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第十話(7)

 バスが一分遅れで到着して、待っていた人々の列が乗車していく中、俺は財布がないことに気づいたのである。コート、ズボン、制服の内ポケット。あるはずもない鞄の中もまさぐって、やっぱりみつからない。いわゆる交通系ICカードは財布の中だ。ついでに言えば、スマホも見当たらない。そのあたり丸ごと無い。

 莉緒とりこが、バスに乗ってこない俺に気づいて、窓の向こうから何か言ってる。

 俺は二人に手を振ってバスの発車を見送った。

 いったん家に戻ったら自転車で出直そう。ちょっと頑張れば遅刻しないで済むだろう。

 あらどうしたの? なんて母さんが俺を出迎えてくれた。車で送ろうか?って言ってくれたけど、イイよ、と断る。母さんも忙しそうだし。

 それより財布だ。部屋中探し回って、結局いま身にまとっているコートのポケットの奥底に発見した。さっきあれほど探したっていうのに……。

 だがもう一つ、行方不明のスマホが見つからない、と焦りだしたところで、押入れの奥から着信音がくぐもって聴こえてくる。そうかそこか。俺はお前のために戻ってきたんだな。

 押入れの布団に手を突っ込んでスマホを探り当てると、画面をタップして電話を取る。

「もしもし?」

『やっと出た……兄さん? どうしたの?』

「ああ、スマホと財布を忘れてな」 財布は持ってたんだけど。

 莉緒とりこがかわるがわる俺のスマホを鳴らしたらしくて、着信履歴がたくさんついていた。

「今から自転車で追い掛けるよ」

『もう……バス代くらい貸すのに』

『はる兄、やーい、たまには運動しろー。遅刻するなよ~、だ』

「りお、そこの小悪魔中学生にデコピン一発しといてくれ」

『うん……気をつけてね。事故するくらいなら、遅刻したっていいから……』

「ああ。どうせ授業は寝てるしな」

 もう、という呆れた声と、じゃあね、で電話は切れた。

 さて、玄関から自転車を引っ張り出さねば。普段出番がないのだが、何かと重要な役割をこなしてくれる俺の自転車。

 前の出番が思い出せない。夏にりこの合宿所に行った後にも、何度か使ったけど。

 シュコシュコと空気を足していざ出発。

 田舎エリアはバスの方が早いが、朝のラッシュとバス停でちょこちょこ止まる市街地なら、自転車が先につくという可能性も残されている。

 先に学校に到着して、驚かせてやろうかな? なんて思った俺の体力はそこまでではなかった。

 おかしい……ゼイゼイ……体力、落ちたかな……?

 時刻は、とっくに朝礼の時間を過ぎていた。

 真冬のさなかに汗だくになった俺は、学校の駐輪場で自転車を押していた。

 遅刻なのは間違いない。だがそれが、朝礼に間に合わなかっただけですむのか、一時間目も遅れてしまうのかでは、大いに印象が異なる。なので、これ以上は汗をかかない程度に急いでいたのだが、見過ごせないものを見てしまい、俺は盛大な遅刻を決意していた。

 制服の姿が二人、寒空のした校舎の影を堂々と歩いている。

 そいつらは、生徒なんてとっくに教室で座っているものだと油断しているようで、俺の姿など目にも入っていない。生徒の中で、不良なんて呼ばれるのは自分たちだけ、そんな風に思っているのかもしれない。

 自転車を静かに停め、鍵をかけると、その人影を追った。

 ふたりの行く先に俺は驚いた。こんなとこがあるのか。専門教室の並ぶ棟の裏手の空間で、校舎の窓からも見えづらい。こんなところに、普通の一年が不良に連れてこられたら、ちびるだろうな。

「なあ、あの画像、まだあるんだろ?」

 あの画像、と聞いて、俺のなかの暗い部分が全身に染み出てくるような感覚を覚えた。

「いや、藤原先輩、まずいっす。言ったじゃないすか、俺もう削除したって」

 校舎裏に入って行ったのは、藤原と井出だった。

 校舎の壁に張り付くように、ふたりの会話に耳をすませる。

「建て前だろ? 大事な画像データなんて、いくらかコピーしてあちこち保存しとくだろう。なあ、井出」

「か、勘弁してくださいよ。ほんとやばいっす」

 ちょっと井出に常識があるなら、弁護士が井出の家族に出した文書が、どういうものかくらい理解しているはずだ。井出の小遣いでは済まされないような賠償金をかけて、裁判することになる。

 井出は弱腰ながらも藤原の圧力を耐えていた。様子を見て、必要なら手助けしないとだめだろうか。足が震える。俺は別にケンカ慣れしているわけじゃないんだ。

 できれば成り行きだけ確認して立ち去りたい。しかし間が悪いというのは、本当はこういうことを言うのだ。

 つまりスマホがメッセージの着信音を鳴らしてしまったのだ。

「誰だっ!」

 全身で声にならない悲鳴を上げた。そして、俺は……。

 猛ダッシュでその場を走り去ったのだった。脱兎のごとくとはこのことだ。俺は恥も外聞も知らないのだ。そもそも誰も見てない。むしろそんなところで藤原と相対するなんて、危険極まりない。




「な、いい判断だって、思うだろ」

 一時間目にたっぷり遅刻した俺は、ものの数分だけ現国の授業を聞いたあと、竹内に遅刻の理由と顛末を語った。

「変に格好つけないところは褒めてやるよ」

 と、竹内は少しそっけない。

 とにかく、あの場でごたごたしても、何の解決にもならない。むしろ、ひとに聞かれてしまったというのは、井出に対して、画像を藤原に渡さないための抑止力になるはずだ。

 それにしてもさっきの着信は誰なんだ。スマホを開いて内容を確認する。

 “お兄さん、りこが布団に入り込む話、りこに聞いちゃいますよ?”

 とみちゃん……。君も授業の最中じゃなかったのかい? 俺は机の上に崩れた。

 頭を抱えて経過時間を見る。とうに三十分は過ぎているから無駄かもしれないが、返事はしておこう。

 りこの髪が伸びた話しをメッセージする直前の、とみちゃんとの話題は“妹が兄の布団にもぐりこむって、どう思う?” だった。

 いや、妹の友人とはいえ、それを話すのはどうかと悩んだ。だけど、妹が布団にもぐりこむことも真剣に悩んでいたのだ。他人の価値観にさらされたら、収まるかなって、思ったのだ。


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