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第九話(3)

「春詩くんがいない?」

『あいつ、ちょっと前に、なんかすごい青い顔をしててさ、気づいたらいなくなってたんだよ。騒ぎになるとまずいと思って、俺、誰にも言わずに探し回ってるんだけど……!』

 電話の向こうで、少し息を弾ませながら竹内くんはそう説明した。いまもどこかを走り回っているようだった。

「電話は?」

『あいつ出ないんだ』

「そう……私も連絡してみる」

 スマホを切ると、すぐに春詩くんを呼び出す。呼び出し音はするけれど、その音が途切れる様子はない。

 向こう側にいる春詩くんの姿を想像する。

 うるさいスマホの画面を見て、苦々しい顔をしているのか、スマホが彼のポケットの中でむなしく振動しているだけなのか。

 画面に表示された私の名前を見て、無視されているのなら、それは、いやだな。




 ◆◇◆◇◆




 階下に二年生がいないというだけで、学校はずいぶん静かな印象だった。

 そう、今日から修学旅行で第二学年全体が不在。私たち一年生からすれば、一つ下の階の、三階にいつもいる二年生がごっそりいないわけだ。

 部活の怖い先輩がしばらく居ないから平和だ、とか、そういう話も耳にする。ほとんどの部が、秋になって三年生が引退していて、威張り散らす先輩のいない一年生だけの穏やかな部活を満喫できるのだそうだ。三泊四日で帰ってくるけどね、と現実を教えてあげたら、桐原ちゃんやめてぇと、すがりつかれた。ごめん。

 なんだか先生方ものびのびしているように見えるのは気のせいだろうか。

 そんな話題の中で、リオくんも張り切っていた。吹奏楽部の先輩がいない間にちょっとでも演奏のレベルを上げて追いつきたいんだって。

 心地よい秋風が教室の窓辺から流れ込む。

 そちらを見ると、黙々とリオくんが板書をノートに写している姿が目に入った。

 今日はこの授業で終わりだ。もうすぐ部活だね、リオくん。

 二学期の席替えで、リオくんは窓側の真ん中くらい。私は真ん中の列の後ろへと、席が離れてしまった。ちなみに柚羽は私の後ろの席で、隠れてサボっている。

 黒板に目を戻す。白墨で綴られるのは三角形の図と数式の羅列。いけない。ただでさえ苦手なのに、ついよそ見しちゃった。

「この公式は、これからもちょくちょく使われるから。理屈はいいからまずはしっかり覚えてください」

 先生が、理解不能な文字列にアンダーラインを引く。私は、理解して飲み込まないと覚えられない性格なのだ。とにかく覚えて活用する、というのには時間が掛かる難儀な性格なのだけど、言われるままにとにかくノートに写しておいた。

 その瞬間まで、平和で、のどかな、ありふれた授業風景だった。

 書き写したノートに、先生のアンダーラインをそのまま真似る。アンダーラインが右端で止まった瞬間、教室の後ろの扉が勢い良く開いた。

 一瞬のざわめきと、沈黙。

 そこに立つのは、制服を着た男子だ。制服は乱れて、涼しい季節になったというのに汗だくで、その男子は肩で息をしていた。

「りお……大丈夫か……」

 息を切らせたその男子は、修学旅行に行っているはずの葉月先輩で、はっと私はリオくんの方を見た。

 リオくんも困惑した表情で、でも何かに気づいたように席を立った。リオくんはそのまま先輩のいる戸口に向かう。

 片や先輩は、平和過ぎる教室にあっけにとられたみたいにぽかんとした顔をしている。同じようにぽかんとした一年生の注目を一身に浴びて立ち尽くしていた。

「葉月くん、きみ」

 教壇にいた数学の先生が何か言いかけたが、リオくんが先輩の腕をとってどこかへ連れ去ってしまった。

「先生、私……!」

 挙手して後を追いたい旨を告げようとしたとき、先生のその表情が一瞬目に入る。先生は私に呼ばれて表情をあらためたようだけど、私は瞬間のはざまに見た。先生が笑っているのを。

 その笑いの種類を、私は言葉で知っている。でもここまで醜悪なものを見たことはない。

 ――それを、嘲笑と人は呼ぶはずだ。




 ◆◇◆◇◆




 桐原理々香さんから、電話をもらった。最初はメッセージだった。”葉月家”のグループで。

 春詩くんが、学校に姿を見せたという。理由は分からないけれど、とにかく春詩くんを連れて、莉緒くんは家に帰ったと、彼女は教えてくれた。

 私は宿泊先のホテルのロビーでその通話を終えた。

 ともかくも、彼は無事。よかった。

 でも噂にならないわけがなかった。

 生徒が一名、修学旅行から勝手に帰ってしまったのだ。それは旅先だけでなく、学校側でも同じだろう。

 私は教員の部屋へ赴くと、五味渕先生に生徒会長として事実だけを報告して、労いの言葉をもらった。その言葉には私的な温度を含んでいた。せっかくの想い出、そんなフレーズが含まれていたと思う。正直、先生が何と言ったか細かく思い出せなかった。そんなに私は疲弊していたのだろうか。

 こうして、私の修学旅行は終わったのだった。


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