は刺さったままだ。内臓が悲鳴を上げており、吐きそうだった。否、もう吐いているのかもしれない。分からない。気持ち悪い、苦しい、それでも止まらない。あと少し、もう少し。
これが、反撃の狼煙だ。
――ドクンッ
「お前――!」
足元から地面が消える。
支えを失った身体は重力へ引かれた。制御を失った体は回る事も、離れる事も出来ない。だが相手は悪魔だ。これで終わるなど思っていない。奥歯を噛み締め、来る衝撃へ備える。すると顔を覆っていた革の感触が遠ざかった。
橙色の空、夕焼け。それが橙色の瞳へ映り込む。――綺麗だな。場違いにもそう思った。
「がっ」
キャァァァァ――!
鈍い音が響く、悲鳴が劈く。そして一拍遅れて衝撃が襲った。肺から空気が吐き出され、声にならない呻きだけが漏れる。身体は動かない。相手の身体越しに衝突したはずなのに全身が粉砕されたような錯覚を覚える。
周囲には既に人集りが出来ていた。皆が驚愕と混乱と焦燥に表情を歪ませている。携帯電話を取り出し、通報する者もいた。
花壇だろうか、視界の端には潰れた花が映っていた。奴は、恐らく背中越しにいる。今見なければいつ見るのか。動け、動いてくれ。瞼を開けろ、顔を向けろ。
「ぐッ」
奴の身体から滑り落ちる。僅かな反動ですら全身へ電流のような激痛が走った。相手は動かない、ならまだ時間がある。死んでいても構わない、それでも見なければ。
体温が失われていく、感覚が薄れていく、意識が遠ざかっていく、死が近付いている。早く、早く。死ぬ前に、今の内に。
「ぁ……」
フードが外れていた。その顔が見えた。
口元から、後頭部から赤い液体が流れている。焦げ茶色の土が血を吸い込んでいた、まるで養分にするかのように。
雪月は必死に胸元へ耳を当てた。心音は無い、動いていない。何も、呼吸も、鼓動も、何も。そこにあるのはただの死体だった。
奴は、悪魔なんかじゃなかった。
「う、あ……」
どうして、どうして。
「し……ぁい、で」
涙が頬を伝い、土を濡らす。
こんな事は望んでいない、願っていない。だって、彼は
――刹那、黒く鋭利な霧が雪月の身体を貫いた。




