第九話(2)
私は二条城から清水寺への経路を調べた。徒歩とバスで四十分くらい。地下鉄もあるみたい。知らない街のバスは乗り間違えたりするかもしれないから、慎重に移動して一時間は見なくては。
お昼のうちに抜け出して向かえば、春詩くんと向こうで合流できるかも。
「それで、一ノ瀬さんがいなくなったら、バスの点呼で、私が代わりに返事するから」
「そうそう。一ノ瀬さんは、清水寺から普通のバスに乗って、こっそりホテルに来なよ」
真面目なだけあって、段取りもしっかりな私たちだ。
「じゃあみんな、もしばれたら、私が勝手にいなくなったと言ってね」
「大丈夫だよ一ノ瀬さん、その辺は僕らも心得てるから」
メガネくんは言った。
昼食場所から、三々五々、生徒たちが散っていく中、私はひとりこっそりと二条城を後にした。
少し……いや、だいぶ悪だくみをしている。そういう自覚があった。
だって、小学校から高校まで、一度も学校をサボったことなんてない。やむを得ない事情でもなければ、遅刻すらしたことがないのだ。
選んだのは、地図上では遠回りだけど、乗り換えのないバス路線。
春詩くん、驚くかな。子供みたいにわくわくが止まらない。
流れる車窓からは、ときおり歴史的な建造物が当たり前のように見えて、つい地図と照らし合わせて確認してしまう。いつかゆっくり訪れてみたい。
そんな風に楽しみながらも、私は自分の脳裏の記憶を誤魔化し切れていないことに気づいていた。
あの日。
学園祭の帰り。
私は兄さんと、迎えに来た母の運転する車に乗っていた。
青陵学園の、来賓や職員の車の出入りは、校門坂ではなく、西門に回る。春詩くんたちは、校門坂から、バス通りを歩いていたのだろう。西門側の車寄せで母の車に乗せられての帰路。わが家の車がバス通りに出たとき、ヘッドライトが抱き合う兄弟を照らして通り過ぎたのだった。
私は何も言わなかった。
蒼司兄さんも何も言わなかった。
私が葉月春詩という人を知ったのは中学生の時だ。
幼馴染で、数少ない私の友人に、彼の話を聞いたのが最初だった。小学生の頃、こっちに引っ越してきたらしいその人は、中学になっても馴染めなくて、弱いくせにケンカをして騒ぎを起こしたという。
しょうもない男子のいざこざよ、と、たまたま世間話で友人が語ったのがきっかけ。けど、友人と会うたびに彼は話題になった。彼にとって、事件の続いた時期だったのだろう。
彼の行動には、彼にとっての正義があった。兄妹を守るという理由。
実は、そうらしいの、と友人は感心したように語った。その頃には、彼女も彼の行動に一目置くようになっていた。
そして彼女から聞いた、弟さんを助けに修学旅行先に乗り込んだという最大の事件は、私にとって英雄譚を聞くかのようだった。
私にも兄はいる。優しい兄だ。たぶん、妹に甘い。強くて、いざとなったら守ってくれる兄。兄妹仲に不満はない。
だが違うのだ。まだ見たことすらない彼は、私の心に強烈な憧憬となって焼き付いた。
青陵学園に入学し、彼の名前を名簿に見つけたのは偶然だった。意識しないよう、悟られぬよう、彼の教室に見に行ったこともある。それくらいに私は普通の女子高生で、初めて目にする彼は、ごく普通の高校一年生だった。私には気取ってない自然体に見えたけれど、どうやら彼は評判にもならないくらい影が薄い。いや、水面下にある中学時代の不評で、悪目立ちしないよう、おとなしくしているかのようだった。それを賢いと思ったのは、美化しすぎだろうか。
それから、たまに様子を見るくらいで、私と彼に接点はなかった。
クラスが同じになることはなく、彼は部活に入ることもなかった。そのほかの噂を聞き及ぶこともない。おそらく接点のないまま卒業してしまうのだろうと思っていた。
この春までは。
つい、私はそれに運命みたいなものを感じた。恥ずかしい。とんだ思い込み。感情を押さえて、少しずつ彼を知っていこうと思った。感情にブレーキを掛けないと、だって私は思い込みだけで、彼を好きになってしまいすぎるから。
でも、私は思い出した。
暗がりで莉緒くんを抱きしめる春詩くんの優しげな雰囲気。
私は、彼にとって、守るべき存在ではないのだ。
ヘッドライトがわずかに照らした青陵学園の制服。
その光景が脳裏に焼き付いて離れない。
最寄りのバス停に降り立つと、悪い考えを振り払った。
最初から分かっていたじゃないか。彼の一番は、兄妹や家族なのだと。だけど、ずっと未来のことまでは分からない。ゆっくりでいいんだ。
私は、焦って先を行こうとする自分の気持ちを引き戻した。
いま歩いているように、一歩一歩、踏みしめていけばいい。
気持ちを落ち着かせた私は、さて、と、スマホを取り出した。さすがにすれ違うわけにもいかない。とはいえ春詩くんを驚かせるためには、直接連絡をするわけにもいかないだろう。
共犯者に竹内くんを選んで、メッセージを送った。
メッセージには、すぐに既読が付き、それに折り返すように通話の着信をスマホのバイブレーションが報せた。
竹内くんの言葉に、私は茫然とした。




