第十話(2)
俺は昨夜、莉緒の追求から逃げるように布団に逃げ込んだ。布団をかぶって、スマホを見る。
“葉月家”のグループには未読メッセージの山。着信履歴は、不在着信の通知が並んでいた。
竹内に、真白に、そして修学旅行を引率する五味渕先生の名前が、それぞれいくつも並んで、全部表示させるのに画面をずいぶんスクロールさせなきゃいけなかった。
ごめん……。
「兄さん……」
覆いかぶさった布団の外から、莉緒の声がした。
「ねえ、何があったか教えてよ……」
教えられるわけがない。俺はスマホの校内SNSのメッセージアプリを開いた。“葉月家”とは違うスレッド。やり取りは一方的に送り付けられた画像とテキスト。
送り主の部分には、本来表示されるはずの生徒の本名がなかった。代わりに不規則な文字列が並んでいて、不気味な異常さを知らしめていた。
「りお兄、もう無駄だよ。はる兄ガンコだから、貝みたいに閉じこもっちゃったらさ、絶対に喋らないよ。ほっとこ。ほっとけばそのうち、貝みたいにほわぁって口も緩むよ」
りこのセリフで、莉緒がどんな顔をしたか想像した。哀しい顔? 呆れた顔? 怒った顔?
蛍光灯のひもを三回引っ張る音がして、子供部屋が真っ暗になった。
布団の中で、画像を開く。泣きそうな莉緒の顔が映し出されていた。手足を押さえつけられて、裸身を意に反して顕にさせられた姿。
中学の修学旅行で晒された画像だ。俺ももう一度目にするのは二年ぶりか。
『この写真いいっすね、ばらまいちゃおうかな~。莉緒くんファンより』
添えられたテキストはそれだけ。
昨日メッセージが着信したとき、怒りに任せて消去しかけた。が、証拠として保存しておかねばと思いとどまった。
次の瞬間、俺の足は駅に向かっていた。それだけは思いとどまることはできなかった。怒りで脳みそが沸騰していた。
どうして、なぜ、あんなにも手を尽くして、それでも。
悪意が莉緒を絡めとろうとするようにつきまとう。
その夜は、なかなか眠れなかった。
翌朝。いや、もう昼前だ。俺の左右の布団は仕舞われて、子供部屋の真ん中に俺一人。
秋晴れの心地よい日差しが縁側から差し込んでいる。
布団を畳んで下に降りると、母さんの姿はないが、代わりに莉緒が台所のテーブルの椅子に座っていた。
「やっと起きた」
莉緒の表情は、怒っていなくて、椅子から立ち上がって、ルーティンのように朝食のトーストとインスタントのコーヒーを用意し始める。
「はい、コーヒー……」
マグカップをそっとテーブルに下ろすと、莉緒は俺の顔を覗くように言った。
「兄さん、泣いてるの?」
莉緒の手が俺の頬に伸びるので顔を背けた。
「な、違うよ。顔、洗ってくる」
昨夜の怒りと悔しさで滲んだ涙のあとかもしれない。
洗面所で顔を洗って、それから莉緒がこの時間に家にいる不自然さに遅まきながら気づいた。
改めてテーブルの席に着き、トーストを頬張りながらそのことを訊ねる。
「学校はね、今日はお休み……だって、兄さんの一大事だから」
何が俺の一大事なものかと思ったけれど、静かにコーヒーに口をつける。
「ねえ、朝ごはん食べたら、練習に行くから、付き合ってよ」
何の練習? と顔に出たらしくて、莉緒は答えた。
「楽器をね、持って帰ってあるから」
適当な外着に着替えて、莉緒と集落を歩く。
この地区には、大きな湖があって、それはダムによるものなのだけど、観光地としても少し整えられていて、でも平日は閑散としているから、地域の住民にも憩いの場になっている。
湖の湖面を見下ろす広場まで、莉緒と歩いた。莉緒の肩に食い込む楽器ケースのベルトが、いつ見ても痛々しい。でも持ってやるって言っても莉緒は俺に楽器を預けてくれない。
自分の楽器くらい、自分で持たなきゃ、って。華奢な肩だけど、心意気はたくましい。
ひと気の少ない広場のベンチに座ると、莉緒はケースから楽器を取り出し、マウスピースをはめる。抱えた楽器のすわりを確かめて、息を吸い込むと、次の瞬間、低めの音がアスファルトの駐車場と、見下ろす湖面に広がっていった。
音出しから、楽曲のパートを一通り、よどみなく吹いて、莉緒は、はあっ、と息をついた。
俺は拍手した。
「上手だなあ。さすが」
「ううん、まだまだだよ。うまい人はいっぱいいるし。僕はセンスがないから、人より練習しないとすぐに追い抜かれちゃう」
「吹奏楽は、楽しい?」
「うん」
莉緒はふと思いついたように聞いた。
「兄さんは、部活とか入らないの?」
「そうだなあ。前はサッカー、好きだったな」
じゃあサッカー部、という話題で急がないのが莉緒の性格。
「……でも、いまはなんか、ゆっくり、じっくりやっていければ、いいかな?」
「……僕のことは、そんなに気にしなくて、だいじょうぶだからね?」
莉緒は、俺が修学旅行でとんぼ返りしてきたことを、自分のせいだと悟っている。俺は絶対に喋るつもりはない。
「りおはもう、一人でしっかりやれると思ってる。俺がするのは兄弟として当たり前の手助けだけさ」
「……うん……」
納得していない表情で、莉緒は俯く。
しようがないな。ここは俺と莉緒の間の鉄板ネタで。
「ところでさ、りおの楽器の名前って……」
「もう、何度も教えてるのに、まだ覚えてくれてないの?」
「すまん、聞いてもなんだか耳馴染みがなくってさ」
俺は手を合わせて謝った。
「しようがないなあ、今度こそ覚えてよ、――だよ」
その時、突風が吹いて湖面への斜面に広がるススキをざわざわと揺らして、楽器の名前を見事に遮った。
「わ、わかった。覚えとくよ」
これは、もう運命に違いない。そっとしておこう。
風で乱れた髪を手櫛でなおす莉緒に、そろそろ帰ろうと促す。
莉緒に、俺がいつまでも味方だとわかってもらえたら、俺はそれでいい。それでいいんだ。




