30話目 『おさんぽ日和』
水底から浮かび上がるように意識がゆっくりと覚醒していく。
「お兄おはよ〜!」
元気な声が静かな早朝へ響き渡る。鼓膜を揺らされ、半ば強制的に瞼が開かれる。見慣れた天井と寝具の感触、どうやらここは寝室らしい。
「お兄〜?」
「眠い……」
身体が重い、全身へ倦怠感が纏わり付いているようで関節の一つ一つが錆び付いたようだ。何より今は早朝。どちらかと言えば夜型の雪月にとって、この時間帯はまだ夢の中であるべき時間。だが目の前にいる元気の塊のような彼女が、それを許してくれるはずもなかっま。
「起きて!朝だよ〜!」
身体を大きく揺さぶられ、諦めたように上体を起こし目元を擦る。ぼんやりとした視界の先には、空色の瞳に人懐っこい笑顔は。今にも飛び出して行きそうな程に活力へ満ちていた。
「今日は久々の〜、お兄と私がフリーな日! 起きなきゃ損だよ!」
そう言うなり雪月の腕を両手で掴まれぐいぐいと引っ張り上げられた。眠気眼のまま立たされる。そして半ば連行されるように寝室を後にした。
居間へ辿り着くと、習慣的に座卓へ腰を下ろし縁側の向こうへ視線を向けた。そこには緋色の長髪を揺らしながら箒を動かす男性の姿がある。柔らかな陽光、心地よい風と暖かな朝は平和そのものだった。
「おはよう雪月、桜羽。よく眠れた?」
霜柱のように澄んだ声音が静かな空間を満たす。その声を聞くだけで自然と口元が緩み、向かいに座る藍白の瞳を見つめた。
「おはようお母さん、ぐっすりだったよ」
「私もぐっすり〜」
何年振りだろうか、こうして家族三人で過ごす時間は。九年近くこんな穏やかな朝はなかったように思える。
湯呑みへ口を付けながら昨日の出来事を思い出す。犯人の事、悪魔の事、桜羽の事。そしてあの話を。
「そうだ、話を」
「お兄どしたの?」
「雪月?」
話した。確かに話そうとした。自分の身に起きている異変を全て打ち明けたはずだ。そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。伝えられたのだろうか。もし伝えられているのなら、もし理解してくれているのなら俺は。
座卓を離れ縁側へ出る。靴も履かないまま飛び降り、裸足で砂利道を駆け緋色の髪を目指す。縋るような思いで、その先の言葉を求めて。例えそれが、希望を打ち砕く答えだったとしても。
「天さん!」
掃除をしていた柱へ声を掛けると、赤い瞳がこちらを捉えた。その異常な様子に柱は目を丸くし、そして箒を放り出し慌てて駆け寄ってきた。
「少年? 靴も履いていないではないか」
上から下まで視線を走らせる。その格好へ再び驚きを見せるが、雪月には構っている余裕がなかった。間髪入れず問い掛ける。
「天さん、昨日俺話しましたよね?」
「あ、ああ。最後まで聞けずにいたが……」
そこで記憶が繋がる。たしか途中で眠ってしまったのだ。ならば今言えばいい、伝えられなかったのなら今伝えればいいだけだ。
「天さん、俺は死ん――」
雪月は口を開く。眉尻を下げながら心配そうに見つめる柱へ必死に切実に伝えようとするが言葉が出ない、口が動かなかった。まるで縫い付けられたかのように、意思に反して閉ざされている。
「俺は、死――」
動かない、どうしても動かない。喉は震えているのに、声は出ようとしているのに何故か言えない。
「俺は殺され――」
「少年?」
「俺は――」
何故、そんな顔をしている?
「俺は殺されて――!」
その瞬間だった。世界が歪景色の輪郭が墨へ溶けていく。白紙に墨を流し込んだように、空間そのものが塗り潰されていく。
ここは紛れも無い『水墨世界』だ。死の後に訪れる場所、痛みと孤独に満ちた場所。自分も他人も時間さえも停止する異質な空間。だが今は違うはずだ。死んでいない、傷もない、なら何故ここへ?
――無様にも生き無惨にも生きろ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「俺、は……」
「少年、顔色が悪いぞ」
大きな掌が肩を掴む。その感触と共に、意識は現実へと引き戻された。
言ってはならない、確実にそう警告されたと雪月には思えた。神にさえ言えないのなら、誰にも言えないだろう。
「何があった?」
穏やかで柔和な声音だった。だがその優しさが、今は酷く胸に刺さる。数秒の沈黙の後、雪月はゆっくりと顔を上げた。出かかった言葉を飲み込み、そして口元を緩め愛想良く、平然と何事もなかったかのように笑みを作った。
「ううん、やっぱり何でも無い。朝ご飯食べましょう」
まるで最初からそれだけを言いたかったかのような自然な口調だった。柱も深く追及はせず、疑念を抱いた様子もなく肩から手を離し静かに立ち上がる。その振る舞いに雪月の心中は複雑だった。安堵、危惧憂慮様々な感情が入り混じり、混沌としている。だがそれを表へ出す事はない。
二人は何事もなかったように居間へ戻っていった。その後は朝食を囲み、気が付けば自由な時間が訪れていた。 最後に聞こえた声の主は、一体何者なのか。そんな事を考えながら。
外へ出る気分ではない為境内を散歩しよう。そう思い玄関口から外へ出ようとした時だった。
「わたしもついてく!」
「うん、一緒に行こう」
隣へ並ぶ妹は陽だまりのような笑顔を浮かべていた。こうして妹と肩を並べ、空の下を歩くのは初めてかもしれない。砂利を踏み締めながら歩き境内を一周する散歩道。ここへ来てから周囲を見て回る余裕などなかった為見るもの全てが新鮮だった。今更ながらに神社という場所は不思議だ。神秘的で、格式があり、どこか荘厳な空気を纏っている。若葉の香りが風へ乗り、澄んだ空気が肺を満たした。散歩には最高の場所だった。
「お兄は好きな人できた?」
「桜羽は恋バナ好きだね」
「面白いんだも〜ん」
両手を後ろで組みながら歩く桜羽。昔から会話の大半は恋愛話だった。何がそこまで面白いのか、雪月には未だ理解出来ない。
二人は鳥居の傍を通る。昨日の出来事が脳裏を掠め思わず視線を逸らす。
「いないよ」
「やっぱり? 初心だもんね」
「うるさい」
桜羽は口元へ手を添え、桜色の瞳を意地悪く細めた。揶揄うような笑みに雪月は嘆息する。
「もっと積極的にいかないと一生童貞だよ? わたしが女の子の扱いコーチしてあげてもいいけど」
「桜羽は学校どうなの?」
「あーっ」
得意げに語り始めたところへ話を被せる。これ以上聞くと頭が痛くなりそうな為、額へ手を当てながら強引に話題を変えた。桜羽は不満そうに唇を尖らせるがすぐに気持ちを切り替えたらしい。
周囲の景色も変わっていく。今歩いているのは神社の裏手だ。普段なら見る機会もない場所、それだけで少し興味を惹かれた。
「んー、楽しいよ? お友達も出来たし……あっ! すきな男の子がいるの」
「へぇ、どんな子?」
桜羽は指を折りながら記憶を辿る。そして何かを思い出したように瞳を輝かせた。どうやら恋愛話へ戻ったらしい。年頃の少女へ根掘り葉掘り聞くのも気が引ける為、軽く相槌を打つ程度に留める。
「えーとね、ちょっと年上で、優しくて。今一緒に住んでるんだけどね、お料理も上手くて――」
「ちょっと待って」
思考が停止し、反射的に言葉を遮る。
「一緒に住んでるって前お店で教えてくれた子? たまに丸一日居なかったのもその子と一緒に居たの? 夜までずっと?」
「そうだけど、そんなにおかしいこと?」
「それは……どうなんだろう……」
世間一般の常識など知らない。異性と丸一日、しかも夜まで一緒に過ごすこと、それは普通なのか異常なのか雪月には判断が付かない。ただ唸っていると、桜羽は愉快に笑った。
「もーお兄ってば心配しすぎ! わたしはお兄一筋だよ?」
「そうじゃなくて」
悪意もなく他意もない、だからこそ厄介だ。叱る事も出来ず、悩みの種が一つ増えただけだった。あまりにも衝撃的な事実に頭を抱えたくなるが、桜羽はどこ吹く風。先へ先へとマイペースに歩いていく。仕方無しに雪月もその後を追った。
境内を半周ほどした頃、再び会話が始まる。
「まあ、いい人なら良いんだけど……」
「いい人だよ! お兄も知ってると思うよ?」
「俺も知ってる?」
記憶を辿る、が同年代の人物など思い浮かばない。昔に会っていたとしても、忘れる事だろうか。それでも心当たりはなかった。
「いや。覚えてないなぁ」
「そっか〜、また会わせてあげるね!」
「うん、楽しみにしてるね」
そうして二人は歩き続ける。他愛のない会話を交わしながら束の間の平穏を享受していた。
明日になれば再び学校、日常が始まる。だからこそ思う。今日のような穏やかな時間が、この平和な景色が、いつまでも続いてくれればいいと。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
先に散歩から戻ってしまった後も、もう少し歩いていると伝えた。朝は気持ちが良い、夜よりもずっと好きだった。暗くて、熱い夜なんかよりもずっと。
「わたしは、本気だったんだけどな」
知らなくていいの、この想いは墓場まで持っていくつもりだから。
「ちょっとだけ……」
それでも一緒にいたいなんて、わがままかな?




