16話目 『二度と取り零さない』
ねんねこ ねんねこ 愛しい子
星の花びら 舞うころに
遠きみんな 眠るころ
月の兎も 夢を見る
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平和だ。
何も無い、白一色の空間と大きな木のある空間、それだけの世界。母と、僕さえいれば他には何も望んでいなかったのに。
いつからだろうか、平和が音も無く崩れたのは。
「おにい〜?」
「こっち来るなってば!」
初めての妹。初めての生き物に煩わしさしか感じられなかった。どうして後を着いてくるのか。その小さな体でどうして歩けるのか分からなかった。
追い払えど後を着いてくる姿は、今思えば『雛鳥』のようだったかもしれない。
「うさぎ?」
「うん、これは……雪兎かな?」
初めての生き物、ペットだろうか。妙に不思議で可笑しくて、小さくて丸くて一目惚れしたんだ。確か『ましろ』、と名前を付けたんだったな。
「どこでその子を……?」
「ましろ!あそこにね、いたの」
「かわいいよね〜!」
母は喜んではくれなかった。そして、当時ましろは試験的に与えられた物だと知っていた。だからこそ守りたかったんだ。『妹』を使ってでも、ましろを。
「おいで、ましろ!」
気付けば毎日会いに行き、餌を与えていた。小さな体で懸命に走ってくる姿が好きだった。小さな口で、小さな前足で甘えてくるその姿が大好きだった。初めての大切な物に、『愛情』を抱いた。
「お葬式を、してあげましょうねえ」
だからましろを殺された時は酷く絶望した。初めての感覚に戸惑いもした。愛した物を壊されるのは、良い気分では無かった。良い気分ではなくて、そう。
『憎い』、この感情を知ったのはこの日が初めてだった。
「おにい?」
壊れたのはもう少し後だった。
あの日以来、薬品の投与が頻繁に行われた。嫌でも、抗っても続いた地獄に心身共に限界だった。妹と共に、母と共に『抜け出したい』と、そう思った。
「大丈夫、大丈夫だからね」
すぐに後悔した。目の前の赤い景色に酷く絶望したからだ。母の腹から血が流れ、駆け寄ろうとした。
それは、『口』を閉められ叶わなかった。
平和が崩れたのはいつからだっただろうか。
『妹』を妹と思った日からか。それとももっと前か、後悔しかない人生だ。
悔み嘆き憤り、繰り返す。そんな人生は退屈では無かった。退屈では無い人生は、愛する物を奪っていく。
そんなのは、苦しかった。
だから思った。
俺は『普通』に、退屈に生きたいと。
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「はっ……」
ひんやりとした白く細い掌。頬へ添えられたその柔らかな感触が心地良い。ずっと、このまま時が止まってしまえばいいのにと思えるほどに安寧に満ちた空間だった。
朧気だった意識がゆっくりと浮上してくる。そして同時に猛烈な羞恥心が胸中から込み上げた。
「ご、ごめん!なさい」
慌てて上体を起こす。すると彼女は微かに口元を綻ばせ、穏やかな声で問い掛けてきた。
「思い出せた?」
その姿は記憶の中と寸分違わない。雪月が焦がれ続けた母親の姿だった。
刹那、堰を切ったように溢れ出す。死の恐怖が、命を侵食される悍ましい感覚が。喰われ、溶かされ、壊され、何度も何度も絶望を味わった記憶が胸の奥底から噴き出して止まらなかった。眼窩が熱く、視界が滲む。気付けば涙が頬を伝っていた。
怖かった。死にたくなかった。生きたかった。悲しかった。苦しかった。辛かった。しんどかった。痛かった。熱かった。寒かった。全部、全部だ。何度も繰り返された。終わりなんて見えなかった。もう諦めてしまおうかとも思った。
でも、だが、生きたかったんだ。
「辛かったの?」
「辛かった」
「苦しかったの?」
「苦しかった」
「そう」
優しい声だった。どこまでも穏やかで、どこまでも温かい。
「すごく頑張ったね」
「うん……頑張ったよ」
涙で顔を濡らしながら胸元へ抱き寄せられる。鼓動が聞こえた、温もりがあった、確かな体温があった。生きている。その当たり前の事実が、今は何よりも尊かった。再確認した瞬間、張り詰めていた心が決壊する。まるで幼子へ戻ったかのように堪えていた感情が滂沱となって溢れ出した。
母親の愛情があった。ずっと切望していた温もりがあった。ずっと会いたかった人が、そこに居る。その現実が嬉しくて。
この人生、母を目の前で失ってから空いていた心。それが満たされていくようで。大切な物を二度と失いたくない、また失えば今度こそ壊れてしまうのではないか。
――しかし、束の間の安寧さえもこの場所は容赦なく引き裂いていく。
「何だ……?」
轟音だった。倒壊によって生じた轟音。防音遮音壁さえ貫通するほどの爆音と振動が周囲を揺るがしていた。
突如として訪れた異変に二人は同時に立ち上がる。視線を交わす。言葉は無いが、互いに理解していた。
やがて合意を示すように頷き合うと、雪月は服の裾で涙を拭い去る。覚悟を決め、扉へ向けて足を踏み出そうとした、その時だった。引き留めるように服の裾が摘まれる。
「雪月、きっと『鬼』が出てきてる。すごく危ない」
眉尻を下げ、心の底から案じるように母はそう告げた。その声に宿る憂慮も、危険へ巻き込みたくないという想いも痛いほど伝わってくる。
分かっている、理解している、だが母を失うくらいならば。
「大丈夫。死ぬ気で生きるから」
雪月は微かに口元を緩めた。安心させるように、不安を拭うようにその白く細い掌へ自身の手を重ねる。優しく握り、そっと離させた。
母は胸元へ手を添えたまま俯く。沈黙と短い逡巡。やがて諦めたように、静かに首肯した。
「危ないと思ったら戻ること。いい?」
人差し指を立てる。それは忠告、願い、祈りでもあるだろうか。
雪月は小さく笑う。そうだ、昔からこの人は心配性だった。どれだけ時が経っても変わらないと懐かしみ、その指先を優しく握る。
「約束、だよね」
藍白色の瞳が大きく見開かれた。やがて、安堵したように眉尻を下げる。穏やかに微笑み、そして半歩だけ後ろへ下がった。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
約束を交わす。言葉を交わす。
その何気ないやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。
雪月は踵を返す。振り返らない。振り返ってしまえば、きっと足が止まる。だから前だけを見る。
そして恐らく最後となる戦いへ向けて、一歩を踏み出した。




