第59話 マリーの深き信仰①
春シーズン第十一週五日目、夜。
セーフティーハウスのダイニングルーム内で、俺はパーティメンバーが来るのを待つ。
帰る途中、女子の貴族寮と平民寮の前で通信魔法を使った念話は飛ばしてある。アリスとルールルーには「女神教がらみで問題が起きた」と概要を伝えた。
アリスは同じ貴族寮のカナメとカーラを。ルールルーは同室のマリーを連れて来ることだろう。
卓へ上着を放ると、汗で湿った重みで布が鈍く卓に貼り付いた。濃紺の布は魔導灯シャンデリアの白光を鈍く返す。
左腕を見る。白シャツの左袖には、肘から手首にかけて暗い染みが広がっていた。
腕をまくり、擦り傷がいくつも浮いているのを俺は確認する。
「くそっ……」
頬骨の下は触れるたび鈍くうずく。
顎も重い。左腕も鈍く痛み、俺は顔をしかめる。
俺は腰の携帯袋から取り出した回復ポーションをあおった。
甘さより先に薬草のえぐみが舌裏へ貼りつき、飲み下したあともしばらく鉄っぽい後味が残る。
あわよくば単独撃破、とはならなかった。思ったより、俺はカイウス相手になにもできなかった。
こちらが入れることができたのは、すれ違いざまの拳一発だけ。
踏み込みの深さも、受けてから崩さない軸も、年季が違った。
長く聖騎士の技能を磨いてきた、世界で最高峰の男なだけある。
経験の差に加え、純粋な戦闘職との差を痛感させられる。
単独でやるには、正面からぶつかってどうにかなる相手じゃない。なにか策を練る必要がある。
そんな考えを頭の中で噛みしめていたとき、玄関の扉が荒っぽく開いたのを俺は聞いた。
呼び鈴は鳴らさなくてもいいとは連絡済だ。
だとしても勢いがありすぎる。廊下を駆ける足音がまっすぐこちらへ伸びてきて、次の瞬間、部屋にシスター姿のマリーが飛び込んできた。波がかった水色の髪はシスターヴェールの下で毛先がほどける。彼女の呼吸は荒く、肩が大きく上下している。
「モ、モブ様っ……!」
マリーは返事も待たず、テーブルの脇まで来て立ち止まった。
視線が俺の顔をかすめ、すぐ袖へ落ちる。
左腕に水色の瞳が移った途端、彼女は口元を押さえ始めた。
マリーはそのまま床へ落ちるみたいに腰を落とす。内履きすら履かず飛び出してきたらしい。白のストッキング越しの足が、床板の上でかすかに震えていた。
腰を下ろしたまま、マリーは細く息を乱す。
余計な心配をかけてしまったか。俺は深く息を吐いて、首を横に振った。
もうひとつの呼吸を俺の耳は拾う。マリーから視線を上げると、扉の向こうで、とんがり帽子の先端がひょこりと現れた。
すぐさまルールルーが顔を出す。紫髪のボブが帽子の影で揺れ、黒外套の中には制服。彼女は呼吸が乱れておらず、ひと目で部屋の中を見回す。
マリーと違って〈中転移〉を使って来たんだろうなと俺は推測する。
「モ、モブ様……そのお怪我、なにが……」
俺の腕に手を伸ばしかけ、マリーは止める。
俺は低い声で答えた。
「女神教国の聖騎士、カイウス・オルフェン」
「──ッ!?」
「その男と、交戦した。……そいつからマリー宛に手紙も預かってる」
俺が答えた途端、マリーは瞳孔を見開いた。
肩を震わせ、怯えをその目にたたえている。
俺は席を立つ。脚が床をこする音に、マリーの肩がもう一度小さく跳ねた。
「詳しい話は、みんなが揃ってから言うよ。もうすぐアリスたちも来る。ふたりとも座ってくれ」
茶屋でのやり取りをどこから切り出すべきか、俺は頭の中で順番を組み直す。
上着の脇に置いた、しわを伸ばした手紙に俺は目を向けた。
□
ほどなくしてアリスたちも到着し、ダイニングルームの空気はいっそう張りつめた。
俺は片方の卓の椅子に腰を下ろし、マリーには俺の真正面へ座ってもらう。残りの面子には隣の卓へ回ってもらった。
藍の稽古着のまま駆けつけたカナメは、まだ肩に鍛錬の熱を残している。
その奥でカーラは制服姿のまま背を伸ばし、じっと耳を傾ける。
手前の席に座ったアリスは艶やかな金髪を肩へ流し、袖なしの赤いブラウスに黒の細身パンツという実務着めいた格好で足を組んだ。
ルールルーは奥の席で黒外套を椅子の背へ掛け、とんがり帽子の下から無言でマリーを見ている。
部屋の中をひと通り見回してから、俺は正面を見据える。
うつむくマリーへ、手紙を差し出した。
「マリー、はじめに」
彼女の肩がぴくりと揺れる。
俺はひとつ息を整えてから、言葉を継いだ。
「この手紙をひとりで読んでほしい。それから、みんなに事情を話すか決めてくれ」
「……」
「俺はもう中身を見た。一緒に抗うつもりだから、安心してくれ」
カイウスの手紙に触れるマリーの指先は震えている。彼女は、手紙をそっと裏返した。
差出人と割れた封蝋を見て、水色の瞳がかすかに揺れる。
短く目を伏せてから、彼女はおぼつかない手つきで中身を取り出した。
封蝋の割れ目へ、卓の全員の視線が吸い寄せられた。誰も椅子を鳴らさない。紙が擦れる音だけが、妙に細く部屋へ残る。
マリーが読み終わるのに時間はかからなかった。
手紙を折りたたみ、卓に静かに置く。
胸に手を当て、彼女は深く息を吐いた。顔は青ざめ、唇をきつく結んでいる。
「で、いったいなにがあったのよ?」
しびれを切らしたのか、アリスが俺とマリーに問いかける。
合理的が過ぎんぞこいつ。アリスのせっかちさに俺はたまらず肩をすくめた。
アリスは、目の前に座るカナメとカーラの咎めるような視線を気にした様子もなく、催促を続ける。
「急ぎの用事なんでしょ? だったら早く共有してほしいわ」
「アリス……さん。そんな言い方……」
「なによ? モブが私たちも呼んだってことは、協力してほしいからでしょう? ここまで来て何も伝えないってならそれこそ不義理よ?」
カーラの擁護の声にアリスがジト目を送る。
アリスはただ、止まりかけた話を前へ蹴り出そうとしているだけだ。合理性がそのまま声の棘になるのが、アリスの難儀な部分だった。
「あと前から言ってるけど、さんはいらないわ。まだ他人行儀なの、あなた?」
「う……」
「いえ、アリスの言う通りです。……話します」
マリーは立ち上がり、手紙を持った手を隣の卓へ向かって差し出した。
アリスが身を乗り出して手紙を受け取る。アリスがざっと手紙に目を走らせたのを俺は見逃さない。その後、アリスは手紙をカナメたち三人に見えるよう卓上へ置く。
三人の視線が、卓の上に注がれた。
【マリー・バッドガール殿
突然の書簡を許されたい。
あなたがなお、被害者への仕送りと教会への寄進を続けていることは承知している。だが、それをもって償いが済むとは私は考えない。
レベルを落とされ、進路を断たれた若者たちの未来は戻らず、回復後もなお一様にあなたをかばう異様さも消えていない。私はあの日の件を、事故とも、済んだ話とも見なしていない。
あなたが悔いているのだとしても、その沈黙を赦しに変えるつもりはない。私はあなたを赦していない。
春十一週の六日目の昼過ぎ、〈聖滴の庵〉での祈祷後に時間をいただきたい。逃げずに答える意思があるなら、確認の場を設ける。
返答がなくとも、私はこの件から退かない。
カイウス・オルフェン】
「むう。これは、果たし状か?」
「……っ!?」
「感情値、不安」
「春十一週の六日目──明日ね。で、このカイウス・オルフェンってのは誰なの?」
「女神教国の聖騎士団で、いまは教練部門で特に男子候補生の指導を任されている方です。……事故の被害者たちの、指導教官です」
「なるほど、恨みが所以と」
「ま、待ってくれ! ど、どうしてマリーが聖騎士に狙われてるんだ?」
「まだそこから?」
「いえ、いいのです。……カーラ」
「え、あ、うん」
「……私はあなたに隠していたことがありました。──モブ様のお考え次第ですが、この秘密を聞いて不安を感じたのなら、今後私はあなたに近づきません」
「え……」
女神教徒で、いちばん怯えられてもおかしくない相手だ。俺は黙って二人のやり取りを見守る。
マリーは対角線上のカーラに目を合わせたままひと呼吸入れる。
短く、マリーは告げた。
「私は、淫魔の血を引いています」
「……っ!?」
カーラの腰が浮きかける。
カーラの喉がひとつ鳴った。逃げるみたいに椅子を引くことも、祈るように目を閉じることもない。ただ膝の上で、指先だけがぎこちなく組み直されるのを、俺は見た。
唇は閉じず、言葉を選んでいるかのように、カーラは押し黙った。
「──その手紙でいう”あの日の件”というのは、私の身に眠る力が暴走した事件のことです。私を看護してくれていた男性教徒たちを、私の身に眠る淫魔の血が不意に魅了してしまい、彼らのレベルを落としてしまった」
「……っ」
「わざとじゃないんでしょう?」
「はい、決して。ですが、それも。被害者を生んだという事実には、なにも変わりません」
アリスの問いに答え終え、マリーがうつむく。
俺はカーラの顔を横目で注視する。
カーラがマリーから視線を逸らしかけるも、唇を強く結んで耐えた様子を見て、俺は胸を撫でおろした。
「マリー、私は……」
「……っ」
「私も、受け入れるよ。女神教徒としては、その、複雑だけども……」
張りつめていたダイニングルームの空気だけが、数瞬遅れてゆるむ。
マリーの喉がひくりと鳴る。
下唇をマリーは内に隠し、胸の前で組んだ指を震わせる。こらえていたものが堰を切ったみたいに、マリーは深く、深くカーラに向かって頭を下げた。
俺にはそれが、礼というより、拒まれずにすんだことへ縋る祈りみたいに見えた。
マリーが頭を下げてから、しばしの沈黙が卓を覆う。
その空気を断ち切るように、アリスが口を開く。
「……それで、このカイウスって人の目的は? というよりこの手紙、誰からもらったの?」
アリスの金色の瞳が俺に注がれる。
俺は頭をひと搔きしてから答えた。
「カイウス・オルフェン本人からだ。聖堂外苑を歩いていたら、向こうから声を掛けてきてね。その後、色々あった。──マリーの情報に補足しとく。〈第四の目〉で見たとこ、カイウスはレベル4の五十六歳男性。教皇庁付特務班の人間で、“灰盾の神父”“教皇の刃”と呼ばれてる。昔から教皇命令の後ろ暗い仕事を任されてきたらしい」
原作知識を交えてカイウスをレベル4の男性だと伝えると、隣の卓ではルールルーを除く全員が目に見えて驚いていた。
アリスは片眉を跳ね上げ、カナメは額の銀髪を指で払いながら「ほう」と感心したように息を漏らす。カーラは口をぽかんと開けていた。
「その歳でレベル4の男? 信じられないわね」
「いや、和国にも我の世話係で同じ位のものがひとりおる! カイウスという御仁、なかなかの手練れと見たぞ」
「実際、手強かったぞ」
「なんと!」
「た、戦ったぁ!? モブくんが!? 女神教国の、聖騎士と!?」
「ああ、ほんとうに色々あってさ。明日ぶちのめしてやるって、宣言して逃げ帰ってきた」
「ええーっ!?」
「感情値、驚嘆」
今度はルールルーすらも驚いている。カーラにいたっては事の重大さに打ち震えたのか、席を立つ始末。
俺は正面のマリーを見る。彼女は目を伏せ、ただ指を組みながら、うつむいていた。
「マリー。カイウス・オルフェンは、君の素性を明らかにして、被害に遭った連中の名誉を回復しようとしている。その意志は強固に見えた」
「名誉を回復?」
アリスの疑問に、俺は答える。
「女神教国内でのマリーの事件は、大きく騒がれていない。……もともと子づくりを賛美して、性に奔放な考えだからだろうな。珍しいことでもないみたいだ。カイウス・オルフェンの話じゃ、周りはあの貞淑なマリーがついに男に目覚めたとおもしろがってるみたいだぞ」
「──も、モブ様! 私が彼らに手を出しただなんて、決してそんなことは……!」
「知ってるよ、まだ清らかなままだろ?」
「モブ様ッ!!」
マリーの顔がぼんっと音を立てそうな勢いで赤くなる。
隣でそれを見たアリスは、眉をひそめたままわずかに身を引いた。呆れと未知との遭遇が半々、といった顔だ。
対してカーラはぱあっと表情を明るくし、亜麻色の髪をふわりと揺らす。同類を見つけた喜びか、胸を撫でおろしている。
カナメとルールルーはそろって小首を傾げており、なんの話題なのかつかめていない様子だった。
「続けるぞ? それでだ、カイウス・オルフェンは被害者たちが自分たちの意志でマリーになびいたのではないことを証明したがっている。マリーが魔に連なる者と明らかにすることで、被害者たちの名誉が回復できると、信じている」
「……」
「なるほどね。それでこの街にマリーを追って来てたって話ね。で、マリーを突き出すの?」
「んなわけあるか……。さっき言ったろ? ぶちのめすって宣言してきたって。──アリスは協力しないか?」
俺の返答に、マリーが息を呑む。
カナメは当然だとでも言いたげに腕を組み、ルールルーは帽子のつばの下で俺とアリスを見比べていた。
カーラだけが、何か言いたげに唇をきゅっと結んでいる。
「愚問ね」
即答だった。
足を組んだままのアリスは、まばたきひとつせずに俺を見返す。
「マリーの価値は高い。私の目がそう告げているし、このパーティでマリーは欠かすことのできない、中衛も後衛もこなせる貴重な回復役よ。私があなたの立場だったら女神教国なんかに絶対渡さない。ただ、全員の意思を確かめたかっただけよ」
そう言って、アリスは他の面々を見回した。
協力するかどうか、その答えはもう出ている。
それでも彼女の視線は、そこで話を終わらせなかった。守ると決めたなら、なおさらあいまいなものを残したくない。そんな硬さが、マリーに向けられたまなざしに残っていた。
「──でも、分からないのよね」
金色の瞳が、まっすぐマリーを射抜く。
値踏みの光は消えていない。けれど、それだけでもなかった。踏み込んででも確かめておきたい。そんな理屈っぽい誠実さが、わずかに声へ混じっているように俺には聞こえた。
「そもそも淫魔の血を引くって話なら、なんであなたはまだ女神教を信仰してるわけ? 自分の身を危険にさらしているだけじゃない。仕送りや寄進もそう。淫魔なんて、あそこじゃ宗教あげて殲滅対象でしょう? ……水の王国も、火の帝国も、似たようなものだけど」
問いが落ちた途端、マリーの肩がびくりと跳ねた。
胸元で重ねていた指が止まり、祈るみたいに触れていた手がそのまま固まる。
水色の瞳がゆっくりと伏せられる。返す言葉を探しているのに、どこから口をつければいいのか分からない。そんな顔に見えた。
「──その聖騎士がこの街に辿り着いたのも、あなたがまだ女神教と繋がっていたからじゃないの? はっきり言うけど、もしそうなら、これ以上はパーティにまで迷惑が及ぶって思わない?」
「それは……」
マリーの唇がかすかに開く。
けれど、声は続かなかった。
「……マリー。アリスの言い方はきついけど、言ってること自体はもっともだと思う。俺はいい。君の事情ごと背負うって、もう決めてる。けど、パーティのみんなにまで黙ったまま背負わせるのは、違うと思う」
ずるい聞き方だ。
そう思いながらも、俺は聞かずにいられなかった。信仰そのものを責めたいわけじゃない。ただ、もし減らせるはずの火種があったのなら、見過ごしたままにしたくない。
「……わかりました」
マリーは一度、まぶたを伏せた。
胸元で強ばっていた指がゆっくりほどけ、代わりに膝の上で静かに重ね直される。怯えを消せたわけじゃない。ただ、それでも逃げずに言葉を選ぼうとしているように、俺には見えた。
顔を上げるマリーは、青ざめたままなのに、どこか凛として見えた。
波がかった水色の髪が魔導灯の白光をやわらかく返し、張りつめた瞳の奥に、かすかな決意の色が宿っている。聖女候補と呼ばれていた頃の名残なのか、それともいま苦しさごと立っているからなのか。
こんな時に見惚れるのは違う。そう思っても、俺は彼女から目を逸らせなかった。




