第七話(3)
「葉月 春詩」
真白の後ろから、長身三白眼の男が現れた。ラフな格好だが、姿勢の良さと引き締まった体つきだけで、色気のある男。一ノ瀬蒼司だった。
俺の体を、ピリリと、警戒の電気信号が走る。敵ではない。けれど、身を正して対応しなければならない相手だ。
「ね? 春詩くん、来てくれたでしょう?」
兄に報告する真白。
「ああ、わかった」
真白を下がらせて、一ノ瀬兄が俺の前に立つ。
「葉月、俺の身勝手な頼みかもしれんが、妹に心配かけるな」
「はい。すみませんでした」
「今日はもう、真白は連れて帰る」
「はい」
俺の答えを待たず、一ノ瀬蒼司は真白の腕をとって引く。引かれるがまま歩き出す真白だったが、ちょっとした抵抗なのか、彼女は最後に俺に手を振っていた。
兄妹の姿を見送って、俺は帰った。
くたくただったので、自転車は駐輪場に預けたまま、帰りはバスにした。普段はラッシュ時以外、田舎路線みたいな乗客数しかいないくせに、今日は座り切れずに押し合うくらいの込み具合。まあ花火大会のあとだしな。途中、辛うじてどっかのおっさんの隣が空いて、そこに尻を滑り込ませる。バスの空調が冷たくて、心と体に染みた。
帰宅すると、玄関で出迎えた莉緒が、自分のスマホで“葉月家”のメッセージグループを見せてくれた。
そこには最新のメッセージ。アカウントは一ノ瀬兄からのものだが、本当の送り主は真白。
花火の雑踏で、スマホを落として踏まれてしまい、メッセージが読めなくなったらしい。
そこへ、真白の既読がいつまでも付かないことに心配した兄、蒼司が探し回って人ごみの中から真白を見つけ、俺が来れないという事を伝えてくれたという。真白は連絡できなかったことへの謝罪と、
“でも、春詩くんが来そうな気がするから、待ってた”
という言葉で、メッセージを結んでいた。
俺は素直にうれしかった。夜道をがんばってよかった。駅前で叫んでよかった。
「一ノ瀬家も、相当な兄バカだね……いや、妹バカだっけ、こういうときは」
と莉緒が笑った。兄さんみたいだね、と付け加えられたことについては、ちょっとだけ異論を唱えたいのだが。
それにしても。
「莉緒が間違えるなって言ってくれなかったら、真白をがっかりさせるところだったよ」
「……よかった」
少し俯いてそう言うと、ふと気づいたように、莉緒がつづけて言った。
「ねえ、兄さん? 顔が赤いよ?」
「そうか?」
玄関から畳に上がった俺は自覚もないまま返した。そう返した瞬間、ぶるっと身震いが走る。
すかさず莉緒が俺の額に手をやる。その手はひんやりして気持ちよくて、あと、莉緒の顔が、ちょっと近い気がする。
旅行で、岩風呂でのぼせたあのとき、このくらいの距離だったっけ。
不意に、莉緒が俺に抱き着いてくる。
「お、おい……」 「兄さん」
俺の声に莉緒がかぶせる。
「僕のこと抱きしめてみて」
う……。観念して、言われたとおりにしてみる。莉緒が強気だ。
「あったかい?」
「う、ん」
莉緒の細くて柔らかい体から発せられる体温が、心地よい。それどころか、自分の頭がどんどん熱くなってくる。ぶるっ、と震えがまた走った。
「今日はお風呂はダメ。体拭いて着替えて」
「へ?」
「兄さんも、風邪ひいたんだよ。早く」
お風呂場の脱衣所まで、俺の手を引いて莉緒がゆく。
「体拭いてて。パジャマと下着、持ってくるから」
もう、反論は許してもらえそうにない。
翌日。
床に臥せっているのは、りこではなくなぜか俺で、逆に朦朧とりこを見上げていた。
昨夜、脱衣所で体を拭いて、莉緒の持って来てくれたパジャマに着替えるころには、がたがたと震えだしていた。この暑さの中で、寒さでブルブルくるのだ。完全に夏風邪である。
一方翌朝には、けろっと復調したりこが俺の枕元にいる。不条理だ。
寝起きで同じくパジャマ姿のりこは、つんつんと俺のほっぺたをつついて、目を覚ました俺をからかう。
「仕方ないお兄さんだなあ。弟がいたらこんな感じ?」
俺の枕元でゴロゴロしながら言うと、りこが俺のおでこに、チュッと、唇を当てた。
動けないのをいいことに、遊ばれている。
障子をあけて部屋を出ていくりこと入れ違いで、莉緒が二階に上がってくる。俺が目を覚ましたのに気づいて、朝ご飯を持って来てくれるとさっき言っていた。
「りこ、顔が赤いよ? まだ熱が下がってないんじゃ……」
「だ、だいじょうぶだよ。朝ご飯食べてくるね」
障子の向こうでそんな会話が聞こえたが、とにかく熱がうだる俺の頭には入ってこなかった。
莉緒は昨日今日と、兄と妹の看病で大車輪の活躍だ。
ああ、それから、真白にも連絡しなきゃ。浴衣、似合ってたよって。
枕元にスマホを探して、水没させてしまったのを思いだす。いや、昨日のバタバタで、どこに置いたかさえ思い出せないが、とにかく買い替えるまで、連絡取れないな……。
ただでさえ沈んでいるのに意気消沈。
早く治して、スマホを買いに行こう、と思っていたが、俺の夏風邪は長引いた。
熱が出て二日目の朝。調子がいい、と思って家の中をうろうろしていたら、いったん下がっていた熱が猛烈にぶり返す。りこは一晩で治ったのに、なんで俺はこうなんだ。若さか?
布団に逆戻り。昨日からずっと寝てるから、眠れるわけがないと思ったが、昼ごはんのあと、風邪薬を飲まされると眠ってしまった。
うっすらと、その眠りから覚醒したのは、昼の三時くらいだろうか。
階下の声が、枕の下からなんとなく聞こえてくる。母さんとりこが、おそらくお茶を飲みながらお喋りしているから、たぶんそのくらいの時間だ。
話し声は二人分だけ。今日は、莉緒は部活でいないんだっけ。
「そういえば、髪が伸びたんじゃない? そろそろカットに行く?」
「う、うん。どうしよっかな……」
話題は、りこの髪の毛のことみたいだ。
「あんた、夏はいつも暑い暑いって、床屋で男の子みたいに短く切っちゃうんだから」
りこは、駅前の散髪屋でチャチャっと切ってしまうのだ。女の子なのに。
「うん……これからは、ちょっと伸ばして、サロンとかもいってみようかな……って」
きっと、髪の毛をいじりながら、母にからかわれるのではないかと、恐る恐るそのセリフを口にしたに違いない。目に浮かぶようだ。
「そ。なら、その時は言いなさい。いつもよりお金かかるから」
母は変な冷やかしはしなかった。むしろ娘の喜ばしい成長なのではなかろうか。
にしても、りこも色気づいて、気になる男子でも……。
勇吾くんは、りこに振られたんだっけ。
――いいじゃないですか。お兄ちゃんを好きな女の子がいたって
どこかで、とみちゃんの言葉が無視できない。
「それで、りこ。部活引退だからって安心してると、すぐ受験なんだから。そこは気を付けなさいよ」
「は、はあい」
「返事だけじゃなくて、ほんとにちゃんとしないと、ハルたちと同じ学校行けなくなっても知らないから」
ぐうの音も出なくなったらしくて、りこの声が聞こえなくなった。お茶とお菓子に逃げているのだろう。
のども乾いたし、助け舟を出しに行ってやるか、と俺は布団を抜け出した。
夕方にかけては、薬が効いたのか元気に漫画を読んでだらだら過ごす。
夕飯はしっかり食べる食欲があったので、もうすぐ治るだろう。
こうなったらこのまま夜更かしして、夏休みを満喫しようかな、なんて思った矢先にまた熱が上がってきて、おとなしく寝る。
莉緒とりこが、ふたりして氷枕やら枕元の飲み水やら用意してくれて、俺は安眠させてもらった。
翌朝、今度こそ復調した俺。
そしてやっぱりというか。葉月家の倣いというか。
俺の次は莉緒が寝込んだ。まるで子供の頃みたいに。風邪ひく順番もいつもこうだ。
三人そろって元気になったときには、夏休みも終わろうとする頃だった。




