第60話 マリーの深き信仰②
マリーは、膝の上で重ねた指先を見つめたまま、小さく息を吸った。
魔導灯シャンデリアの白い光がヴェール越しの水色の髪を淡く照らし、細いまつ毛の影を頬へ落としている。誰も先を急かさなかった。
「私が、いまも女神教を信仰している理由は……立派なものではありません」
俺はじっとマリーの言葉に耳を傾ける。
ひとこと目から、マリーは自分を飾らなかった。
「きっかけは、私の子どもの頃の体験にあると思います。──物心ついた頃には、私は王都の女神教ゆかりの孤児院にいました。この首輪を身に付けて。……両親の顔も知りません。どうしてあそこにいたのかも、詳しくは聞かされていません」
抑揚を押さえた声が部屋に響く。マリーが胸元の紫水晶の飾り〈才能封じの首輪〉を指でつまみながら語る。
震えを押し込め、ひとつずつマリーは言葉を並べていく。
「私は他の子と違って、並外れて力が強かった。信じられないほどに。そのせいで、自分では抑えたつもりでも、人を傷つけてしまうことがよくあった。意図せず扉を壊したり、壁に穴を開けたりするのも、珍しいことではなかった」
マリーが胸元へ指先を添える。それから胸の前で指を組んだ。
いつもの祈りの所作だ。癖みたいに身に染みついた動きなのだろう。俺は黙って見守る。
「自分を傷つける恐れのある存在に、どうして近寄れましょうか。気が付けば、私は怖がられ、孤立していた。洗濯や掃除の手伝いからも外され、日に日に邪魔者扱いされる始末。けれど、孤児院付きの神父様から癒しの祈りを学んでから、私の境遇は少しずつ変わりました」
カーラがそっと息を呑む。
アリスもなにも言わない。金色の瞳は鋭いままだが、先ほどまでの切っ先だけで相手を測る光ではなかった。
「運のよいことに、私は光属性魔法に適性があった。ある日大きな擦り傷を負った子に癒しの光を当てて、それで傷を塞ぐと……その子にありがとう、と言ってもらえたんです。それから、私はみんなに頼られるようになった。……誰かの役に立てたこと。それが幼い私にとって、大きな救いになったのです」
マリーの声がほんの少しやわらいだ。
ふと顔を上げた彼女の白い頬を、シャンデリアの光が淡く照らす。
遥か遠くに座す女神を、その光の中に見出しているようだった。
「──女神教の教えに、『命を生み、守り、育てよ』とあります。私にとって女神教は、ただの教えではありません。孤児である私を育て、生かしてくれた。そして女神への祈りを通じて学んだ癒しの力が、私に居場所を与えてくれた。女神教を信仰すること、女神を信奉することこそが、正しく生きる道なのだと、私は信じた。……聖女になりたいと思ったのも、きっとその延長です」
水色の瞳が、ゆっくり卓の上へ落ちる。
木製の卓の上にマリーの影が伸びていった。
緊張をはらんだ声を、彼女はあげる。
「あの事件を引き起こした後……」
ダイニングルームの空気が、またひとつ張り詰める。
マリーはぽつぽつと、言葉を紡ぐ。
「……自分の体を調べれば調べるほどに、私は女神教が怨敵とする、淫魔の血を引く人間だというのがわかりました。私は、何度も考えました。私には、もう神に祈る資格なんてないのではないか。教会に近づかないほうがいいのではないか。いっそ、信仰ごと捨ててしまったほうがいいのではないかと」
指先が、胸の前で強く組まれる。
関節が白くなるほどの力がこもっていた。
「けれど、怖かったのです」
「怖い?」
アリスが短く聞き返す。
声色は尖っていない。ただ、確認のための一言だった。
「……女神教では、祈りと信仰が治癒や浄化を支えると教えられてきました。私も、それを当たり前のこととして、受け取って育った。だから、祈りをやめた途端、癒しの力すら失ってしまう気がして──」
マリーは目を伏せたまま、続けた。
「あの事件のあとでも、私の手は以前と変わらない程度に人を癒やせました。広域の回復も、骨折の治療も、まだできた。ああした高度な治療ほど、祈りの深さが出る。私はそれを、神がまだ完全には私を見放していない証なのだと……そう考えて、すがった」
すがった。
マリーはいま、自分でそう言った。
信仰を正しさの証明としてではなく、自身の最後の拠り所として、正面から認めている。
「私のいままでの人生は、癒しの力と共にありました。もし信仰を止めてしまえば、治癒の才そのものは残るとしても、恩寵に支えられていた分は鈍ってしまうのではないか。頼られている高度な治療も、浄化も、もうできなくなるのではないか。──だから、私は祈ることで、贖罪をすることで、神から見放されまいとした。もしも、もしも癒しの力が弱まったのなら、私はあなたたちを……」
そこで、マリーの声がかすかに詰まった。
仲間たちを見回し、最後にマリーは俺に視線を止める。
「──失望させてしまうのではないか」
いまにも泣き出しそうな細い声が、あがる。
「……そう、思ったのです」
言い切って、マリーは黙り込んだ。
水色の瞳が潤んでいる。夜の帳に、彼女の言葉は溶けて消えた。
全員が固唾を飲んで聞き届ける中、俺はひとり、きっと誰よりも胸を冷たくしていた。
俺は唇を強く結ぶ。伸ばしかけた指先は震え、マリーにかける言葉は、すぐには見つからなかった。
女神教では、祈りと信仰の深さが恩寵に現れると言う。
──俺の原作知識とも整合する。原作主人公には女神と男神への信仰値が設定されていて、その高さに応じて様々な恩恵を得ることができた。もっとも、それは信心深さそのものを映す数字じゃない。二柱の意向に背けば露骨に鈍る、神との親和性のようなものだった。
前にマリーを〈第四の目〉で見たとき、マリーの女神に対する信仰値の低さに俺はぎょっとした。そしてマリーが女神の恩寵を受けていないのがわかり、目を疑った。
主人公以外の信仰値は、原作でも明かされていない。
実際にマリーの信仰値を目にしたのは、その時が初めてだった。だから当時の俺は、印象との落差にただ驚いて──勝手に決めつけた。
マリーの心は、もう女神教から離れかけているのだと。
だから、きっかけさえあれば離れられるのだと。
そう、思い違いをしていた。
だがそうじゃなかった。俺は数字だけを見て、現実を見ていなかった。
マリーの信仰は本物だ。
問題は信仰心じゃない。最初から、マリーは女神の恩寵を受け取れる側の器ではなかったのだろう。
──女神エアラは魔に連なる者に、恩寵を与えていないのかもしれない。
残酷な仮説に、息が詰まる。
おそらくマリー個人を狙い撃ちしたものではない。けれど結果として、マリーは女神の敷いた恩寵の制度から、こぼれ落ちていたのだ。
だとしたら、マリーの広域の回復も、骨折を繋ぐほどの高度治療も、祈りの見返りなんかじゃない。彼女自身の才覚と、積み上げてきた研鑽の結果だ。
……ひどい話だ。
俺は目を伏せる。拳が震える。足もとの感覚がなくなってしまったかのように感じた。
ここでマリーに真実を告げるべきだろうか?
君は恩寵をもらっていない。女神教の信仰をやめたところで変わらない。君の実力なだけだ──そう告げるべきだろうか?
目を閉じて、俺は首を振る。
そんな言葉が、いまのマリーの救いになるとは、到底思えなかった。
俺は顔を上げた。何か言わなければと思う。
だが、先に沈黙を破ったのはカーラだった。
「……み、みんな」
俺は声がした方角を見やる。
亜麻色の髪を揺らしながら、おそるおそるカーラは口を開く。
怯えも迷いもまだ残っている。けれど、その声に拒絶はなかった。
「わ、私は……マリーは信仰を続けていいと、思う」
「……理由は?」
アリスが鷹のような眼差しをカーラに向けた。
「かわいそうだから?」
底冷えした声に、カーラが身を引いてたじろぐ。
だが首を強く振って、カーラはアリスをにらみ返す。
はっきりと、言葉を続けた。
「ち、違う! そうじゃない! ……昔、女神教国の聖騎士やエクソシストに、話を聞いたことがあるんだ。どうしてそんなに強いのか、どうしたらそうなれるのかって。その人たちは、女神様への信仰の深さが、自分たちの強さを支えているって言ってた。だから、その、マリーが言っていることもわかるんだ。信仰を止めたら、癒しの力が弱まるかもしれない、って……。だったら、無理に止める必要もないっ」
カーラが膝の上の両手をぎゅっと握った。
「……それに、あんまりじゃないか。マリーの心の寄りどころを、奪ってしまうなんて──。私たちのために、そこまでしてくれだなんて、私には言えないよ……」
「あなたね……」
アリスが眉をひそめる。
途中からうつむいたカーラに、アリスは冷めた視線を投げかける。
「──アリスは反対?」
アリスがぴたりと止まる。
俺だけじゃない──アリスもマリーも、カナメやカーラも、すぐさま声の主に目を向ける。
アリスの返答を待つことなく、ルールルーは続けて言った。
「ルーはカーラに賛成。マリーの好きにすればいい。マリーがどんな選択をしても、ルーはマリーの味方。……それと」
ルールルーが紫の瞳をじっとアリスに差し向ける。
隣に座るアリスを見上げながら、ルールルーは言った。
「同じクラスのヒルダが回復魔法を使っているとき、彼女以外の魔力の波長を感じたことがある。たぶんそれが、マリーやカーラが言う恩寵なんだと思う」
そう言って、ルールルーはアリスを見つめたまま椅子の上で足をぶらつかせる。カーラに向けた、ルールルーなりの助け舟だと、俺にはしっかり伝わった。
アリスが額に手をかざす。ひとつ、ため息を吐いた。
やれやれと言わんばかりに、アリスは首を振った。
「はあ……。別に私も反対ってわけじゃないわよ。心外ね。……続けたほうが利になるなら、問題ないでしょ」
「ん」
ルールルーの短いあいづちが落ちた瞬間、張りつめていた空気がほんのわずかにゆるんだ。
アリスが頬杖をついて、そっぽを向く。
それがアリスなりの照れ隠しだと分かったのは、きっとその場の全員だ。金色の瞳は冷たさをいまだ宿していたが、発した言葉はもうマリーを突き放すものではなかった。
マリーが目を丸くしたまま、アリスとルールルー、カーラを見ている。
胸元で固く重ねていた指先が、少しだけほどけているように俺には見えた。
ひとりずつに差し出された言葉が、マリーの崩れかけていた足場を静かに支え直しているようだった。
俺の視界に、にやりと愉快そうに口の端を吊り上げるカナメの姿が映る。
彼女は腕を組み、深くうなずきながら笑い立てた。
「ふふっ。アリスよ、素直でないな。こういう時は、ひとことこう言えばよい。マリー!」
マリーが隣の卓のカナメに視線をずらす。
水色の瞳を真っ直ぐに捉えたまま、カナメは言ってのける。
「ならばよしっ!」
「──っ」
力強く、威のある言葉だった。はらりと銀の髪は乱れ、シャンデリアの光を照り返す。
俺は息を呑む。マリーのほうを見ると、俺と同じようにカナメの言葉を噛みしめているようだった。
やがて、マリーの唇がかすかに震えた。
安堵にほどけきるには、彼女が抱えてきたものは重すぎたのだろう。水色の瞳が揺れ、細い指先が行き場をなくしたように膝の上で擦れ合う。
「……私は」
消え入りそうな声だった。
魔導灯の白い光が、ヴェールの縁と濡れかけたまつ毛を淡く照らしている。
マリーの目じりから、一筋の雫が零れ落ちた。
「……情けない女です、ね。こうして、否定されなかっただけで、ひどく、安心している──」
静まり返ったダイニングルームに、そのつぶやきはあまりにも弱く落ちた。
弱いのに、聞き流せない。
胸の奥の柔らかいところが、指先でじかに押されたみたいに痛んだ。
考えるより先に、俺は立ち上がっていた。
椅子を引く音が、精霊樹材の壁に短く反響する。
マリーが俺を見上げる。他のみんなからも視線を一斉に向けられるのを、俺は感じる。
俺は卓を回り込んで、マリーの側に立つ。
そのまま彼女の左肩に俺は手を置いた。厚みのある肩がぴくりと跳ねる。薄い布越しに伝わる体温は、驚くほど頼りない。
それでも手を引く気には、まったくなれなかった。
視界が桃色に染まりかける。──魅了状態に、なりかける。
男が不用意にマリーへ触れる危うさを、俺は必死に体の奥に押し込んだ。舌を噛んでは、耐え忍ぶ。
俺は寄り添いたかった。
慰めの言葉を並べるんじゃなく、行為で示してやりたかった。
女神から見放されているかもしれないマリー。
なにがあっても、俺だけは変わらずに彼女に手を差し出し続けたい──。
そう、思った。
「モブ、様……」
「……夏になったら、予定通りこのメンバーで中級ダンジョンに行こう。絶対に、乗り切ろうな、マリー」
潤みを帯びた水色の瞳を俺は見下ろす。
肩先から伝わる震えが、ほんの少しだけやわらいだ。マリーは顔をくしゃくしゃにし、大粒の涙をこぼしながらうなずいて見せる。
カーラも、ルールルーも、アリスも、カナメも、誰ひとり茶化さなかった。
明日になれば、また厳しい現実が待っている。それでもいまこの瞬間くらいは、彼女の感情を受け止めきってやりたかった。
□
夜は深くなり始めたばかり。
……明日の予定時刻までには、まだまだ猶予はある。
「……で、具体的にはどうするつもりなの? 誘いに乗るの?」
しめっぽくなりかけていた空気を断ち切るように、アリスが卓上へ肘をつきながら口を開いた。
さっきまでマリーを包むように張っていた静けさが、そこでひとつ別の緊張へと姿を変える。
「ああ。向こうがやりたいことは想像つく。……うちの商会から三十人ぐらい集める。アリス、メイド隊も呼べるか?」
アリスの問いに俺は簡潔に答える。
ここから先は作戦会議の時間だ。俺は〈魔法の携帯袋〉から白い魔力紙を取り出し、卓いっぱいに広げる。
乾いた紙の擦れる音が、静まり返ったダイニングルームにやけにはっきり響いた。
魔導灯シャンデリアの白い光を受けて、何も書かれていない紙面が冷たく光る。
つられて他の卓にいたアリスたちが寄ってくる。
アリス、カナメ、ルールルーの順。出遅れたカーラの到着を、俺は待った。
「あ、あのモブ様、カイウス様との話し合いは……? 話し合ってどうにかは……?」
「話し合いはする。だが、あのじじいは最初からマリーの連行を視野に入れてる。今日のやり取りで、手口はわかった。穏便に済む可能性は捨てないけど、それ一本で賭ける気はない。もし教会外にマリーを連れ出そうとしてきた時に備えて、うちの人員とメイド隊で外を押さえる」
「え゛っ」
「えーっ!?」
言い切った途端、正面のマリーが息を呑むのが分かった。
まだ赤みの残る目元が大きく見開かれ、その側に立つカーラもつられるように表情を強ばらせる。
穏便に済ませたいという願い、その前提ごと、俺は最初から切り捨てた。
相手がカイウス・オルフェンである以上、中途半端な楽観だけは持ち込みたくなかった。
「いいわねいいわね、おもしろくなってきたじゃない。そーゆーの私好みよ?」
「喧嘩なら任せろ! お前に手傷を負わせた手練れが相手となれば、用心せねばな!」
「感情値、興奮」
「悪いけどルーはこの後、俺と一緒に現地行って地図作りを手伝ってくれ。教会に忍び込むぞ」
「……感情値、閉口。馬車馬、再来」
アリスの金色の瞳が、おもしろいおもちゃを見つけた子どもみたいにきらりと光る。
カナメは身を乗り出し、ルールルーは無表情のまま短く評した。反応はばらばらなのに、不思議と場の熱だけは揃っていく。
恐れるだけの空気ではなくなった。全員の意識が、同じ明日へ向き始めている。……マリーとカーラは半歩遅れているようだが。
「え、ちょ、モブ様? し、忍び込み?」
「え、え、え?」
「俺はこの後実家に帰って動員準備する。ルーも一緒に来てくれ。マリーも連れていきたいけど、あのじじいとの遭遇の可能性を考えると、マリーはここでいったん待機がいいな。今日は全員ここに泊まってけ。明日の午前授業は全員欠席で。アリスたちは……」
「「泊まっ!?」」
戸惑うマリーとカーラを尻目に、俺は卓上の魔力紙に魔力を通す。
赤い魔力光がまたたいたのち、黒線が白紙の上に刻まれていく。
正面門、側道、塀沿いの死角、荷車の寄せられる広さ。今日見回った際の記憶を頼りに、簡易地図を描く。頭の中で組み上げていた危険が、ひとつずつ目に見える形へ落ちていく。
吹きすさぶ夜風がガラスを叩いている。
外はすっかり暗い。泣いている暇も、迷っている暇も、もう長くは残されていない。
明日に備えて、俺たちは動き始めた。
当面1週間おきの更新予定となります




