24話目 『たったそれだけ』
いつものように境内を抜けようと鳥居を潜る。長く幾段にも連なる石段。ここから転げ落ちれば、一溜まりもないだろう。そんな最悪の想像を頭から振り払うように、一歩目を踏み出した、その時だった。
肩に、触れられた。
「うわっ!?」
心臓が大きく跳ね上がる。反射的に、その手を勢いのまま振り払った。
刹那、均衡を失った身体が空中へ傾く。先程脳裏を過った光景と同じだ。落ちれば麓まで止まる事はない。石段の角へ何度も叩き付けられ、身体を砕かれるだろう。脳裏に浮かぶ惨状へ背筋が凍る。
雪月は固く瞼を閉じ、迫り来る衝撃へ身を強張らせた。
「少年!!」
鋭い声が響く。
同時に、咄嗟に伸ばされた手が雪月の腕を力強く掴んだ。右足で石段を踏み締め、倒れかけた身体を無理矢理引き戻す。次の瞬間、雪月の身体は石段ではなく砂利道へ投げ出されていた。二人分の体重が掛かったせいか、下駄が石段を擦る鋭利な音が境内へ響く。
しばし呆然とした後、雪月は何が起きたのか確かめるように顔を上げた。視線の先、そこには緋色の髪を揺らした人物が立っている。赤い瞳は焦燥と驚愕に見開かれ、肩で荒く息をしていた。
「無事か?」
柱は深く安堵の息を吐く。そして体勢を立て直すと、雪月の前へ膝を着いてしゃがみ込んだ。大きな掌が差し出される。まるで包み込むような優しい仕草に、雪月は迷う事なくその手を取り引き上げられるようにして立ち上がった。
「は、はい……ごめんなさい」
「声を掛けるべきだったな。気が回らずすまなかった」
明らかに非があるのはこちらだ。それにも拘らず、柱は自らを責めている。普段は二メートル近い巨躯を誇るその身体が、今だけは何故か小さく見えた。
「俺が勝手に勘違いして、本当にごめんなさい」
乱れた着物を整える柱へ向けて、雪月は深く腰を折る。酷い被害妄想だった。善意で声を掛けてくれた相手を危険へ巻き込むなど、あってはならない。一歩間違えば落ちていたのは柱の方だった。そうなっていれば、どれだけ悔いても悔やみ切れない。
「顔を上げなさい」
その言葉と共に、柱もまた躊躇なく砂利へ膝を着いた。視線を合わせるように、両肩へ手が添えられる。
雪月は恐る恐る顔を上げた。神らしい威厳など微塵も感じない。それなのに、不思議だった。どうしてか身を委ねたくなる、そんな安堵感があった。
長い睫毛に縁取られた瞳が柔らかく細められる。口元には穏やかな微笑。落ち着いた声音が耳へ届く度に、荒れていた心が少しずつ鎮静していく。
「少年、急かすつもりは無い。今日は私の呼び名について話したかっただけだ」
「呼び名、ですか?」
肩から手が離される。そして何事もないように話を切り出した。たったそれだけの為に呼び止めたのか。思わずそう感じてしまうほど、他愛のない話題だった。
「天之御中主神と呼ぶのは少々長すぎるだろう?だから天と呼びなさい」
「天……様?」
「様と付けられるのは好きでは無い」
「天さん……」
「うむ」
呼び名一つに拘り、ただ一人の為に真剣に思案する。そんな事の為だけに時間を割く神など、本来いるのだろうか。少なくとも雪月の知る限り、そんな存在はいない。こんなにも善意に満ちた神を、どうして疑えようか。
「人間と言うのは頭文字を取るのを好むと聞いてな」
「すごく呼びやすいです」
「そうか。昨夜思案した甲斐があったな」
満足そうに頷きながら立ち上がる。
砂利の付いた着物を軽く払い、腕を組んで確認するようにもう一度頷いた。その様子はどこか誇らしげで、思わず笑みが零れそうになる。
気付けば胸を締め付けていた緊張は薄れていた。あれほど執拗に纏わり付いていた死の感覚、胸の奥を圧迫していた閉塞感、それらが嘘のように薄れている。驚くほど自然に、穏やかに。この柱がそこまで察していたのか、あるいは本当に呼び名の話をしたかっただけなのか。その真意は本人のみぞ知るところだろう。
だが一つだけ確かな事がある。自分は救われた、それだけは紛れもない事実だった。
「ありがとうございます、天さん」
「良い。気を付けて行って来なさい」
「はい、行ってきます」
呼び名というものは侮れない。たった一つ変えただけ。それだけの事なのに、不思議と心の距離が縮まったような感覚があった。
畏怖でも、敬意でもない。もっと親しみに近い何か、そんな感情が胸の内に芽生えている。
再び境内へ背を向けた。朝日に照らされた参道を抜け、いつもの通学路へ足を向ける。穏やかな風が頬を撫でる。その足取りは、軽かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
人が疎らに集まる一角。
雪月は足を止め、目的のガチャコーナーを見つけた。ガチャを眺め、中を確認する。どうやら早朝の内に補充は済まされていたらしい。昨日のような混雑もなく、難なく引けそうだった。
財布を取り出し、コイン投入口へ硬貨を滑らせ、ハンドルを回した。小気味良い音が響き、出口からカプセルが転がり出てくる。
ガチャを回すのは人生で初めての体験だった。たった一度捻るだけ、それだけの行為なのに胸が躍る。なるほど、これが流行するのも理解できる気がした。
「んな朝早くに何してんだ?」
不意に背後から声が掛けられ肩が僅かに跳ねた。早朝から驚かされてばかりだ。カプセルを握り締めたまま振り返ると、そこには制服を着崩した乳白色の髪の青年が立っていた。
暗黒色の瞳が真っ直ぐ雪月を捉えている。梅忌だった。
「これを引いてて」
「あー、これか」
雪月の背後にあるガチャへ視線を向ける。
納得したように頷くと、今度は雪月の手元にあるカプセルを指差した。
「何だったんだ?」
「今開ける所です」
「じゃ歩きながら開けようぜ」
そう言い放ち、梅忌は先に歩き出す。雪月もそれを追うように隣へ並んだ。歩きながらカプセルを開けようとする。だが思った以上に固く、指先へ力を込めても中々開かなかった。
「貸せ」
梅忌はそう言って手を差し出す。
指先が触れないよう上半分だけを摘まみ取り、軽く観察した。そして一捻りすると、先程までの苦戦が嘘だったかのようにあっさりと開いてしまう。
「すごい……」
「コツがあんだよ」
中から現れたのは、全身を赤く染めたストラップ型のみゅーもだった。
「これ流行ってんだよな」
「そう、友達にプレゼントしようかなって」
「へぇ……」
梅忌は紐の部分を摘み上げる。顔の前まで持ち上げ、まじまじと眺めた。だがその表情を見る限り、可愛いとは思っていないらしい。むしろ理解に苦しんでいる側だろう。
数秒後、宙から落とすように雪月へ返した。慌てて両手で受け止め、落とさない内にとカプセルごと鞄へ仕舞い込んだ。
「そういや、お前昨日もガチャ見てたよな」
「え?あぁ……そうだね」
昨日。
それは事故が起きる直前の事だろうか。あの場面を見られていたとは思わなかった。
「いつもあの時間に帰るんですか?」
「大体な」
「そう、ですか」
昨日と今日。
二日続けて居合わせたのは偶然なのだろうか。雪月は横目で梅忌を見る。前方へ視線を向けたまま歩くその姿からは、嫌悪も憎悪も感じられない。至って自然で普段通り。だがもし、それすら演技だったとしたら。
そこまで思考が及んだ瞬間、首を横へ振った。違う、考え過ぎだ。疑心暗鬼に囚われてはいけない。そもそも確かめる方法ならある。帰宅時間を変えればいい。そうすれば昨日の一件が本当に不慮の事故だったのか、ある程度判断できる。単なる偶然だったと分かれば、それでいい。そう自分へ言い聞かせた。
胸の奥に残る微かな不安を押し込めながら、雪月は梅忌と共に高校への道を歩いていった。




