23話目 『ワクワク不眠』
――刹那、全身を貫くような衝撃が走った。
横合いから迫った鉄の塊が、その身を容赦なく撃ち抜いた。
身体が軽々と宙へ投げ出される。視界が反転し、世界が歪む。
転がる、転がり、転がった。何度も、何度も、まるで玩具のように。そして、耳を劈くような悲鳴が響いた。
誰かの叫び声、誰かの絶叫。
それは夕暮れに染まる街並みへ広がり、平穏だった日常を無惨に轢き裂いていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
何が、起こった?何で、こんな場所に寝てる?
信号を、待っていた。待っていて、それで、
声が、出ない。体が、動かない。
車が歪んで滲んでいく。人が溶けて混ざっていく。
――ああ、また、ここにいる。
痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
折れた腕が捻られ戻される。痛い。
折れた足が捩り戻って行く。痛い。
刺さった肺から、骨が抜き戻って行く。痛い。
アスファルトに、鉄に、人に撒き散らした鮮血が、体内へと戻って行く。
骨が繋がる。肉が繋がる。神経が繋がる。皮が繋がる。
戻り、戻って、
戻って、生く。
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――ドクンッ
「あ”がッ、ぐ、ぁ”ぁ…ッ」
体を抱いた。腕は、折れていない。足も折れていない。捻れてもいない。
戻っている。全てが、何事も無かったかのように。
「何だ、よ……」
轢死。そのまま歩道に転がり込んだらしい、寝転んでいる雪月を道行く人皆が怪訝な表情で眺めていた。
そう。驚愕、焦燥、憐憫、そんな類いでは決して無い。不審、奇異、そんな類いの。そう、だから、どうして、何故。
「何で……何で、どう、何が……」
事故など、無かった。事故など、起こらなかった。
無かった事に、されていた。
「俺は……轢かれて、体が、飛んで」
時間は、時刻は、人は、物は。何か一つでも手掛かりは無いのか。信号は、赤のままだ。そうだ、轢いた車は?
「ない……ない、車も、何も」
死んだ出来事が、事象が、無かった事にされているのか。都会の風景は日常へ戻っていた。連鎖した事故も、行き交う人々も、物の破損も、全てが。
ガチャも、変わらない。いや違う。今は、売り切れていた。
「は……」
ああ。偶々、偶然、誰かの肘や鞄が当たったのかもしれない。あれだけ人が集まっていたのだから、その程度存在するだろう。
だって、ほら。再び信号の前に立とうとも何も起こらないじゃないか。誰かの不注意が招いた、そんな事故だ。
そうだ、そうに決まっている。帰ろう。夕食は、何だろう。ああ、カレーとか、いいな。揚げ物とか、良さそうだ。デザートとか、甘い物、食べたいな。
そう。そうなんだ。きっと。何も無かったんだ。
「帰ろう……」
ああ。平和だ。
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味を感じられない。
あれほど楽しみにしていた夕食は、予想通りカレーだった。母が作ってくれたらしい。ごろごろと大きな野菜はじっくり煮込まれ、ルーの旨味をたっぷり吸い込んでいる。きっと美味しいはずだ。だが今は泥と粘土を頬張っているようだった。
「雪月?顔色が悪い。何かあったの?」
覗き込むように向けられた藍白の瞳は、純粋な心配と優しさに揺れている。
いっそ全てを打ち明けてしまいたかった。胸の内を吐き出してしまえれば、どれほど楽だろう。だが、どうしてそんな事が出来るだろうか。心配を掛けたくない。母に打ち明けたとして何が変わるというのか。何より、何も起きていないのだから信じて貰える訳が無い。
「ごめん、勉強が難しくて」
「そっか、高校生だもんね」
苦し紛れの言い訳だった。ほとんど反射的に口を突いて出た嘘。それでも母は疑う事なく頷いた。口を噤んでいる緋色髪の柱を窺う様に見る。赤い瞳に不審や猜疑の色はなく、ただ息子を案じるような穏やかな感情だけが宿っていた。
あれは不慮の事故だった。誰が悪い訳でもない。そう理解している。理解しているはずなのに、脳裏に焼き付いた死の感覚だけがどうしても離れてくれなかった。
吐きそうだ。スプーンを持つ手が震えて堪らない。雑念を振り払うようにカレーを口へ運ぶ、その時には既に冷めていた。冷たいそれを作業のように平らげ、食器を片付けていった。
「ごちそうさまでした」
一人と一柱。
視線を合わせる事なく席を立つ。このまま部屋へ戻ろう、さっさと眠ってしまえばいい。翌朝になれば、全て良くなっているかもしれない。そんな僅かな期待に縋るようにして、今日という一日へ終止符を打とうとしていた。
「緋寒、少年は」
「……もう少しだけ、見守りましょう」
「分かった」
木製の廊下を歩く途中。そんな声が聞こえたかもしれない。ただ淡々と、歩いて行く。
楽しみにしている事があった。
そうだ、明日は早朝に起きてガチャを引く。そして雪桜へ贈り物をする。そんなありふれた高校生活を送るのだ。友人へ何を渡そうか考えて、どんな反応をするのか想像して、たったそれだけの事で胸を躍らせる。
そんな日常を、そんな『普通』をようやく手に入れたのだから。
布団へ潜り込む。だが瞼を閉じても意識は冴えたままだった。
翌朝が楽しみで仕方ない。どんな反応をするだろう、喜んでくれるだろうか。それとも、何処で買ったのかと驚くかもしれない。無事にガチャは引けるだろうか、売れ残っているだろうか、補充はされているだろうか。考えれば考えるほど期待が膨らんでいく。
楽しみで、楽しみで。どうしても、眠れなかった。




