12話目 『でらでりでるでれでろでた』
《第二区画》
手前のレバー部屋を『第一部屋』、奥のレバー部屋を『第二部屋』、そう呼称する事にした。
現在、二人と一匹は『第一部屋』のレバーの前に立っていた。やるべき事は決まっている、レバーを引くことだ。それだけのはずなのに、雪月の胸中から緊張が消える事は無かった。
第三区画のあの男との戦闘。あの異様な存在と同等、あるいはそれ以上の敵が現れたなら今度も上手く切り抜けられる保証など無い。そんな不安が脳裏を離れなかった。
そしてもう一つ、足元の存在だ。
「君は大丈夫、だよね?」
雪月は犬の両脇を抱える。ひょい、と持ち上げられた犬は抵抗する事も無く宙へ浮いた。ぶらりと胴体が伸び、短い脚も力無く揺れる。それでも不満そうな様子は無く、むしろ楽しそうだ。
黒いビー玉のような瞳が雪月を見つめている。包帯の場所を教え、襲っても来なかった。ここまで来ると疑う方が難しい、少なくとも雪月にはそう思えた。
「俺が抑えようか?」
梅雨が口を開く。雪月の懸念を察したのだろう。
その怪力ならば犬一匹押さえ込む事など容易い。
「……大丈夫。レバーを引いてくれる?」
雪月は首を横に振った。良心が咎めたのだ。何もしていない犬を警戒し続ける事に、どこか罪悪感を覚えていた。
「雪月がその……ソレ持ってるの?危ないよ」
「大丈夫だよ。ずっと懐いてくれてるみたいだから」
油断なのかもしれない。警戒を解くには早過ぎるのかもしれない。それでも可愛いものは可愛い、それに抗うのは案外難しい。
梅雨は何とも言えない顔をした。眉尻を下げそれを見た後ただ小さく頷き、レバーへ手を伸ばした。
赤い持ち手を握り、躊躇無く引き下ろした。
「どうなる……」
雪月は周囲を見渡した。耳を澄ませる。僅かな物音すら聞き逃さぬよう神経を研ぎ澄ませた。衣擦れ、自分達の呼吸、全てへ意識を向ける。しかし何も起こらなかった。静寂、ただそれだけだ。
犬も変化ナシ。黒い瞳でこちらを見上げているだけだ。赫く染まる事も、牙を剥く事も無い。ただ尻尾を揺らしていた。
「何も起きないね」
「うん、なんもない」
二人は顔を見合わせた。警戒を続けたが異変は無い。
結局そのまま『第一部屋』を後にした。廊下へ出て何度も振り返り部屋を確認する。しかし何者かが現れる事も、物音が響く事も最後まで無かった。
「次に行こー!」
「遠足じゃないんだから」
梅雨が元気よく前を向く。緊張感などどこかへ置いてきたような声音だった。雪月は思わず苦笑が零れるも、責める気にはなれなかった。
気持ちは分かる。雪月自身、あの戦闘から張り詰め続けている。集中力も限界に近い。このまま何も起こらないのなら、それが一番良かった。
犬は相変わらず雪月の足元を歩いている。梅雨は相変わらず時折梅雨を睨んでおり、犬は睨み返していた。小さな唸り声を上げて。
「コイツ……」
「喧嘩しないで」
思わずそう言うと、一人と一匹は同時に視線を逸らした。まるで図星を突かれた子供のように。その様子がどこが可笑しく感じて雪月は小さく笑う。不貞腐れたように見えた犬を腕に抱えて機嫌を直してもらった。
本当に束の間の安堵かもしれない、でも今はそれに縋りたい。第二のレバーが眠る『第二部屋』へ向かいながら、そんな事を思った。
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「梅雨、お願い出来る?」
「任せて!」
『第二部屋』へ移動し、現在レバーの前だった。先程の部屋で何も起きなかったからか、幾分か気が楽になっている。張り詰めていた神経も少しだけ緩んでいた。
だからだろうか、その違和感に気付くのが遅れたのは。
梅雨は言われた通り赤い持ち手を握る。そして迷い無く引き下げた。
「何も無いね」
「音も聞こえない」
耳を澄ませる。だが物音一つ聞こえない。足音も、咆哮も、異形の気配も、何も。まるで肩透かしだ。第二区画はサービス部屋なのだろうか。そんな事を考えながら雪月は踵を返した。部屋を後にしようとする。
その時だった。
――がぶりと何かが食い込んだ、鋭利な何かが。肉を裂き、骨へ届かんとばかりに深く。
「……は?」
理解が追い付かなかった。視線を落とす。腕の中、そこには犬が居た。先程まで尻尾を振っていた小型犬、黒い瞳をしていた小さな生き物。
それが赫く、赫い双眸で雪月の手へ牙を突き立てていた。
「ぅ、ぁ……」
何故、どうして。理解出来ない、だが。
次の瞬間理解より先に痛みがやって来た。
「あ”、ぁぁああああッ!?」
熱い、痛い、焼ける、砕ける、喰われる。
肉を引き千切られている。神経を直接啜られている、そんな錯覚すら覚える。犬は離れない、ただ噛み付いているだけではない。喰っていた。明確な意思を持って
雪月を、喰おうとしていた。
「雪月!?」
先に廊下へ出ていた梅雨が振り返る。青い隻眼が見開かれ状況を理解する。そして即座に駆け寄った。
「雪月!!コイツっ!」
犬を掴み引き剥がそうとする。だが出来ない。無理に引けば親指ごと持って行かれると、それが分かった。だから口を開かせようと顎を掴み、力を込める。開かない。びくともしない。まるで万力だった。
熱い、熱い熱い熱い熱い熱い。
体が燃えるようにあつい。内臓が沸騰しているようにあつい。あつくて、あついのか、わからない。
何度も犬を叩く、蹴り、殴るがそれでも離れない。痛みを感じていないかのように、何事も無いかのように。
ただ喰い、喰らい、喰う。その意思だけを向け続けている。
「あ”…ぁ、」
どこが痛い、何が痛い、分からない。腕か、指か、神経か、頭か、全部か。
熱い寒い痛い分からない理解出来ない寒い寒い寒い寒い寒いどうしてどうしてどうして。
「雪月?!ねえ!雪月!!」
さっきまであんなに懐いていたのに
さっきまであんなに
どうして、どうして、どうしてどうし
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寒い熱いこの感覚を知っている理解出来る
これは毒だ、毒だ毒だ痛い熱い寒い震える、震えて震えて震えてどうにかなってしまいそう
身を捩って頭を叩き付けて骨を折るほど暴れたい
少しでも痛みを分散させて、逃がしたい、体が動かない、動いてくれない
声を上げたい、叫びたい喚きたい泣き叫びたい喉が開かない声にならない
白、黒、しろ、くろ、滲む、溶ける、歪む、戻る、描かれる、塗り潰される、墨、墨、墨が滲、世界が墨に溶けて
しぬ、しんじゃうたすけておねがいもう嫌だ、痛いのは嫌だだれかだれか動かして、動いて声を、声を出させて叫ばせて喚かせて
出る、出る、出る、毒が出る、痛い痛いいあい
神経を突きやぶる、血管をつきやぶる、にくをつきやぶる、ひふをやぶって毒がでる、出て、出て、出え、でて、でて、でて、でえ、え
いあいいたいいたいいいい
やめてやめてやええ、や、あ
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――ドクンッ




