29話目 『まどろみ』
「見つけた!」
卯の花色の髪が夜闇へ溶け込むように揺れていた。室内灯に照らされ、その全貌が浮かび上がる。愛嬌のある顔立ちに空色の丸い瞳、その瞳は戸惑う三人の姿を映していた。
迷いのない足取りは、一直線にこの部屋へ向かって来ていたという事。おかしい、彼女はこの部屋を知らないはずだ。そもそもこの場所自体を知らないはずだが。
「――桜羽」
天真爛漫な笑みを浮かべる彼女。その姿を見た緋寒は唇を震わせながら名を呼んだ。郷愁、困惑、あるいはその両方か、感情の判別が付かない声音だった。
桜羽は靴を脱いで縁側へ上がり、そのまま部屋へ躊躇いも無く入って来る。腕の中には一つのぬいぐるみ、抱き締めているのはうさぎだった。
「お母さん、久しぶりだね〜」
柔らかな口調に、いつも通りの調子はどこか不気味に感じられる。桜羽はぬいぐるみの手を摘まみ、ひらひらと挨拶をした。愛嬌のある仕草だが今だけは可愛らしいとは思えなかった。
「桜羽、どうしてここに?」
「お兄に会いたくて! 具合悪そうにしてたから心配してたの」
「……俺、桜羽に会ったっけ?」
記憶を辿る。学校から雪桜の家へ。そこで一日を過ごし、神社へ戻った。その過程で桜羽の姿など見ていないし声も聞いていない。その確信だけはある。
「家がたくさんある所、そこで見つけたの」
「ついてきた、ってこと?」
ならば後ろから付いて来ていたのだろうか、それ自体は構わない。妹なのだから、いずれ母へ会わせるつもりだった。だが何も言わずにいるものだろうか。
「ううん! この子が教えてくれたの」
そう言って掲げたのは、抱えていたうさぎのぬいぐるみだった。赤い瞳に白い毛並みは、雪兎を模したような姿をしている。もし桜羽が意図的にそれを持って来たのだとしたら、雪月には少々悪趣味に思えた。
「教えてくれたって……桜羽、どういうことなの?」
雪月より先に、緋寒が疑問を口にする。当然だ、ぬいぐるみが喋るなど有り得ない。それなのに『教えてくれた』というのなら。
「乙女は秘密が多いんだよ?」
桜羽は人差し指を口元へ当て悪戯っぽく笑う。そのまま戸惑いを隠せない柱の隣へ腰を降ろした。すると直ぐさま空色の瞳が赤い双眸を捉えた。
「お義父さんって呼んだほうがいい?」
「構わんが……」
「じゃあお義父さん!」
屈託のない笑顔だった。人懐っこく、無邪気で場を掻き回す彼女が何を考えているのか分からない、何をしたいのかも分からない。それは昔から変わらなかった。この子は賢い、だからこそその言動には意味があるように思えてしまう。
「桜羽、ちゃんと話して」
戸惑う柱へ助け舟を出すように問い掛ける。雪月は視線を逸らさず、真剣な眼差しを向ける。その表情に観念したのか、桜羽は肩を竦めた。
「お兄を心配してって言ったでしょ? 次の学校行く日かな、私も行くよ!」
それだけなのか。もし本当にそれだけなら願ってもない事だった。だが脳裏を過るのは鉄骨事故だ。犯人、悪魔か、恐らく狙われているのは自分だ。同行するという事は巻き込む事と同義だった。再び生き返る保証などどこにもない。そんな不確定な奇跡へ縋るには、判断材料が少な過ぎる。
「心配は嬉しいけど大丈夫だよ。桜羽もその日は学校があったよね?」
「うーん、そっかぁ……じゃあ明後日までここでお泊まりする! それならいいでしょ?」
肩を落とした後、同意を求めるように桜羽は緋寒と柱を交互に見た。二人は顔を見合わせ、そして小さく頷いた。許可したのだろう。当然だ、二人には拒否する理由がない。だが雪月は違う。怖い。再び失う事が、大切なものを奪われる事が。その恐怖が全身へ纏わり付き、離れようとしない。
「お兄の部屋で寝たーい!」
「ちょっと待って」
桜羽は元気よく立ち上がり、そのまま襖の方へ向かっていった。緋寒も慌てて立ち上がる。おそらく寝具の準備だろう、二人はそのまま部屋を出て行った。
残されたのは柱と雪月だけ。先程の事が脳裏を過ぎりただただ沈黙が流れた。居た堪れなくなった雪月は立ち上がる。
「少年。待ちなさい」
貫禄ある声がそれを制した。先程感じた畏怖が微かに燻っていたが、この柱を無視して立ち去る勇気など持ち合わせていない。雪月は再び正座をし、窺うように赤い瞳へ視線を向けた。
「聞いてもいいか?」
「……はい」
穏やかな声だった。柔和な笑みを浮かべながら問い掛けてくる。この柱は紛れもなく神だ。だが同時に、人間に愛情を持っている。それだけは疑いようがない事実だった。そう思うと自然と先程の畏怖が溶けていくようで、不思議な気分だ。
「少年は、何かされたのか?」
これほど真摯に耳を傾け、案じてくれる。失敗すれば反省し、学び、不器用ながらも人と向き合おうとしているどこまでも人間らしい神。そんな柱なら、話してもいいのではないか。
「俺は」
今までの事を全て打ち明ければ、天さんなら解決策を探してくれる。一緒に悩んでくれる。もしかしたら解決してしまうかもしれない。
急かさず、責めず、ただ待ってくれている。そんな人になら信頼してもいいのかもしれない。重荷を分けても、いいのかもしれない。
「俺はっ……」
喉が震える。胸の奥が熱くなり、言葉が零れ落ちそうになる。そして伝える。
「俺は、死ん――」
瞼が、重い。微睡みが足元から這い上がってくる。抗えない、眠気だ。
そのまま意識は深い眠りへと沈んでいく。まるで何者かに引き摺り込まれるように。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「少年?」
突然眠ってしまった雪月を前に、柱は困惑を隠せなかった。理由が分からない、予兆もない。言葉を紡ごうとした次の瞬間には机に伏せっていた。
まさか、そんな嫌な予感が脳裏を過る。柱は雪月の傍へ寄り、そして慎重に呼吸を確かめた。胸は規則正しく上下しており、脈も安定している。ただ眠っているだけ、それを確認し小さく安堵の息を吐いた。
もし自分がもっと人間を知っていたなら、もし今よりも長く人と共に過ごしていたなら、何か気付けたのだろうか。何かを察せたのだろうか。そんな後悔ばかりが脳を埋める。
「……しかし、そうか」
ぽつりと呟く。思考を整理するように、点と点を結ぶように。黒い霧、悪魔、サタン、それらは既に一本の線で繋がっている。ならば、もう一つ点を加えてみればどうだろう。あの物は基本的に自ら手を下さない。故に必ずいるはずなのだ。手足となる者、代行する存在が。
その可能性へ辿り着いた瞬間、柱の表情が陰った。
「私が……」
遠い昔に、気付けていれば。
「――後悔ばかりだ」
静かな独白だった。誰へ向けるでもなく、ただ胸の奥から零れ落ちた言葉。柱は眠る雪月をそっと壊れ物でも扱うように慎重に抱き上げ、そのまま寝室へ向かった。やがて室内灯が消され、明かりは失われ部屋には薄闇だけが残った。
静寂が満ちる。柱の独り言は誰にも届かないまま、夜の闇へ溶けて消えていった。




