10話目 『束の間の勝利』
「勝っ…た?」
「勝った!」
赤く濡れた右腕を眺めながら、梅雨は呆然とした声を漏らした。目の前では男が力無く倒れ伏している。呼吸は無く、立ち上がる気配も無い。確かに終わったのだ。
それを肯定するように雪月は声を上げ、金の玉へと繋がる紐を手放したまま梅雨の元へと駆け寄った。
「ありがとう、梅雨……さん?」
「えー、呼び捨てにしてよ!敬語もなし!」
「分かった」
体力には自信のある梅雨ですら肩で息をしていた。寝間着は塵に塗れ、頬には破片による幾筋もの擦り傷が走っている。それでも彼は笑っていた。何事も無かったかのように、無邪気な子供のように。
その笑顔が妙に可笑しくて、雪月もつられるように口元を緩めた。
壁は破壊されており、床には大小様々な瓦礫が散乱していた。本来よりも無駄に広くなった空間。そこへ二人の笑い声だけが静かに響いている。
「戻ろう、桜羽達が待ってるかも」
「疲れてない?俺が抱っこしようか」
「それは大丈夫かな」
「えー」
梅雨は露骨に不満そうな声を漏らした。右腕に付着した血液を服で乱暴に拭い、両腕を広げてみせる。雪月は苦笑しながら首を横に振り遠慮した。
粉塵の降り積もる廊下へと歩き出す。その横を梅雨が当然のようについて来る。まるで最初からそうだったかのように。
長い戦いだった。
実際の時間はそうでもないはずなのに、雪月には酷く長く感じられた。もしあの予知のようなものが無ければ、金の玉を相手へぶつけるという発想すら生まれなかっただろう。梅雨との一騎打ちも止めていたかもしれない。
だが同時に、疑問も尽きなかった。
「雪月、ここを出ても俺と話してくれる?」
「今更そんなこと気にするの?」
「俺にとっては大事なの!」
真剣な声音だった。あまりにも真っ直ぐな言葉だった。だから雪月は思わず笑ってしまう。束の間の安寧を享受して何が悪いのだろう。今だけは、この穏やかな時間に身を委ねてもいいはずだ。
「いいよ。梅雨のこと覚えてない俺でもいいなら」
「やった!大丈夫、俺は雪月がいいんだよ」
迷いの無い返答。即答だった。
青い隻眼が真っ直ぐにこちらを見て、その視線には疑念も躊躇も存在しない。ただ純粋な信頼だけが宿っていた。
どうして、何故そこまで。
雪月には分からなかった。命を張って守り、嘘偽りの無い言葉を向けてくれる。その好意の根源が見えない。
記憶の欠如を感じるのは初めてではない。それでも、今だけは妙に苦しかった。
「…梅雨は、どうしてこんなに俺の事を助けてくれるの?」
「雪月の事が好きだから」
「そうじゃなくて、その…理由?」
思い出したいと思った。たとえそれが『普通』ではない過去だったとしても。どれほど歪で、どれほど悲惨な記憶だったとしても。今は知りたかった。何故ここまでしてくれるのか。
何故そんな目で見てくれるのか、その理由を。
「んー…雪月は俺の小さい頃を知らないんだよね?」
「そうだね、知らない」
「雪月が助けてくれたんだよ。それだけ知っててくれたらいいや」
「俺が?」
「うん!」
屈託の無い笑顔だった。だからこそ現実味が無い、他人の話を聞かされているようだった。自分が誰かを助け、自分が誰かの支えになった。そんな事が本当に出来たのだろうか。
少なくとも今の自分には信じられなかった。
「ゆっくり思い出していこうよ」
梅雨は笑う。優しく、どこか寂しそうに。
「俺はずっと待てるから」
その言葉に雪月は僅かに目を細めた。
何故だろう。笑っているはずなのに、嬉しそうなはずなのに、その姿が酷く儚く見えた。
今にも消えてしまいそうなそれに、胸の奥へ微かな寂寥感が残る。
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『仮想空間』へと戻った二人は、次なる作戦を立てようとしていた。していた、のだが。
「桜羽!梅忌さん!」
第四区画へと続く出入口。そこには二つの人影が倒れていた。駆け寄りながら、嫌な予感が胸を掠める。
梅忌と桜羽はお互いの安否を確かめるように、すぐ傍で横たわっていた。
「梅雨、梅忌さんをお願い!」
「うん!」
即座に梅雨が梅忌を担ぎ上げる。雪月は桜羽を抱き起こした。思った以上に軽い。それが妙に恐ろしくて、無意識に抱き締める力が強くなる。
急ぎ大樹の元へ戻り、その巨大な枝葉が生み出す木陰へ二人を寝かせた。
「意識が無い……やっぱり、『鬼』が出てきたのかな」
「うーん……全部一緒ってこと?」
「多分ね」
雪月は桜羽の傍へ膝を付き、震える指先を口元へ添えた。呼吸を確認する。次に首筋へ手を当て、鼓動を探る。そして安堵した。生きている。確かに生きている。鼓動もある。呼吸もある。
だが、その体はあまりにも痛々しかった。寝間着は所々焦げ付き、露出した肌には火傷の痕が広がっている。足元へ視線を落とす。寝間着を突き破り、細かな破片が幾つも突き刺さっていた。まるで爆発にでも巻き込まれたかのようだった。
「消毒液と……ピンセットも必要かな。包帯も無いと止血が出来ない」
傷口へ目を凝らす。破片は深く食い込んでいた。だが不用意に抜く事は出来ない。
偶然にも、それらが栓の役割を果たしていた。無理に取り除けば出血が悪化する危険性がある。意識を失っている事が不幸中の幸いか、少なくとも今は苦痛に耐えずに済んでいる。
「第二区画……」
顎へ手を添え思案する。治療道具。消毒液、包帯、ピンセット。それらを探すのなら第二区画が最有力だろう。
レバーさえ引かなければ『鬼』は出現しない。今までの情報が正しいのなら、治療器具だけを回収して戻る事も可能なはずだ。
だが、雪月の胸中には拭えない違和感が残っていた。
「『鬼』は――恐らく四人」
ぽつりと呟く。第一区画だけ何故既に解放されていたのかは分からない。だが現状を見る限り、一つの区画に一体。そう考えるのが自然だった。そして、今回の失敗。それは思い込みだ。
『鬼』は一体だけと、そう決め付けていた。その油断が桜羽と梅忌をここまで追い詰めたのだとしたら、第二区画も安全とは言い切れない。レバーを引いていない、だから大丈夫。そんな保証などどこにも無いのだから。
「梅雨、治療道具を探そう。ただ常に周りを見ないといけない、分かった?」
「うん!任せて!」
迷いの無い返答。頼もしいと同時に危うい。雪月は僅かに視線を伏せた。桜羽、梅忌、二人をこの場へ置いていくべきか。連れて行くべきか。
もしここへ別の『鬼』が現れたら。もし意識の無い二人が襲われたら。答えは出ない。
「……ぃ」
微かな音だった。風の音に掻き消されそうなほど小さい。だが確かに聞こえた、少女の声。桜羽の声だった。
「桜羽!」
雪月は即座に駆け寄る。火傷で赤くなった小さな手。その指先は雪月の服の裾を弱々しく掴んでいた。今にも離れてしまいそうな手、それでも必死に。
「どうしたの?」
聞き逃すまいと顔を近付ける。吐息が触れるほど近くで耳を傾けた。
「行…て、だい……ょ…ぅ…」
掠れた声。途切れ途切れの言葉。それでも意味は伝わった。雪月は一瞬だけ目を閉じ、そして深く頷いた。
「うん。行ってくるね」
安心させるように言葉を返す。そして、自分自身へ言い聞かせるように。
桜羽の手がゆっくりと力を失う。それを確認してから雪月は立ち上がった。
橙色の瞳が第二区画を見据える。急がなければならない。いつから倒れていたのか分からないが、なるべく早く治療道具を、二人が生き延びる為に必要な物を持ち帰らなければならない。
雪月は梅雨と共に第二区画へと足を踏み出した。
目標は、治療道具の入手。
制限時間は、二人の死。




