第58話 モブの怒り
胸の芯から、足の指先に至るまで熱が行き渡っていく。
夕日に照らされた顔を、俺はひとり残らず見た。
目の前の老騎士。俺の右脇に立つ女主人。老騎士の後ろで店の入り口を塞ぐ少年店員。女主人の背には、白地のチュニックをまとう巡礼客五名。
ひとりひとりの息づかいにまで俺の意識は巡る。ひりつくような緊張が、体中にみなぎった。
俺の脳裏に、母親から教えられた言葉が過る。
『……モブ。脅してきたカスは、ぶちのめしなさい。下手に引いたら相手をつけあがらせることになる。脅しに屈するようなゴミと扱われ続ける。うちの看板を背負うなら毅然と対処しなさい。いいわね──』
俺の母親セリアは、死体を足蹴にしながらかつてそう語った。
老騎士をにらみつけたまま、俺はゆっくりと腰を浮かせる。
椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。
「落ち着いてください、モブさん」
カイウスは剣を抜かない。
その代わり、茶屋の空気へ静かな声を染み込ませる。
「──彼は少し動揺しているだけです。みなさん、刺激せぬように。……ただ、扉の前だけは見ていていただけますかな。もし飛び出せば、危ない」
やり口がうまい。
命令しているようでいて、善意のお願いに聞こえる。
その声を受けて、巡礼客たちは互いに顔を見合わせ、小さくうなずき合った。給仕の少年は入口の前で顔をこわばらせ、俺の右手にいる巡礼客たちは通路を塞ぐよう立ち位置を変えていく。
誰も俺へ敵意を向けているつもりはない。
善意だ。保護だ。心配だ。
だからこそ厄介だった。
「モブさん。お座りください」
灰色の瞳がまばたきもせずに俺を見つめ続ける。
カイウスの手はまだ素手。
篭手をはめる余裕はなさそうである。彼は親指で柄の先端をなぞり、感触を確かめている。
「──帰りますよ。もうあんたと話すこともない」
「このような場では、波風を立てぬほうが得策ですよ、モブさん。彼女を呼び、事実だけ確かめれば済む話です。余計な騒ぎになれば、困る者が増える」
灰色の目は俺ではなく、扉、女主人、巡礼客たちの顔を順に撫でていく。
誰が怯え、誰が従い、どこを塞げるかを確かめるような視線だった。ひとりひとりの事情を見る目ではない。
彼らを困る者に仕立て上げたのはあんただろうが──俺は下唇を噛んだ。
俺は卓の上の手紙を取る。
指先に力が入り、封の縁が食い込む。紙が小さく鳴った。
カイウスをにらみつける。
「あんたは俺がおとなしく従うとでも?」
「ご実家は、女神教国内で商いをなさっているでしょう?」
カイウスは、どうということもなさそうに肩をすくめた。
なだめるような声色だった。だからこそ腹の底が焼ける。
熱が首筋を這い上がり、喉の奥がひりついた。
「……それで?」
「あなたは優しい方だ。周りを巻き込むことを、よしとしない。穏便に済ませたいはずだ」
「勘違いしてるよ、じいさん」
奥歯がこすれた。
せり上がる熱を噛み殺し、俺は低く返した。
「帰る」
灰色の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
剣の柄頭に置かれた親指が、一度だけ止まった。
カイウスの返事は半拍遅れた。まぶたが一度だけゆっくり落ち、喉仏が上下する。
「……あなたのせいで、ご実家は大変な目に遭うでしょうな」
「──でまかせもたいがいにしろよじじい! できるもんならやってみろっ!」
頭の奥が真っ白になる。
熱が一気に前へ噴く。
気づけば俺は半歩踏み出していた。
椅子が傾いて転ぶ。
胸の奥で心臓が荒く打ち、握った手紙がぐしゃりと潰れた。
「あんたがうちの邪魔するってんなら、相手してやる! 俺はアイカータの看板を背負ってるんだ! 俺が引いたら看板に泥を塗る! 教国に、女神教徒につけあがらせることになる! うちで働く連中全員に迷惑がかかるんだ! 引くわけねえだろうがっ!」
脇で立っていた女主人が、弾かれたように俺へ詰め寄った。
太い指が、制服の胸元をぐしゃりと掴む。布越しに、爪が食い込んだ。
「聖騎士様の前で、何を偉そうに……っ。うちの店で騒ぎを起こす気かい!」
怯えと怒りが、顔の上でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
水色の三つ編みが肩口で揺れ、丸顔が引きつっている。
俺は胸元を掴むその手を見下ろす。
「……まだ引き返せる。うちと揉めたらどうなるかわかってるか? 離せ。離さなきゃ──」
低く告げるも、掴む力はさらに強くなる。
胸元が引かれる。身体が半歩ぶれた。
俺は一瞬だけ目を伏せる。
握り締めた左拳を──。
「ぐぅっ!?」
女主人のみぞおちに、突き立てた。
「警告はしたぞ」
「ぁ……っ!」
女主人の身体が折れる。
掴んでいた手がほどけ、そのまま後ろへよろめいて卓の脚へぶつかる。巡礼客の集団に寄り掛かった。
椅子が倒れる。ティーカップがひっくり返って、薄い茶色の液が床へ散る。
女主人は巡礼客らに支えられる。紺地のエプロンの上から腹を両手で抑え、うめき始めた。
店内にどよめきが走る。
「……ぁああああああっ!!」
女主人の側にいた巡礼客の女が倒れた椅子を持ち上げる。
俺に襲い掛かってきた。
椅子の軌道を俺は見る。
床を蹴る。振り下ろされた椅子へ、俺は左足を伸ばした。
乾いた破裂音。
椅子の脚が、俺の蹴りを受けた瞬間にへし折れる。
巡礼客の女は両腕ごと跳ね上げられ、砕けた木片を散らしながら後ろへたたらを踏んだ。手首を押さえ、彼女の顔が引きつる。
「ひっ……!」
悲鳴は、誰のものだったのか分からない。
俺は蹴り足を持ち上げたまま、正面を見据える。女主人を支える巡礼客たちも、砕けた椅子と俺の足元とを見比べたまま固まっていた。
床へ落ちた木片が、からからと乾いた音を立てる。
茶の匂いに、割れた木のささくれた匂いが混じった。
俺はいまだ片足で立った状態で、左手側に視線を向ける。
白んだカイウスの顔をほんの一拍だけ見やった。
「なんて、男だ……」
「……」
カイウスがぼそりとつぶやく。俺は蹴り足を下げた。
我に返ったのか、すぐさま首を横に振る老騎士を尻目に、俺は左手で上着のほこりを払う。
砕けた椅子を踏み越える。
再び正面の、女主人と巡礼客たちを見つめた。
容赦しない。
そう言わずとも伝わったのか、白地のチュニックをまとった女たちは、じり、と半歩ずつ後ずさった。
一方で巡礼客に寄り掛かっていた女主人が一歩前に出る。
唇を手で拭いながら、俺をにらんできた。
「お、男が、女に手を上げるなんて……!」
「……ごもっとも」
俺は肩をすくめて応対する。
目の前に男の聖騎士がいるのに、その言葉が先に出る。少しばかり俺は聖騎士に同情する。
一歩さらに進み出て、俺は通路に出る。女主人を見下ろす形となった。
女主人の目尻からは涙がこぼれている。
俺の胸はずきりと痛む。
水色の瞳を見据えたまま、俺は言った。
「あんたは俺に手を出した。警告をしても聞き入れなかった。──おめでとう。これであんたは、晴れてうちの商会の敵だ」
低くこぼれた自分の声が、ひどく乾いて聞こえた。
「……え?」
「……わかってなかったなんて言わせない。喜べよ、明日から茶を飲みに来る客より、あんたの顔を見にくる客がずっと増えるだろうよ。あんたが折れるまで、な」
俺の言葉の意味をやっと理解したのか、女主人の瞳孔と口は開き、わなわなと震え始めた。
……首を振ってももう遅い。
女主人の吐息は、かすれたような音を立てた。
「ぁ……ぁ……」
想像ができたのか、女主人は膝から崩れ落ちた。
もしかしたら、過去に同じような嫌がらせを見たことがあったのかもしれない。
女主人の顔から俺は視線を動かす。
周りに向かって、俺は大声を上げた。
「いいか! 俺に手を出したなら必ず報復してやる!! まずはこの店だ!! そこの椅子を振り回したあんたの顔も憶えたからな! 他の連中も痛い目見たくないだろう!? ならとっとと道を開けろ!!」
脅しは口だけでは成立しない。
こいつならやるかもしれないという、威や恐怖が必要になる。
俺が入り口に向かって踏み出すと、合わせて巡礼客の集団が肩を跳ね上げ、通路から退いた。
右足を持ち上げようとして俺は止める。後ろから引っ張られている。
後背を見ると、女主人が俺のズボンを両手の指で捕まえていた。力は弱い。
俺はうつむく女主人に尋ねる。
「今度は何だよ?」
「……ださい」
「ああ?」
「許して、ください、すいません、でした……」
足にすがりついて泣きつく女主人。
頭を下げて店を守ろうとする姿を見て、俺は目を細める。
喉奥がきしむ。努めて冷静に、俺は言葉を発した。
「もう遅い。あんたは俺に手を出した。……頭を下げただけで見逃すっていう前例なんて、作っちゃあいけないんだよ、こっちは」
そう俺が告げた瞬間、女主人のズボンを握る力が強まった。
俺は掴まれたほうの足で床を思いきり踏む。
女主人の指が外れ、彼女の手は床に着く。
彼女が再び変な気を起こす前に、俺は通路の反対側に遠のいて距離を置いた。
「……泣きつくんなら、そっちの聖騎士様にするんだな」
俺は、先ほどから剣の柄に手をかけたままの老騎士を見る。
この騒動を引き起こした人物。
剣を用いて制圧する気はもともとなかったのだろうか?
俺が容易に屈すると判断しての交渉だったのか?
ほんとうに、とんだ見当違いだ。
俺は左手で自分の首の根を温めた。
巻き込まれてしまった女主人を不憫に思い、少しだけ目を伏せる。
俺の進言を聞き入れたのか、女主人が両手を床についたままカイウスに呼び掛ける。
涙を浮かべて懇願を始める。
「せ、聖騎士様……っ。わ、私、よかれと思って……っ。どうにか、どうにか……!」
女主人はカイウスへ這うように寄る。
老騎士の灰色の目は、店の惨状を順にたどっている。
倒れた椅子。床に散った茶。手首を押さえる巡礼客。壁際で腰を抜かした給仕の少年。
それでも彼は表情を変えない。唇を固く結んだままだ。
俺を一瞥してから、カイウスは女主人に近寄った。
カイウスが膝を着いて、女主人と視線を合わせる。
カイウスの両手がゆっくりと女主人の両手を包む。
低く落ち着いた声で、彼は言った。
「店主殿。まずは手当てを。誰か、水と布を。ほかの方々も下がってください。これ以上、誰もこの青年に触れてはなりません」
巡礼客たちが顔を見合わせる。
だが、聖騎士の声に逆らう者はいない。数人があわてて壁際へ寄り、ひとりの女が店の奥へ駆けた。
女主人の肩は震え続けている。カイウスは手を離さぬまま、もう一度口を開いた。
「あなたがよかれと思って動いたことは承知しています。──女神はあなたの善き行いを見ておられますよ」
それだけだった。
商売の不安も、街で生きる現実も、何ひとつ引き受けない慰め。
一体何を言っているのか? 俺は理解できずに目をむく。
女主人の顔が歪む。
笑っているようで涙を流す顔は、奇妙で、不気味で、俺の胸を強く打った。
奥歯が、ぎり、と鳴った。
怒りが、腹の底から一気に突き上がる。
カイウスが立つ。
白の外套が揺れ、老騎士は騎士剣を鞘ごと腰から外した。
鞘金具の擦れる硬い音が、どよめきの残る店内を切り裂く。
だが、向けられたのは抜き身の切っ先ではない。鞘先は俺の喉ではなく床を指していた。
老騎士は俺と巡礼客たちのあいだへ半身で立ち、鞘付きの剣で境界線を引く。
俺を制しながら、同時に後ろの連中へ近づかせない構えだった。
「みなさん、下がってください。通路を空けるのです。ここをこれ以上の戦場にするわけにはいかない」
白地のチュニックがざわりと揺れる。
巡礼客たちは互いの袖を引き合いながら、ためらいがちに壁際へ寄った。
遅すぎる。だが、ここでようやく場の優先順位を正したのだと分かった。
「……誤算でしたな。あなたは家名を背負う以上、この場で民にまで手を上げはせぬと見ていた。白刃を晒さずに話を付けるつもりでしたが、その余地は失われた」
「あんたが巻き込んだ連中に、思うところはないのか?」
「手を上げたのはあなたでしょう?」
「──ああ、俺がやったさ」
一拍。
カイウスが目を細める。そのまま、彼は低く言葉を継いだ。
「見上げた男だ。それゆえに危うい。……では、外に行きましょうか」
顎でカイウスが入り口を示す。さめざめと泣く、女主人に彼は背を向ける。
どうして、こんな無責任なことができるのだろうか。
女主人も、店の客も、この男の言葉を信じて動いた。
巻き込み、傷つけ、好き勝手にふるまう。
俺の胸の奥で、どす黒い何かが煮え立った。
「主人!!」
俺は衝動に駆られて大声を上げる。
足元に倒れていた椅子の足をひっつかんで、それを窓ガラスに叩きつけた。
ガシャン。短い音を立てて窓ガラスは砕ける。
「……なにを」
カイウスの疑問に答えない。
俺はカイウスの後背にいる、固まったままの女主人に向かって叫ぶ。
「店への報復はこれで終わりだ! 窓一枚ですませてやる!! 今度楯突いてきたらこんなんじゃすませねーからな!!」
俺は女主人の顔を見なかった。すぐに目を逸らす。
ひと呼吸吐いた後、カイウスに背を向けて俺は言う。
「……行くぞ、クソじじい」
場に緊張が満ちる。
周囲の巡礼客も固まったまま。
鞘付きの剣を下げたまま、カイウスが半歩だけ前に出る。
俺たちは入り口へ向かった。
通路を再び塞ごうとする巡礼客たちを俺はひとにらみして押し返そうとする。
「道を開けてやってください。彼は私が受け持つ」
その一言で、誰もが身を引く。
聖騎士の威光を振るうのなら、最初からこう使えばよかったのだ。俺は舌打ちする。
道すがら、腰を抜かしたままの給仕の少年へ目をやる。
俺はその肩を支えて近くの椅子へ座らせ直した。少年は真っ青な顔で、何度も浅く息をしている。
「……しばらく座ってろ」
それだけ言って、俺は扉へ手をかけた。
背中へ突き刺さる無数の視線を受けながら、俺は茶屋を後にする。
背後からは、得物を腰へ戻す硬い音と、重みのある足音だけが追ってきた。
□
茶屋を出ると、春の夕気が火照った頬をひやりとなでた。
西の空にはまだ茜が薄く残り、その上から群青がじわじわと広がり始めている。背後では砕けた窓から灯りが漏れ、石畳へゆがんだ四角を落としていた。
通りを行く人影はまばらで、店先の灯りと遠くの鐘、車輪のきしみだけが、聖堂外苑の夕暮れが宵へ傾いていく気配を細くつないでいた。
空の高みには、まだ明るさを残した薄青の底へ、白い月が早くも浮かんでいる。欠けた刃みたいな細さだった。
茶屋の正面から少し離れたところで、俺たちは足を止めた。
胸中の熱はまだ引かない。だが夕気を吸い込むたび、怒りは散るどころか輪郭だけを鋭くしていく。
握り潰した手紙を持ち上げ、封の折れた縁で店先の灯りを弾かせながら、俺は老騎士へ告げた。
「……手紙は預かる。あんたの思惑通り、彼女に渡してやるよ」
灰色の瞳が、見開く。
白い外套の裾だけが宵風に揺れた。
「……よろしいので?」
「これに何を書いているかは想像つく。……あんたとマリーをふたりきりにはさせない。それに」
中身はすでに見たとは言わない。言葉を切る。
握り潰した封筒の角が、手のひらへ食い込んだ。
茶屋の中で煮え立ったものが、夕気に触れても少しも冷めない。腹の底で、静かに焼け続けていた。
「俺は、あんたを直々にぶっ潰したくなった。この中身を確かめたうえで、あんたにけじめをつけさせてやる」
「けじめ、ね。いいでしょう、お待ちしておりますよ。……ですが」
老騎士の視線が、一度だけ茶屋の入口へ流れた。割れた窓。怯えた店主。聖騎士を見守る巡礼客たち。
あの場をああ収めた以上、このまま俺を帰せば、今度は自分の顔が立たない。そういうことだろう。
「……」
「私にも面目というのはありましてね。茶屋にいた者たちの手前、あなたをすぐに帰すわけにもいかない」
喉の奥で舌打ちを噛み潰す。
つくづく、最後まで形にこだわる男だ。
とっととマリーやカナメたちにこの件を共有しなきゃあならないというのに。
「……どのつら下げて言ってんだ、クソじじい」
俺は手紙を内ポケットにねじ込み、肩を回した。
指の骨がひとつ、こきりと鳴った。続けて腰の後ろに吊るしたナイフホルダーに手を伸ばす。
老騎士もまた、鞘付きの剣を両手に構える。
間合いは三歩半。石畳の継ぎ目まで、妙にはっきり見えた。
「いざ」
◆□◆
-カイウス Side-
短い追跡劇の末、若者は暮れ残る小路の向こうへ消えていった。
転がった際に石畳に擦ったのか、彼の袖の下から落ちた血が、暗い点をいくつか残す。それもすぐ、建物の影へ沈んで見えなくなる。
私は追う足を止め、そのまま聖堂外苑地区の端まで歩いた。
低い石柵の向こう、交易都市ミカの東大通りには青の照明がひとつずつ灯り始めている。聖堂外苑の静けさと異なり、あちらはまだ荷車も人声も途切れない。北東には上級冒険者学校の棟が夕闇へ黒く浮かび、いくつかの窓だけが遅い灯りを抱いていた。
春の夕気が頬の傷へ沁みた。
取り出した青布で口元を拭う。布に、薄く血がにじんでいた。おそらくは、互いの拳が頬をかすめた時のものだろう。
私は東大通りの先にある、上級冒険者学校の輪郭を見やった。
『──実家を継ぎたいと思ってるんです。そのために、強くある必要がある。……内緒ですよ?』
あの言葉は、けっして夢物語を語っているわけではない。
先ほどまでの短い交錯だけで、軽視してよい相手ではないと知ることができた。
そして彼は、私が特務班で培った話術も交渉術もものともしなかった。
男が持ち合わせてないはずの苛烈さを肌着のように纏い、どんな男よりも女社会に適合している。
まぶしい、男だった。
男神教の徒が見たら、旗印にしかねない危うさがある。
……あの若者なら、きっとマリー・バッドガールを連れて私の前に現れるだろう。
青い照明が連なる先を見つめたまま、私はそう確信した。
『あんたが巻き込んだ連中に、思うところはないのか?』
外套の裾から薬草茶屋で飲んだ茶の匂いが漂う。
店主や巡礼客には迷惑をかけた。怯えさせもした。
……だが、だからといって手を止める理由にはならない。
あの娘が魔に連なる者と分かれば、すべては済む話だ。
そうなれば、猊下や団長にも顔立てできる。……被害者たちの過去の誇りを取り戻すことができる。
私は胸中でそう繰り返し、なお薄く血の滲む口元をぬぐった。
明日は、こちらも備えを改めねばならない。場も、退路も、確認の手順も。
短い手合わせだけで、それだけの相手だと思い知らされた。
そして彼と肩を並べるものたちもきっと、手強いに違いない。
「女神の導きあらんことを……」
祈りの句をひとつ結んでから私は来た道を引き返した。
遠くで鐘がひとつ鳴る。
東大通りの喧噪も、聖堂外苑の静けさも、どちらも暮れ切る前の街の呼吸として混じり合っていた。




