第55話 カナメの心配、現在の距離
春シーズン第十一週一日目、夕方。
俺は自室でひとり、本日の連携訓練の成果を振り返っていた。
シャンデリアの光が茶革の魔導板帳を照らし、指先がざらりと紙を擦る。
訓練場で聞いた盾と剣の相打つ音と短い詠唱が、まだ耳の奥に残っていた。
今日の模擬戦では、カーラとマリーが呼吸を合わせ、担任メイリーナの猛攻をかろうじてさばいていた。
前まではカーラにダメージが蓄積して崩れるか、回復役のマリーが狙われて倒れるか、そのどちらかだった。今日は違う。
マリーは狙われづらい立ち位置を保ち、カーラは適時、メイリーナとマリーの間へ滑り込んで盾になる。今回は回復も間に合い、カーラは前よりずっと長く踏みとどまれていた。
三人デートからまだ一日しか経っていないのに、ふたりの歯車は確かに噛み始めている。
胸のつかえがひとつほどける。湯呑みから立つ茶の匂いまで、さっきよりやわらかく感じた。
「たのもー!」
「ん?」
春の夜気を裂いて、あどけなさを残した高音が届く。
記録を書いていた手が止まる。静かだった部屋へ小石を投げ込まれたみたいに、意識が一気に窓へ引かれた。
少しだけ開けた窓の側に俺は移動する。
家の前に腕を組む銀髪の少女がいるのを、俺は見つけた。門灯の下で、その髪だけが夜の色から浮いて見えた。
窓辺の位置が、新パーティを結成した日──恋心に蓋をすると決めたあの晩の出来事を、俺に思い起こさせる。
『さよなら──』
胸に手を当てる。それから唇を舐め、がさつに頭をかいた。
ふと視線を上げると、カナメもこちらに気づいたのか、両手を大きく振っている。
待たせるのも悪い。俺は急いで玄関へと向かった。
□
「お邪魔するぞ!」
俺はカナメを自室に案内する。
部屋中央の机には茶革の魔導板帳と、湯気の細い湯呑みがふたつ。
窓から漏れた春の夜気が帳を揺らし、部屋の温もりと混じり始める。
俺の正面に、藍の稽古着姿のカナメが背を伸ばして座る。
汗が顎先から落ちるのを見るに、ついさっきまで個人鍛錬を続けていたのだろう。稽古着のところどころに染みができ、頬は上気している。
濡れた布と汗の匂いが、卓上の茶の香りを少しだけ押しのけていた。
唇を強く結び、カナメはまっすぐこちらを見つめる。
怒っているというより、腹を括った気配と妙な気まずさが同居しているように見えた。
討ち入りにでも来たんか? 何を言い出すつもりか見当つかず、俺は小さく首を傾げる。
ひとまず〈魔法の携帯袋〉から白布を取り出し、カナメに差し出す。
「汗すごいな? また、ひとりで鍛えてたのか?」
「う、うむ。位が上がってから体さばきを見直していてな。なにかをつかめるやもしれぬと、日がな幻影と戦っている」
なるほど。見えない相手を前に置き、ひたすら型と足運びを反復する稽古のことだ。
「幻影? 相手は?」
「お婆様に、母上に、姉上。時折、これまで戦ってきた魔物と、……眼帯女」
カナメは白布で顔を拭う。こめかみから首筋へ布を滑らせるたび、前に垂れた銀髪が揺れた。
眼帯女とはメイリーナのことだ。田舎者と呼ばれた件を、まだきっちり根に持っているらしい。
模擬戦で返り討ちにされるたび、次こそは倒すと息巻いているのだから、見上げた根性である。
顔を拭き終えると、カナメは両手に乗った白布に視線を落とす。
何かを決めたみたいに、そのまま固まる。
「カナメ?」
「……ええい、ままよ!」
なにが? そう聞くまもなく、カナメが白布を片手に握り稽古着の胸元に突っ込んだ。
布が擦れる乾いた音がして、俺は盛大にお茶を噴き出す。
女神様! 鼻に抜けた熱でむせながら、いきなり体を拭き始めたカナメを俺は食い入るように見つめる。
「な、な、なにしとんじゃいおめー!」
「……男同士なら、なにも問題あるまいっ」
カナメが耳先まで真っ赤にして答える。手は止まらない。
その白布がするすると稽古着の胸元へ出入りするのを、俺は目を見開いたまま追った。
心臓が喉元まで跳ね上がった心地だ。頬へ熱が集まってくる。
落ち着け俺、そして息子。ビークール。
ごくり、と自分でも大きいとわかる音が喉元から鳴った。
「いやいやいや、男同士って言ってもな……」
「いまのうちから、戻るときに備えておくのが大事であろう。思うに、我は女子に変わったことを受け入れ過ぎていた。制服も男のものにあらためねば」
「あ~……。いまは止めといたほうがいいぞ」
「なぜだ?」
ようやくカナメは体を拭き終える。手元に白布を置いた。
いかん気が散る。汗を吸った白布から目をそらしつつ、俺は言葉を継ぐ。
「あの担任だぞ? 実力で黙らせないかぎりは規律を乱すなって言うに決まってる」
「む~」
「勝ってから意見を押し通すのが一番楽な道だと思うぞ」
もっともらしいことを言いながらも、鼓動の速さはまだ落ちない。
湯呑みに口をつけるも、味はよくわからなかった。
俺は薄目で、腕を組んでうなずくカナメを眺めた。
「ふん、ますます打ち負かすのが楽しみになってきたな。位の四のあいだに倒してみせるぞ」
「今日は、そういった相談か?」
「……いや、今日の用事は別だ。友の家を訪ねるのに、理由は必要か? けっして、最近放っておかれている気がするだとか、我以外の連中とばかり動きおってからになどと、思ってないぞ?」
視線をそらし、ぶっきらぼうにカナメが言ってのける。
さっきまでの威勢が少しだけしぼみ、親指は湯呑みの縁をなぞっている。
その仕草だけで、こいつなりに勇気を出して来たのだと遅れてわかった。
「……そっか。なら、理由はいらないな」
言いながら、頬が緩みそうになるのを俺は慌てて湯呑みで隠す。
二度目のごまかし。熱い茶が舌をかすめ、胸の奥に残っていたこわばりまでゆっくり溶けた。
気取られぬよう、俺はひとつ咳払いした。
「そうだろう、そうだろう? ほれ、今日は酒を持って来たぞ? 魚も食堂で仕入れてきた!」
カナメは腰に吊るした〈魔法の携帯袋〉から、革袋と蓋をした黒い陶器をひとつ取り出す。
得意げに掲げられた袋からは、川魚の青い匂いがふわりと漏れる。
「へーへー。捌くのは手伝ってくれよ?」
「うむ。では、台所に行くか!」
「ちょい待ち。その前に体洗ってこいよ」
「……いいのか?」
「男同士、なんだろ? 気にしなくていいよ。汗ふき、脱衣所に置いとくぞ」
「うむ! 恩に着る!」
さっきまで部屋に張りつめていた硬さは、いつのまにか夕餉の段取りを考えられる程度までほどけていた。
脱衣所の場所と風呂の温め方だけカナメに教える。
それから、俺は先に台所へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
「……男同士、ね」
浴室の戸口を一度だけ見やって、俺はすぐに視線を切る。
一拍遅れて、首の後ろをかいた。
□
料理を作り終え、台所の灯りをひとつ落とすころには、部屋の空気は様変わりしていた。
焼いた川魚の塩気を帯びた香りに、根菜を煮た鍋の甘い湯気、そこへ黒陶器の酒──和国産の吟醸から立つ匂いが混ざる。さっきまで耳についた包丁の音も火のはぜる音も消え、代わりに、向かい合って座るだけの静けさが卓の上へ落ち着いていた。
カナメは藍鼠の甚平へ着替えていた。
布地に細い白縞の入った、いかにも和国らしい一着だ。寝間着代わりの気の抜けた格好のはずなのに、カナメが着ると妙に様になってしまうから目のやり場に困る。
銀の髪はいつものように高く結わず、後ろでゆるくひとつに束ねられていた。風呂上がりでまだ少し湿った毛先が首筋に張りつき、白い襟足を細く縁どっている。
「カナメ、どうした?」
先ほどから、本人はあまり落ち着かない様子である。二度ほど袖口を引き、三度ほど襟を合わせ直していた。慣れた部屋着のくせに、うちの食卓へ座ると急に据わりが悪くなるあたり、不思議なものだ。
「なんでもない。……なんだ、その目は?」
「いんや。入学の夜を思い出してな。相変わらず似合ってるよ」
「ふ、ふふん。見惚れたか」
「おーおー。見惚れた見惚れた」
軽口を叩きながら、俺は焼き魚の皿と煮物の鉢を卓へ並べる。
その手元を、カナメは顎を少し上げたまま見ていた。得意げなのか照れているのか、甚平の襟元をいじる指先だけでは判別しづらい。
「うまい! この国の魚もなかなかにうまいな」
ひと口目から、カナメは機嫌よく目を細めた。
焼いた皮目を箸で割り、白身をほぐすたび、香ばしい匂いが立つ。そこへ酒を合わせて、満足げに鼻を鳴らす。
「この国に来る前は、何を食べたものかと心配であったが、なんの心配もいらなかったな。和国の風をそこかしこに感じる」
「そうかもな。この街にも和国の店多いし、王都には和国街もある。何回か行ったことあっけど、和国式建築で出来た街並み、えらい風情あったなー」
「おお! 聞いたことがある。ぜひ、行ってみたいものだ。……そうそう」
「ん?」
「マリーとカーラとは出かけたのなら、我とももちろんゆくよな?」
カナメがおちょこに口づけながらジト目をよこす。
お前もかカナメ。
本日三人目である。なんなん今日。俺の休日調整会議でも開いてるんか?
日中に俺を呼び出した二人の顔が、順番に頭へ浮かぶ。
『ルーとは行かない?』
『昨日はずいぶん楽しそうだったじゃない? へえ~。婚約者を放っておいてデートして、なにがそんな楽しいのかしら。へえ~。あなた、いつからそんな、軽薄な男になったの? 埋め合わせしないと、どうなるかわかってるわよね?』
ルールルーは静かに刺してきて、アリスは真正面から刺してきた。
そんで目の前の子は絡み酒。三者三様でかわいいかよ?
「ん? ん~?」
頬に赤みを差したまま、カナメが顔を突き出す。
心停止させる気かおめー? 俺は顔をしかめておちょこを置く。
観念して、両手を上げた。
「まいったまいった! そうおねだりされちゃあ、しかたがない」
「お、おねだりなどしておらぬわ、ばかもの! そんなはしたないまねなどするか!」
俺が茶化すと、カナメはおちょこへ残っていた酒を一気にあおった。
白い喉が大きく上下し、空になったおちょこが卓へ戻る音だけが妙にはっきり響く。
「おいおい、大丈夫かあ?」
「問題ない!」
「あるだろよ。ぜってーあったって、いま」
「気のせいだ! お前ももっと飲めっ」
気のせいなものか。
耳先まで赤くなっているくせに、本人は平静のつもりらしい。深藍の目だけが、さっきより据わっていた。
「……だいたいな、なぜ、お前がそこまで気を遣わねばならん」
「ん?」
「カーラとマリーに気を回し……。ルーとアリスにもやっておるのか? とかく、休日に付き添ったり、週に一度、みなと密会したり、お前は変に気を遣っている」
「密会じゃない、面談な?」
「そうともいう。モブよ、お前は我らの世話役ではないだろう? そこまでの気遣い、必要なのか?」
不機嫌そうな物言いだった。
だがとげが立っているというより、どうにも納得がいかぬと眉を寄せている顔である。
「必要さ。冒険者パーティでも、商会の仕事でも、少数でいい結果出そうとするなら、上に立つやつが世話役におさまったほうがいい。みんなのために場を整えるのが、いまの俺の役割だ」
「そういうもの、なのか?」
「母さんの受け売りさ。俺も、いまんとこそうじゃないかって、思ってるよ。……連携が噛み合えばもっと格上に勝ちやすくなる。難しいダンジョンも攻略しやすくなる。レベルも上がる。俺も得するし、みんなも得をする。持ちつ持たれつってやつよ。だから、必要でーす」
「む~……。そう言って、お前自身の位はぜんぜん上がっておらぬではないか」
「予定通りだから、大丈夫だって。……あと二回かな? あと二回ぐらい、初見の初級ダンジョン攻略するか、〈特殊徘徊魔物〉を討伐すれば上がるよ。みんなもそう。来週には全員、レベル4でそろうよ」
「むむむ」
カナメはむすっとしたまま魚をつつく。
だが、箸はあまり進まない。代わりに、空のおちょこへ手を伸ばしかける。
俺はその前に黒い陶器を自分の手元に寄せた。
「没収」
「なっ」
「おにいさん、さっき一気飲みしてたろ? 無理なさんなって」
「わ、我を子ども扱いするでない」
「へっへっへ。親友を思いやんのも、あっしの務めでね。悪酔いは我が家では厳禁でい」
「むぅ……」
唇を尖らせるが、取り返しに来るほど酔いは浅くないらしい。
代わりに差し出した湯呑みを、カナメはしぶしぶ受け取った。
だが、すぐには口をつけず、湯気の向こうからじっと俺を見てくる。
なにか言いそびれているような、ひっかかりを抱えた目だった。
「モブよ。……ならば、我にもっと頼れ」
「んん? 急にどした?」
「さきほど、持ちつ持たれつと、お前は言ったな? お前が他の者を気遣うなら、我がお前を気遣ってやるっ。うむ、それがよいっ」
「お、おう」
「──モブよ!」
俺が息継ぐ間もなく、カナメが宣言する。
湯呑みを左手で包んだまま、カナメは右手を持ち上げる。俺にまっすぐ指を突きつけた。
思ったよりも指が近い。鼻元に突き付けられる形となり、俺は顔を引く。
藍の真剣な眼差しをたたえ、カナメは言った。
「お前は、何でも自分の役目にし過ぎだ。放っておけば、お前は自分の取り分を最後へ回すであろう。鍛錬の時間も、休む時間も、食う時間すら削りかねん。見ていて落ち着かぬ。だから、我に頼れ、いいな!」
そこまで言ってから、カナメはふいと視線を逸らした。
湯呑みの縁へ口をつける。酒ではないと気づいた顔をしつつも、文句を言わずにひと口飲みこんだ。
「……心の友として、言っておるのだぞ」
最後のひと言だけ、やけにまっすぐだった。
魚の香りと、煮物の湯気と、酒の残り香。
その全部が混じる食卓の向こうで、カナメは面白くなさそうな顔のまま、俺をじっと見ている。
むくれてるのか心配してるのか、たぶん本人にも区別がついていない。
俺は口角を上げる。素直な気持ちを、こぼした。
「……そっか」
「そっか、ではない」
「悪い悪い」
俺が笑うと、カナメはますます眉を寄せた。
しきりに湯呑みに口をつけ、ジト目をよこす。
ほんとうにかわいいやつだ。──ほんとうに。カナメに伸ばしかけた指を、俺は握り直す。ごまかすようにもう一度、俺はカナメに微笑みかけた。
「でも、ありがとな。そこまで言ってくれるのは、うれしいよ」
そう礼を言った途端、カナメが顎を引く。
それから、視線だけがわずかに泳いだ。
耳の先まで赤くして、面食らったようにカナメは固まる。
咳払いひとつ。カナメはようやく魚へ箸を戻す。
今度は、さっきみたいな勢いはない。ほぐした身をちびちび口へ運びながら、まだ何か言いたげにこちらを窺っている。
「じゃあそんなカナメに、ひとつ、頼みごとをすっかな」
俺がそういうと、カナメの表情がぱあっと明るくなった。
箸を椀に置き、カナメはいきおいよく立ち上がる。
我が意を得たりと言わんばかりに、胸を叩いた。
「うむ、なんでもこい! お前の望み、我が叶えてやろう!」
ランプの魔人かなにか?
だいぶ酔ってらっしゃると、俺は苦笑いする。
「実はだな……」
「む?」
カナメが体を寄せて耳を傾ける。
今週末の予定──マリーを見守る段取りについて、俺は親友に相談することにした。




