28話目 『負け戦』
「……逃げるなよ」
散々人を殺しておいて危なくなったら逃げるなんて卑怯じゃないか、そんな吐き出しようのない感情だけが胸中を渦巻く。だが、その怒りをぶつける相手はもういない。出来る事はただその場で立ち尽くす事と、呆然と虚空を見つめることだけ。あまりにも無力だった。
あれは化け物で怪物で人間とは程遠い存在。なら自分は一方的に殺され続けるだけなのか。
「雪月……?」
霜柱の声色が鼓膜を優しく揺らした。声の主を辿るように鳥居へ視線を向けると、そこには胸元へ手を当て藍白の瞳に雪月を映している母の姿があった。
「お母さん……」
「雪月! 大丈夫?」
緋寒は慌てて石段を下り始める。だが何故だろう、その姿が先程の人物と重なって見えた。違うと頭では理解しているが、今この瞬間だけは横へ並ばれる事を本能的に拒絶していた。
「大丈夫! 大丈夫だからそっちに行くね」
掌を向けて制止すると母は足を止めた。不安そうな表情のまま、鳥居の向こうで待ってくれている。雪月は石段を踏み締めながらぼんやりとした意識の中で思考を巡らせた。
黒い靄、あれは異能なのか。もしそうならば、神へ相談してもいいのかもしれない。一人で抱えるには、あまりに重過ぎる。信頼出来る相手へ、信用に足る柱へ全てを伝えてしまいたい。僅かな手掛かりであろうとこのまま無為に流したくはなかった。
「天さんはどこにいる?」
「中に居るけれど……大丈夫なの?」
緋寒は眉尻を下げ、雪月の身体を支えてくれた。華奢な身体へ体重を預ける事には抵抗があったが、今はそんな事を言っている場合ではない。母の言う中とはあの部屋の事だろうか。
「大丈夫、確認したいことがあって」
「……そう」
何か言いたげに口を噤む。だが最終的には雪月の意思を尊重してくれたのだろう、小さく首肯した。そして目的の部屋まで案内してくれる。
いつもの一室、縁側の立ち並ぶ部屋の中央に位置する場所だ。広大な屋敷の中では知らなければ辿り着けないような位置。
襖を開くと、そこには縁側へ腰掛け緋色の髪を流している柱の姿があった。その背中が妙に頼もしく感じられる。以前よりもずっと大きく、ずっと重厚に感じられた。柱は襖の開閉音へ反応したのだろう、赤い双眸がこちらへ向けられる。何も言わずとも察したのか柱は静かに立ち上がり、座卓の方へと移動した。合わせるように雪月達も向かい合うように腰を下ろす。
「天さん、聞きたいことがあるんです」
「何でも言ってみなさい」
柱は茶を嗜みながら耳を傾ける。緋寒は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
本来なら謝罪から入るべきだろう。あるいは近況を話し、他愛ない会話から始めるべきかもしれないが、生憎今はそんな余裕がない。母の思慮深さへ感謝しながら雪月は本題を切り出した。
「黒い靄みたいな異能って、あるんですか」
固唾を飲む。妙な緊張感が場を支配する。
返答が怖い。もし存在するのなら、それは人間の仕業という事になる。もし存在しないのなら、それは未知の存在という事になる。どちらに転んでも絶望しか見えない、まさに蟷螂の斧だった。
「それは、異能とは言わん」
柱の表情が僅かに硬くなる。長い睫毛に縁取られた瞳が伏せられ、普段の穏やかな空気が消えていく。代わりに現れるのは神としての威厳。空気が変わり、肌が粟立つのを感じた。まるで触れてはならない領域へ踏み込んだかのような錯覚を覚える。
「黒い霧――黒霧を使いこなす物を私は一つしか知らん」
「黒霧……」
黒い霧。それは『黒霧』と呼ばれるらしい。反芻するように呟き、続きを受け止めようと待った。
「悪魔の長だ。人には魔王、そう言った方が聞き馴染みあるやもしれんな」
「ま、魔王?ちょっと待って……」
予想を遥かに超えた話だった。頭が痛くなるような話だ。悪魔の長、魔王、その名を雪月は知っている。否、知らない者などいないだろう。それほどまでに有名、強大かつ凶悪な存在。
「本当にその、その人しか使えないんですか?」
「ああ」
無慈悲な肯定に頭を抱えたくなる。その人物、その名は。
「――サタン、ですか?」
「そうだ」
短い返答は雪月の心を打ち砕くのには十分だった。元より勝ち目などなかったのだ。これは最初から、負け戦だったんだ。
「何で、悪魔が」
理解不能。一人の人間が、何故悪魔などという存在に目を付けられるのか、しかもその長に。考えれば考えるほど分からない。思考は堂々巡りを続けるばかりだった。そんな雪月を案じる様子もなく、柱は端的に問いを重ねる。
「何処で見た?」
「それは、」
上手く口が動かない。脳の処理が追い付かない。あまりにも一度に多くの事が起き、既に思考回路は限界へ近い。だが、そんな事情など柱が知る訳も無い。
「何処で会った?」
「その、」
鳥居の前だ、境内の出口だ。参道で、石段で出会った。そこで二回、二回も殺された。その相手が人間ですらないなんて、冗談も大概にして欲しい。そんな言葉は脳内のみで発せられ音にならない。
「何処で知った」
「あ……」
怖い、まるで尋問されているような感覚を覚える。声は低く、鋭い。普段の穏やかさは微塵もない、威厳とは違うこれは畏怖だった。
「何処で――」
「待ってください!」
霜柱のような声音が被さる。鋭く、強く柱の言葉を遮った。緋寒は座卓へ手を置き、身を乗り出している。整った眉は吊り上がり、愛らしい顔立ちを険しく歪めていた。その剣幕に、柱は赤い瞳を見開いて言葉を失っている。
「お待ちください。私は、雪月の話を聞いてみたいです」
緋寒は静かに体勢を戻す。場を支配していた緊張が一瞬だけ静止した。静寂が落ち、その中で緋寒は穏やかかつ冷静に口を開いた。藍白の瞳が雪月を捉える。そしていつものように口元を緩めた。
「雪月、休みたいなら休んでもいいの。お母さんはいつだって雪月の話を聞くからね」
不思議だった。先程まで荒れ狂っていた感情が、少しずつ鎮静していく。その言葉に溶かされるように張り詰めていた空気が緩んでいく。胸を締め付けていた重苦しさも、僅かに軽くなった気がした。
柱は深く息を吐き、平静を取り戻そうとしていた。やがて赤い瞳が雪月を映した。
「すまない」
短く、ぽつりと零れるような謝罪だった。その一言には焦燥や後悔が滲んでいるように感じられる。そこで漸く雪月は口を開く。ようやく話せる、そう思ったその時だった。
カラン、と軽い鈴の音が境内へ響き渡る。三人は同時音のした方角へ視線を向けた。そして聞こえてくるのは砂利を踏む足音。
「――見つけた!」
卯の花色の髪が、風に揺れていた。




