26話目 『生きてる』
――ガタン。と金属が激しくぶつかり合う。
音がした時には既に間近に迫って来ていたそれは、巨大な鉄の塊だった。鉄骨、そう鉄骨だった。 衝撃に身体が押し潰され、視界が点滅する。不思議と痛みは感じられない不思議な感覚だ。世界が静寂に包まれている。
「ぇ……ぁ」
声が出ない。赤黒い液体が徐々に広がり、地面を濡らしていく。これは、誰の物だ。
「……ぅ」
目の前にある腕は、誰の物だ。このストラップが付いた鞄は、誰の物だ。鉄骨から覗く黒い髪は、誰の物だ。
誰の、物だ?
嫌だ、どうして動かない? 動いてくれない? なぜまだ俺は生きている? なぜ死なない? どうして、どうして頭が動くんだ。嫌だ、嫌だ嫌だ。
初めてできた友達だったのに、さっきまで楽しく話してたのに、どうして、どうして?
――どうして世界は、俺から奪うの?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――ドクンッ
「あ”ぁ”ぁぁぁぁああ”ッ……ぅあ……」
その場へ崩れ落ちるようにしゃがみ込み、肩を抱き締める。現実を拒絶するように理解を拒むように。何故、どうして彼が死ななければならない。また失うのか、また奪われるのか、大切なものを、また。
ただ日常を送りたいだけだった。友人と笑い合って、他愛ない話をして、そんな当たり前を積み重ねたいだけだった。
なのに、どうしてどうしてそれさえ許されない。殺すのなら自分だけでいいはずだ。他の誰かじゃなくていい。
だから、殺すなら俺だけにしてくれ。
「――い、おい、聞いてるか?」
耳馴染んだ低い声。その声に引き寄せられるように顔を上げた。そこには、切望していた姿があった。
漆黒色の髪、紺碧の瞳。眉間へ皺を寄せながら雪月と視線を合わせ、その肩を掴んでいるのは雪桜だった。切実な声音が鼓膜を震わせる。
その瞬間、眼窩の奥から熱いものが込み上げてきた。何故生きているのか。どうして無事なのか、そんな事はどうでもいい。本当に良かった。本当に、良かった。
「生き……てる?」
「勝手に殺すんじゃねぇ」
ぶっきらぼうな返答。けれど、その物言いが酷く彼らしくて思わず口元が綻んだ。死んでいない、死んでいなかった。友人はまだここにいる。その事実だけで胸がいっぱいになる。
「立てるか?」
「うん、ありがとう」
差し出された手を取り、互いに立ち上がった。震える息を整えながら上を見上げる。そこには確かに鉄骨がある。だが頑丈なワイヤーで固定されており、崩落する気配など微塵もない。先程見た光景と現実が噛み合わなかった。
どういう事だ、時間が巻き戻ったのか。もし最初の事故も同じだったとしたら。もし時間が巻き戻っているのだとしたら、再び鉄骨が落下する可能性が。
そんな疑念が脳裏を過る、次の瞬間には身体が動いていた。咄嗟に雪桜の手を掴み駆け出した。
「お、おい」
困惑した声が背後から飛んでくるが立ち止まれない。工事地帯から離れなければいけない、今はそれだけだった。ただ無我夢中で走る。住宅街へ、人のいる場所へ、危険から遠ざかるように。
どれほど走っただろうか。気付けば周囲は住宅街に囲まれていた。鉄骨も、クレーンもない。工事現場の喧騒すら聞こえない。道中、鉄骨が落下したような轟音も響かなかった。何も起きていない。何一つ。
それなのに、胸の奥は不安と混乱で満たされていた。もう何も考えたくない、思考する事すら苦痛。身体は鉛のように重く強烈な疲労感が全身へ絡み付いている。手足から力が抜けていく。意識も霞んで、今にも瞼が落ちそうだった。
「ちょっとは説明を――」
雪桜が呆れたように口を開く。だが、その声もどこか遠い。もう限界だった。この疲労感に、この倦怠感に、そして抗いようのない睡魔に。
「っておい、お前――」
視界が大きく揺れる。足元の感覚が薄れていく。
すごく、眠い。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
身体が重い。この不快感は一体何なのだろう。深く、深く海へ沈んでいくように、重力そのものに引き摺られるように、意識が落ちていく。
暗く、黒く、底の見えない深淵へと――
「だいじょーぶ?」
聞き慣れない声に意識が浮上する。
ここは、どこだ。見知らぬ天井、見知らぬ壁。身体の下には柔らかな弾力があった。ベッド。そう、布団ではなくベッドだ。
「ねェ、聞いてるー?」
「いだっ」
状況を把握する間もなく、腹部へ重りのようなものが勢いよく落ち、思わず上体を起こした。その正体は少女らしき人物だった。
「ねェねェねー! 耳遠くなッちゃッたの?」
口を尖らせながら足をばたつかせる。肩口まで伸びた紫色の髪を広げた、癖のある毛先に紅色の瞳。年齢は小学生ほどだろうか、活発そうな少女だった。
雪月は改めて周囲へ視線を巡らせる。自分がいるのはベッドの上で横には椅子が置かれている。他は一般的な住宅と変わらない天井と壁。少なくとも再び施設へ戻された訳ではないらしい。
「いつまで無視すんの?!」
「ごめん!」
横腹へ軽い一撃が飛び、反射的に謝罪した。その痛みで意識が完全に覚醒する。思考がようやく動き始めた。
まず思い出すべきは、あの鉄骨事故だ。圧死、失血死か。そして死後に辿り着く、あの場所。墨を流し込んだような白黒の世界。名付けるなら、そう『水墨世界』だろうか。そこで激痛に耐えながら見たのは、全てが巻き戻っていく光景だった。
「ここはどこ?」
「家!お兄さん倒れたんだよ?」
「倒れた……ごめん、ここは誰の家?」
あの抗い難い睡魔。耐え切れず眠ってしまったのか。いや、気絶したと言った方が近いかもしれない。そこで雪月はある人物を思い出した。
雪桜、鉄骨に押し潰され、死んだはずの友人。それなのに生きていた。そして確か、確か一緒にいたはずだ。
「雪桜は?雪桜はどこにいるの?」
「俺ならここに」
ちょうどその時、寝室の扉が開いた。
現れたのは漆黒の髪と紺碧の瞳を持つ青年、雪桜だった。
「良かった……」
心の底から安堵する。思わず声が漏れた。
ならばここは雪桜の家なのだろうか、それともこの少女の家なのだろうか。
「ここは俺の家だ。お前の家とか知らねぇし近かったからな」
「そうなんだ、ありがとう」
どうやら雪桜の家らしい。ならばこの少女は誰なのだろう。もしかして親戚か、あるいは妹、もしかしたら子供なんてことも……
「そいつは保護してるだけだ。出て行かないから困ってる」
「ひどーい!乙女になんて事言うのさァ!」
「鏡を見ろ」
頬を膨らませて抗議する少女。それを雪桜は一蹴する。あまりにも自然なやり取りに長い付き合いなのだろうと容易に想像できる。優しい彼の事だ、本当に保護しているのだろう。
「お前が倒れて丸一日だ。腹減ったろ」
雪桜が持って来たのは四角い盆だった。その上には湯気の立つおかゆと水。サイドテーブルへ静かに置かれる。漂う香りに腹の虫が鳴った。喉も渇いており、空腹も酷い。本当に丸一日眠っていたらしい。
「これは雪桜が?」
「そ、久しぶりに作ったから味は分からねぇけど」
どうやら味見はしていないらしい。自信家な彼らしい、そう思いながら木製のスプーンを手に取った。
一口、口へ運ぶ。不思議な味だった。微かに甘い、だが優しい。空腹で疲弊した身体へ静かに染み渡るような味だった。
「どーだ、美味いだろ?」
「美味しい。これは……牛乳?」
「そ、母の受け売りだ」
「へぇ、珍しい……」
おかゆを口へ運びながら、ふと疑問が脳裏を掠める。
あの後、雪桜は本当に何事もなかったのだろうか。そもそも二度目の事故に巻き込んだ原因は自分ではないのか。二日連続で事故に遭うなど異常だ。偶然で片付けるには出来過ぎている。
「雪桜は大丈夫だった?」
「俺は倒れてねぇよ?走っただけで倒れる虚弱体質でもねぇし」
「それはごめん……」
的外れな心配だったらしい。遠回しに棘を刺され、雪月は苦笑する。
そのままおかゆを食べ切った。そして自然と視線は椅子に座る少女へ向く。その子は足をぶらぶらと揺らして退屈そうにしていた。
「君の名前は?」
「オレ? んー、ルミ!」
「ルミ?」
一瞬だけ間があったが、少女――ルミは満面の笑みを浮かべている。その無邪気さに、雪月も思わず口元を緩めた。
元気で愛嬌のある子だ。保護されていると言っていたか、詳しい事情は知らない。その境遇を思うと胸が少し痛んだ。
「帰れるか? 親御さん心配してるんじゃねぇの」
「そうだ! 大丈夫帰れるよ」
会話の区切りを感じたのだろう、雪桜がそう問い掛ける。
その言葉で雪月も現実へ引き戻された。丸一日、丸一日も眠っていたのだ。母が心配していないはずがない。慌ててベッドから立ち上がり、帰宅の支度を始める。
「またぶっ倒れたら救急車でも呼んどけよ」
「うん、ありがとう」
そうして短い会話を交わし、雪月は雪桜の家を後にした。夕暮れへ染まり始めた街並みの中、帰路へ向けて歩き出す。
胸の内には未だ消えない疑問が残っていた。だが今は何よりも先に、母の待つ家へ帰ろうと思った。




