22話目 『みゅーも』
翌朝。
現在は朝食を頂いていた。あの後、空き部屋を貸してもらい、一時的な自室として使わせてもらっている。
どうやらここは小高い丘の上に建つ神社らしい。外へ出れば鳥居や手水舎、賽銭箱が点在しており、静謐な空気が境内を包んでいる。この屋敷は本殿に近い立ち位置なのだろうか、拝殿の後方に建てられていた。ここへ参拝に訪れる人々も、まさか神そのものが暮らしているとは思うまい。
雪月もまた、未だその現実を完全には受け入れ切れていない人物の一人だ。
「天之御中主神……様、これは何処に片付ければ?」
「気軽に呼びなさい。それは私が片付けておこう」
「良いんですか?」
「構わん」
「ありがとうございます」
気軽に呼べと言われても難しい。本能的な畏怖が先に立ってしまうのだ。それでも、食後の食器を慣れた手付きで片付けていく姿を見ていると、不思議と親近感も湧いてくる。
神でありながら、どこか人らしい。その姿に少しだけ肩の力が抜けた。ここは好意に甘える事にして、いつも通り登校の準備を始める。夜中に再び施設の関与を思わせる出来事も、不気味な異音も聞こえない。
平和な日常へ戻って来られたのだという実感が、胸の内を静かに満たしていた。
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
「いってきます」
目の前にいる母もまた、取り戻した日常の一部だ。
十七歳の高校生。神社暮らしという少々特殊な事情さえ除けば、その生活はきっと『普通』に近い。
引き戸を開け、外へ出る。境内の景色はまだ新鮮だった。
砂利道を踏みしめながら歩き、念の為に鳥居の正中を避ける。そして長く続く石段をゆっくりと下り始めた。参道と呼ぶべきだろうか。両脇には木々が立ち並び、朝日に照らされた緑が静かに揺れている。澄んだ空気と相まって、その光景はどこか荘厳さを感じさせた。そうして境内を抜ける。
やがて見慣れ始めるだろう『通学路』へ足を踏み入れ、雪月は高校へと向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「最近こういうのが流行ってんだってよ」
「そうなんだ」
昼休憩。席が前後という事もあり、食事も雪桜と共に過ごしていた。今は街中で何が流行っているのかという、ありふれた話題で盛り上がっている最中だ。
「可愛い?のかな、これは」
「感性の問題か……?」
彼のスマホに映し出されているのは、現在流行中の『みゅーも』というグロカワ系キャラクターだった。犬特有の垂れ耳に、片目が零れ落ちた不気味な造形。およそ愛らしいとは言い難い見た目だが、それが若い世代を中心に人気を博しているらしい。全身には煌びやかな装飾が施されており、その毒々しさと可愛らしさの同居が魅力なのだとか。
流石の雪桜も、紺碧の瞳を細めながら理解に苦しんでいるようだった。
「流行りとかそーゆーの、身に付けたらモテっかな?」
真剣な目付きでそのキャラクターを見定めた後、顎に手を添えて純粋な疑問を口にした。
「話し掛けてくれる人は増えそうだけどね」
「可愛く感じて来たかもしれねぇ」
「可愛い……かなぁ」
何度見ても感想は変わらない。どう考えてもグロテスク寄りである。雪月は首を傾げながら画面を見つめた。
「ほら見ろよこの形状、丸い。」
「うん。可愛いかも」
そうした他愛ない談笑を交わしている内に、昼休憩の終わりを告げるチャイムが校舎へ響き渡る。穏やかな空気は徐々に薄れ、教室は再び授業の空気へと切り替わっていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「平和だなぁ……」
その後も何事もなく授業は終わり、雪月は帰路についていた。思わず零れた呟きに、自身でも気付かぬ内に口元が緩む。
友人と他愛ない会話を交わしながら過ごす昼休み。今夜の夕食は何だろうかと考えながら歩く帰り道。そんな当たり前の時間さえ、雪月にはどこか眩しく感じられた。
ふと街中へ視線を向ける。するとそこに、『みゅーも』のガチャガチャを発見した。
「あげたら喜ぶかな」
贈り物を受け取った時の雪桜の反応を想像しながら、ガチャの残数を確認しようとする。だが流石は流行の品だ。周囲には人だかりが出来ており、容易に近付ける状況ではなかった。
今日は近寄る事すら難しい。そう判断した雪月は、名残惜しさを抱えながら再び通学路へ戻る。
明日、早朝に家を出て引いてみよう。
あるいは店舗で探してみるのも良いかもしれない。
そんな期待が胸中で静かに膨らんでいく。信号待ちの間も、頭の中では明日の段取りを組み立てていた。朝食を少し早めに済ませ、人通りの少ない時間帯にここへ来る。主に女子高生の間で流行しているのなら、朝なら競争率も低いだろう。難なく手に入るはずだ。
ああ、楽しみだ。
何が出るだろうか。何だって喜んでくれるかもしれない。『普通』の高校生活とは、こんなにも小さな楽しみで満ちているものなのだろうか。
希望に満ちた日常。穏やかで平穏な時間。それをようやく手に入れられたのだと、雪月は確かに感じていた。
「――ぁ」
背中へ軽い衝撃が走る。
その瞬間、身体が容易く前方へ投げ出された。思考が追い付くよりも早く、景色が大きく傾いた。
赤、だった。




