第61話 ルールルーの心配
春シーズン第十一週六日目朝。
交易都市ミカの城壁外西地区。西大通りに面したアイカータ本邸の門前で、俺は雨空を見上げながら緑の外套の襟を直す。ちょうど、西門詰所の時鐘が、雨に濡れた西大通りへ七つ響いた。
鐘が途切れると、西大通りを挟んだ水車河岸街から、大水車の低い唸りが戻ってくる。
俺の隣ではルールルーが天を見上げ、見えない天幕に阻まれる雨粒を見つめていた。
ルールルーが展開・維持しているのは、レベル1結界魔法〈基礎結界〉。
本来なら半径数歩をざっくり囲む防護結界だ。それを彼女はこうもり傘みたいに薄く広げ、雨粒だけを縁へ滑らせている。
風と水車の匂い、人の声は素通りだ。純粋な魔力制御のみで見えない傘を実現している。
それを見て、俺の前に並ぶアイカータ商会の従業員が、口々に反応した。
「はえ~すっごい」
「ルーさんいりゃあ、傘いらないスねえこれ」
「ん」
春シーズン二週目の週末に俺にナンパかましてきたふたり組※1──青髪のネリスと赤髪のプラムが見えない天幕を見つめる。
どちらも出会った時と同じ、リザードの革鎧を身に付けている。今日はふたりに、火の帝国から来た観光客という体で、周囲に目を光らせる役を任せる予定だった。適切な睡眠・適切な食事を続けた結果、当時よりふたりの髪も肌つやもよくなっていたため、いまは身なりだけあえて少し荒らしてもらっている。
「雨粒だけ弾いて、手も風も通る……。紙荷、香辛料あたりの雨天搬入なら、濡れ荷が抑えられるな。常使いは贅沢だが、急ぎの高額品なら元が取れる……。若、今度ほんとうに困った荷が出た時だけ、ルールルーさんに口を利いてもらえますかい?」
「ほんとうに必要だったらな?」
ふたりの後ろに控えるのは、商会の物流部門で下見と渉外を任されている古参、ベルノ・ガルダ。四十九歳。カナメと同じぐらいの背で、ずんぐりとしている。灰色の外套に幅広の茶の帽子。黒手袋でこうもり傘を握る仕草には、妙な品があった。倉庫、河岸、荷車、人足の流れを一枚の荷札みたいに読める男だ。
本日は新人ふたりのお目付け役兼、これから集まる商会人員の指揮を任せている。
「若、それじゃあ手はずどおりに。十の鐘までにゃあ第六班の配置も終わってますぜ。コーデリアお嬢も、通常巡回の名目で近場を見回る予定です」
「助かる。姉さん見えたらいったん通信送ってくれ」
ベルノが薄茶の瞳をこちらに差し向け、帽子のつばを指先で上げる。
長年、俺の母セリアの無茶振りに鍛えられ、アイカータの物流の一部門を任されているだけある。仕草ひとつとっても洗練されており、自信と余裕が所作に垣間見えた。
ゆったりとした口ぶりでベルノは続ける。
「ほら、おたくらが若にあいさつしてえって言うから連れて来たんだ。とっととすましちまいな」
「は、はいっ」
ベルノに促され、ネリスとプラムが前に出る。
ネリスは少し目を伏せて、俺に軽く会釈する。一方で、プラムは照れくさそうに頭をかく。
出会った頃の飢えたような荒さは薄れ、ふたりの顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「今日は頼んだぞ。この仕事終わったら、リヴィエ村に移住するんだって?」
「は、はいっ。おかげさまで、見合い話もとんとーんと進みましてっ」
「ほんっと、坊ちゃんには頭が上がらないスわ!」
「坊ちゃんはよせやい」
「あはは、すいません」
雨の中で、小さく笑いが起きる。ネリスとプラムの見合い話は、ずっと順調らしい。俺は顔合わせの席を用意しただけだったが、縁談はとんとん拍子にまとまりつつある。最近では見合い相手である俺の友人たちからちょくちょく相談があり、その都度俺は、ネリスとプラムにそれとなく情報を流していた。
ふたりの笑みを見て、俺の胸の奥に、冷たいものが落ちた。
火の帝国から流れてきたふたりが、いまや商会教育班で仕事を覚え、夏にはリヴィエ村へ移る。
その未来ある人間を、俺は今日の作戦に含めている。
「変に無理はすんなよ、ふたりにはリヴィエ村での大仕事が待ってんだから」
俺が言うと、プラムは革鎧の肩紐を握り直した。
「若くていい男と働き口紹介してもらった恩、返すだけスよ! うちら歳なんで焦ってたから、めーちゃくちゃ感謝してるっス」
「何も返せないまま去るのは、落ち着かないですから」
ネリスも続ける。
ナンパしてきた頃からずいぶん変わったもんだと、俺は感心する。
「あんがとよ、ふたりとも。……って」
視界の端に動きがあった。俺はふたりから視線を外し、雨に濡れた西大通りの南側へ目をやった。
今日の計画に参加する面々が次々と住宅街から現れる。荷場で帳簿を運んでいた頃から見知った顔が多く、俺は反射で名前を呼びそうになった。何人かが俺に気づいて、勢いよく手を振り出す。俺も軽く手を振り返した。
その光景を見てか、ベルノが苦笑している。
「では若。あとは任せて下さい。うちにゃあ、若がいると作業の手が止まるやつが大勢いますんでね、早くいってもらえると助かります」
「わーった、わーった。ベルノ、それじゃ行ってくる。ネリス、プラム、任せたぞ!」
ネリスとプラムが同時にうなずく。
ルールルーを伴って、俺は交易都市ミカの南東──聖堂外苑へ向かった。
決戦の時は近い。
□
俺たちは長い坂を上って交易都市ミカの城壁南門〈石橋門〉にたどり着いた。
右手には、城壁沿いに広がる住宅地区──聖堂外苑が見える。
巡礼者用の長屋が寄り合うように並び、軒下では薬草束と青い祈り紐が雨風に揺れていた。
聖堂外苑は、かつて城壁の中へ入れず飢えた人々を女神教の炊き出しが救ったことから広がった地区だと言われている。
雨の日の朝ということもあり、通りを行く者の多くは傘の下に顔を伏せている。
こちらを長く見る者は少ない。
「あふ……。ん」
道中で当然のように俺の背へ収まったルールルーがあくびをする。
声も半分ほど眠たげだ。俺の肩に顎を埋め、ゆったりしている。とんがり帽子のつばが俺の側頭部にも触れる。邪魔くさいなおい。
見た目は小柄な少女なのに、背中へかかる重さは妙に面で広がる。骨ばった膝も肘も当たらず、猫みたいに勝手に姿勢を合わせてくるあたり、原作で見た「スライムと猫を混ぜた合成生物」という設定を思い出してしまう。
俺はルールルーをおんぶしたまま、聖堂外苑の通りへ入った。
相変わらず雨避けの結界を張っているので、傘はない。
小雨だからまだいい。大雨なら、はた目には雨をはじく不思議な柱が歩いているように見えただろう。
朝の聖堂外苑は、坂下のキャラバン街や湯灯街とは別の町みたいに静かだった。
薬草圃から湿った青い匂いが流れ、巡礼者用長屋の軒下では白布が畳まれている。小さな水路のそばで、寄進箱を抱えた少年修道士が通行人へ一礼していた。
聖堂外苑の告知札には、春シーズン第十二週から夏シーズン第一週にかけて予定されている聖女候補巡礼の案内も貼り出されている。施療受付の臨時枠、巡礼宿の整理、聖堂区へ上がる坂道の一時規制。文字だけ見れば、来週へ向けた受け入れ準備の知らせでしかない。
だからこそ、カイウスたち巡礼団の一部が数日前からミカ入りしていても、表向きは何もおかしくなかった。準備、査察、記録照会。そういう名目なら、聖堂外苑の誰も疑わない。
今日ここで起きるかもしれないことが、この静かな場所にはひどく場違いに思えた。
《着いた?》
こめかみに鈍い痛みが走る。俺の外套の内側で紫色の魔力光が小さくまたたいた。通信魔法だ。ルールルーは俺の外套に指を埋もれさせ、発動の光を隠している。
物ぐさ極まってんなおい。俺は呆れる。だが、周りに会話が漏れる心配はないため秘密のやりとりにはもってこいだ。悔しいが合理的ではある。
俺はルールルーの脚を抱え直し、膝裏に触れた指先で赤い魔力光を返す。
《まだだよ。昨日と変わったとこあるか?》
《前庭の荷車位置がひとつ変化。臨時受付用の木箱がふたつ増加。裏手水路沿いに巡礼者二名、修道士一名。脅威度、低》
《了解。……ルーの脅威度低いは、俺基準だとわりと怖いんだよな》
《評価値、遺憾》
ルールルーの返答が、頭の中へ淡々と返ってきた。
俺は苦笑しかけて、すぐに口元を引き締める。昨日なら軽く流せたやり取りも、今日は一歩ごとに現実へ押し戻される。
女神教小教会〈聖滴の庵〉にはもうすぐ着く。
ルールルーを下ろそうと立ち止まると、ちょうどルールルーが再び話しかけて来た。
《モブ》
《どした? こっから先は歩きだぞ?》
《了解。……昨日、ルーが言ったこと覚えてる?》
なんのことだろうか。俺が答えるよりも先に、ルールルーは続けて言った。
《ヒルダが回復魔法を使っている時、別の波長を感じたことがあるって言ったこと》
《ああ、言ってたな》
ルールルーがカーラに助け舟を出した時のことを思い出す。
それがどうしたと問い返す前に、ルールルーは言う。
《孤児院にいた頃も、シスターや神父たちからも同じ波長を感じてた。……でも、マリーからは、一度も感じたことはない》
俺は押し黙る。ひと筋の汗が背を垂れた。
やはりルールルーも知ったうえで、あの助け舟を出していたのだと悟る。
《マリーも女神に祈ってる。でも、他の人と違う。モブも、知ってた?》
《知ってる》
《なら、マリーは祈りをやめても大丈夫? ルーの予測、合ってる?》
《……たぶんな。確証はないけど》
《ん。モブがそう言うなら、安心》
そう言って、ルールルーは俺の背を下りて地に足をつけた。
俺の隣に歩を進め、ルールルーは帽子のつばを指でつまんでは下げる。
「まだ、みんなとマリーが一緒にいられそうで、よかった」
「ルー……」
そこまで言われて、俺はルールルーの心情を理解した。
マリーは、祈りを止めれば力も居場所も失うのではないかと恐れている。
そんな中、ルールルーは観測の結果、マリーが祈りを手放すことができる可能性を認識した。
女神教を離れても、マリーの力は消えないかもしれない。
祈りを手放しても、マリーはマリーのままでいられるかもしれない。
もしもの時にそう言って引き止めるための根拠を、ルールルーは欲していたのだろう。
俺も俺で、第三者からの観点を得て安堵する。
ルールルーもまた、マリーによって救われたものひとりだった。
原作ゲームでは、〈逆さ魔導塔〉を出た傷だらけのルールルーを癒したのはマリーだった。下水掃除用のスライムが脱走したと勘違いしたマリーは、人目に隠れてルールルーの世話を始めた。最初は小さな拾いものをかくまうように。それがふたりの出会いであったことを、俺は思い出す。
「──モブ様、ルー!」
声を掛けられ、俺は前方を見やる。
小雨の向こうから、傘を差したマリーとカーラが小走りで駆けて来る。
マリーは淡い青の傘を少し低く構え、もう片方の手で白い僧衣の裾を押さえていた。薄青の施療布ケープと、首元の〈才能封じの首輪〉だけが雨明かりに硬く光る。
カーラは白い傘を肩に掛けるように差し、灰色の布ケープの下へ水鉄鉱革の胴当てを沈めて、周囲へ視線を配りながら一歩後ろを歩いている。
ふたりとも、もう小教会に顔を出してきたあとのようだ。
マリーの表情はいつもより少し硬い。けれど、俺たちを見つけた瞬間だけ、目元がほっとほどけた。
「お待たせしました。巡礼準備の木箱が増えているほかは、前庭と受付はいつも通りでした」
「中の人たちも落ち着いていた。少なくとも、私たちが見た限りでは不自然な動きはなかった」
カーラが短く補足する。
マリーは小さくうなずき、雨粒の落ちる傘越しに俺を見た。
「受付のディアナさんにも、いつもの寄進手続きとして通していただきました。……カイウス様のお姿は、まだ」
「分かった。ありがとな」
そう答えたところで、別方向から足音が近づいてくる。
聖堂外苑の通りの東側から、アリスとカナメが姿を見せた。アリスは赤い傘を優雅にカナメのほうへ傾ける。同色の赤ケープの裾も、腰の細いレイピアも、雨粒ひとつ乱していない。カナメはその傘に入ったまま、青絹の小袖の下に鎖帷子を仕込み、刀を左腰に落として軽く手を上げる。
「揃ったわね。こちらも異常なしよ。メイドたちは予定通り配置済み。前庭外と横道、どちらも押さえてあるわ」
「むむ! ルーよ、邪魔するぞ」
カナメはそう言って、アリスの元を離れてルーの見えない傘の下に入った。
俺の隣で腕を組んで、涼しい顔してカナメは話を聞く。
俺は全員の顔を見回した。
俺は深緑の雨避け外套の下に、黒の蜘蛛糸で編んだシャツとズボン。着慣れたスカウト装備一式だ。ルールルーは黒いとんがり帽子を深くかぶり、指先だけで見えない傘を整えている。
見た目だけなら、巡礼者と護衛と観光客の寄せ集めだ。けれど、誰の装いにも、昨夜決めた役割がにじみ出ている。
昨夜の作戦会議が、頭の奥でほどけるように蘇った。
『基本線は、穏便に済ませる。話し合いでカイウス・オルフェンが引いてくれるなら、それが一番だ』
プラン1。
カイウスがまだ言葉を聞くなら、マリーの現状を見せ、こちらの意思を伝え、これ以上の連行や断罪を止める。
マリーがこの町で何をしているのか。被害者への仕送りも、小教会への寄進も、逃げた先の自己満足ではないと示す。
『でも、相手が実力行使に出るなら話は別だ。マリーを無理に運ばせない。押さえて、町の問題にする』
プラン2。
カイウスが剣を抜く、拘束を命じる、無理やりマリーを連れていこうとする。
その場合は俺たちで止める。警備隊第三隊長の俺の姉コーデリアへ即時連絡し、突き出す。女神教国の使節ではなく、町中で暴れた危険人物として処理する。
『最後に、プラン3。これは禁じ手だ。使わずに済むなら、絶対に使わない』
そこまで思い出して、喉の奥が乾いた。
マリーの『魅了』。カイウスにマリーが接触して、こちらの都合で彼の意志を曲げる。
マリーにも、カーラにも、最悪の場合を想定した動きを昨夜のうちに伝えてある。
きれいごとだけで済ますことはできない。
その覚悟を、俺は問うた。
そして、全員がここにいる。
「確認するぞ」
俺は声を低くした。
気が付けば、雨脚が一段強くなっていた。
傘の布地と、ルールルーの見えない結界を、細かな雨粒が絶え間なく叩く。少し離れれば、俺たちの声は雨音にほどけて消えるだろう。
ありがたい。いまは、女神像の膝元で堂々と密談するくらいの図太さが必要だった。
「マリーたちが事前に見た情報と照らすかぎり、カイウス・オルフェンが小教会の人たちを動かしている様子はない。これから俺も中に入って、目で裏どりする」
みんながうなずく。
「ただ、昨日も言ったとおり、カイウスが完全に単独で動く可能性は低い。カイウスがマリーの連行を考えているなら、あのじいさんひとりで直接触れようとはしないはずだ。女手がいる。あの中に、事情を知らずに手続きを通す人間がいるか。あるいは、これからカイウスが連れて来るか」
俺は左手側に立つマリーとカーラに目配せする。
ふたりは傘の柄を握り直して、うなずいた。
「手はず通りアリス、カナメ、ルーはカイウスの姿が見えてから教会に入ってくれ」
先に、俺は〈魔法の携帯袋〉から予備の緑の傘を取り出し、脇に挟む。
それから俺は、ベルトに括り付けた〈魔法の携帯袋〉を外し、ルールルーに手渡す。
「ルー、これを。予定通り、荷物検査前に預けておく」
雨避けの結界の内側で、袋の革だけがしっとりと冷えていた。
俺に倣って、マリーとカーラも〈魔法の携帯袋〉をルールルーの腕に乗せる。
袋の効力で、中身の嵩も重みも拳大の石ほどに収まっている。それでも三つ重なれば、ルールルーの両手がわずかに下がった。
かすかに、ルールルーの腕が波打つ。
するすると、袋が彼女の内側に取り込まれていった。
「……す、すごいな」
「大量」
ルールルーがカーラに向けてVサインを向けた。
対するカーラは頬をぴくつかせ、一歩身を引いている。
昨日の夜、カーラにはルールルーの正体を明かしてある。
目の前でスライム形態になったルールルーを見て、カーラはしばらく言葉を失っていた。
マリーいわく、自室ではその姿でいることも多いらしい。隠す必要がなくなった以上、俺も遠慮なく作戦に組み込ませてもらう。
「もしも地下区画に俺たちが移動を始めたら、頼んだぞ?」
「うむっ、任せておけ」
ルールルーと同じ別動隊、カナメが代わりに返事をした。
俺は息を吐く。遠くの小教会〈聖滴の庵〉をにらんだ。
屋根の上では、指を組んだ白い女神像が通りを静かに見下ろしている。
誰かが静かに祈るための場所に、俺たちはあまりに物騒な作戦を持ち込んでいる。
それでも、退けない。
「行こう」
脇に挟んでいた緑の傘を開く。
ルールルーの見えない結界から一歩出ると、雨音が急に近くなった。緑の布地を、細かな雨粒が絶え間なく叩く。
マリーは淡い青の傘を少し低く構え直し、カーラも白い傘の柄を握り直して俺たちの半歩後ろへついた。
アリス、カナメ、ルールルーを残し、俺とマリーとカーラは小教会の前庭へ踏み出す。
遠くの雲の底で、低い雷鳴が転がった。
雨音に沈みきらない響きが、白い壁と濡れた祈り札のあいだを這っていく。
縁起でもない。
そう思いながらも、俺は足を止めなかった。
小教会の前庭で、臨時受付の木箱を並べる修道士が、こちらに顔を上げた。
※1 ネリスとプラム
「第35話 モブの休日①:春シーズン第二週 週末」
初登場のふたり組。
モブにナンパしてマリーとルールルーにしばかれたが、
モブに才能を見出されてスカウトされた。




