5
煙草の煙が目にしみる。
狭い会議室は閉めきって三十分もすれば前がはっきり見えなくなるくらい白くけぶってしまう。肺は黒くなるし、脳細胞は減ってゆくし、いいことなんてひとつもないのに、どうしてみんなこうもあれが好きなのだろう。
おれは隣から流れてくる煙にときどき噎せ、しぱしぱする目を凝らして手元の資料の文字を追った。
あの日から、もう七年が経つ。
おれはギリギリ浪人せず大学に入り、医療機器を扱う会社に就職し、今では立派な社会人をやっている。
高校時代のことはすでにはるかかなたにある。この間、卒業後はじめての同窓会の葉書が届いたが、迷わず欠席にマルをつけた。
行っても、まだなつかしむことはできないだろう。子どもだった自分を振り返りたくもない。
七年前、別れたあの翌日から、高梨はきれいに消息を絶った。
教室に入っても廊下側の席に彼の姿はなく、おはようと言うのんきな声も聞こえなかった。
もう彼の笑顔を見ることもなく、一緒にバスを待つこともない。そのことをおれだけが知っていた。
ぽかりとあいた席はさみしく、過ごした日々が、交わした言葉が、いくつもいくつも胸の中に折り重なり、心臓を圧迫しているみたいだった。
クラスのみんなはあれこれと噂しはじめ、何も知らないのかなんて訊くやつもいたけれど、おれは一言も返事をしなかった。
しばらく続いた憶測や噂はやがてなくなり、一年後には欠けてしまったひとのことなんて忘れたみたいにみんな当たり前に学校を卒業した。
高梨の話は、あれから一度も聞いていない。過去はどんどんと遠ざかってゆく。だけど、いつまでも消えないものがある。
おれはあのときの気持ちを引きずったまま、不完全な大人になってしまった。
何度かひとを好きになったけど、どれもこれも結局うまくいかず、別れるとき彼女たちはみんな似たようなことを言った。「清算していないことがあるでしょう」
そのたびにおれは彼を思い出した。そして、もう彼に会うことはなく、この想いに折り合いをつけるときはこないのだと考え、必ずかなしい気持ちになった。
胸の中にきっちりとしまってある思い出は、ときどきしか覗き込まないというのに見るたび驚くほど鮮明で嫌になる。
新しい機器の説明会がやっと終わり、ドアが勢いよく開放された。煙が少しばかり逃げていったが、相変わらず空気は澱んだままだ。
いつの間にか、窓の外がすっかり暗い。
資料をファイルに綴り、残っていた仕事を片してから、おれは会社を後にした。
会社は駅からほど近い。二度の乗り換えを経て、自宅最寄り駅まで一時間。そこから家まで徒歩二十分。バスは使わない。ずっと実家を離れずにいるのだが、そろそろ通勤時間に限界を感じはじめ、最近はよく引っ越しのことを考える。
スムーズに電車を乗り換え、駅から家までの暗い道を歩いていたら、鞄の中で不意に携帯がブルブル震えた。
慌てて取った電話の窓には、知らない番号が泳いでいる。
不審に思いながら通話ボタンを押し、「もしもし」と言ったら向こうから明るい声が聞こえてきた。
「有森? おれ、わかる?」
聞いたことがあるような、ないような。
おれは首を傾げて考えた。沈黙によってその状況を察したのか、正体不明の彼はカラカラ笑った。
「なんだよ冷てーなあ。山崎だよ、山崎雄一」
名前を聞いて、膝を打ちたいような気持ちになった。高校のときの同級生だ。
「ああ、山崎! なに、久しぶり。あれ、なんで番号知ってんの?」
「大西に聞いた。同窓会のことでちょっと話したくてさ」
そう言えば幹事なんだっけ。おれはだいぶ前に返送した葉書を思い出した。
「おまえ、来れないって書いてたけど、知らせといた方がいいかと思って」
今いい? と問う山崎に、おれは「いいよ」と返事をした。幸い、周囲にひとの姿はない。
一体何だろう。集まりが悪いのだろうか。
ぼんやり次の言葉を待っていたら、彼は思いも寄らないことを口にした。
「高梨って、覚えてるだろ」
どき、と心臓が高く鳴り、知らず足が止まっていた。
もう長いこと、誰の口からも聞かず、自分でつぶやくことすらなかった名前。
「あいつ、同窓会に来るよ」
その瞬間の驚きを、どう表現していいのかわからない。
息がつまり、心臓が硬直したような気がした。
「だって、住所は」
立ち止まったまま、おれは呆然と訊ねた。落ちついているわけではない。頭の中は真っ白だ。
電話の向こうの山崎が身を乗り出したのが、気配でわかった。
「笹山の兄貴が駅の近くで高梨の姉ちゃんに会ったんだって。親が離婚して、家は前のとこじゃないけど、こっちに帰ってきてるらしいんだ。それを笹山が兄貴から聞いて、おれんとこに話が回ってきて、高梨に連絡つけた」
世の中ってなんて狭いんだろう。いや、この辺りが田舎すぎるのか。
夢でも見ているみたいだ。簡単には信じられない。あっさり受け入れるには、高梨の存在はあまりにも遠すぎる。記憶はまだ鮮やかだけど、大人になった彼を、またここに戻ってきたという彼を、どうしても思い描くことができない。
「で……来るって?」
どうにもはっきりしない頭のまま問うたら、山崎は「うん」と明瞭に返事をした。
七年前の高梨の顔が、くっきりと胸に浮かんでくる。困ったような、かなしそうな表情。もう二度と会えないはずだった彼が。
「おまえ、どうする?」
問いかけに、頭がすうっと冴え渡った。
「どうって、まだいけんの?」
「いける。昼学校に集まって、夜は駅前の居酒屋なんだ。席予約してるだけだから、まだ人数変更きくよ」
だったら行きたい。
結論は早かった。
戸惑いなんか少しもよぎらず、ただ素直に、どうしようもなく高梨に会いたかった。
「だったら行きたい」
「そう言うと思った。おまえら仲よかったもんな。じゃあ、人数追加しとく」
ほがらかな声に、目の奥が熱くなった。山崎が知らせてくれなかったら、おれは何も知らずにいたのだ。
「ありがとう……」
泣きたいような気持ちで告げたら、山崎は明るく気持ちよく答えた。
「いいってことよ!」
遅刻すんなよな、と続けた彼にうなずき、ぐすんとひとつ鼻を鳴らして、おれは訊ねた。
「ところで、同窓会っていつだっけ?」
おまえなあ、と山崎は呆れたように言い、しかし最後にはおかしそうに笑って、日時と集合場所を教えてくれた。
うららかな春の日差しが、ちくちくと視神経を刺激する。
山崎の電話を受けてから、一週間と少し。
貴重な休日の午後、おれは逸る気持ちを抑えて家を出た。
この日までがひどく長く感じられた。慌てて書きとめたメモを何度となく確認した。
待ち合わせ時間は十五時。待ち合わせ場所は学校。どうもそこで母校をなつかしみ、夜の部へ移行するという計画らしい。夜からの出席でも構わないということで、集まる店の名前と場所も教えてもらったが、夜からにしようなどという考えはおれの中に端からなかった。少しでも早く高梨の姿を確認したかったのだ。
久しぶりにバスを使った。
なつかしさを噛みしめて校門の前まで来ると、コの字形の校舎の前にすでに何人もの同級生たちが集まっているのが見えた。
二十人ほどもいるだろうか。男はだいたいスーツを着ている。おれも服装について少し考えた末に、学校に行くならスーツにしとくか、と無難な選択をしたのだった。女の子はしめし合せたようにひらりとしたワンピース。色や長さはまちまちだけれど。
なつかしい顔がこちらに向けられ、おおい、と少し興奮気味に手を振られた。ひときわ激しく振っているのは山崎だ。
そちらへ急いで駆けてゆき、久しぶりに会う面々と肩を叩きあって再会を喜び、そうしながらおれはすばやく目を走らせた。
高梨を捜したのだ。
だけど、彼の姿はどこにもない。
期待していたぶん落ち込みもすさまじく、がくん、とあからさまに肩が下がった。しかしすぐに気を取り直し、がっかりしているのを悟られないよう明るく振る舞った。だって、彼はたぶんまだ来ていないだけなのだ。
「おまえ、変わんねーなあ、顔も声も」
電話と同じ声で言い、目を丸くしている山崎は、どうも高校時代より少し太ったようだ。
「おまえは変わったな。もうちょっと細くなかったか?」
「不規則な生活してるからな。夜中に帰ってラーメン食って寝る毎日だよ」
げんなりつぶやき、それから彼は打って変って爽やかに、サラリーマンなんてみんな同じようなもんか、とつけ足した。
それをきっかけにみんな次々に近況を語りはじめ、社会に出るって大変だよ、などと年よりくさい言葉を紡いだ。かつて世の中のつらさなんてひとつも知らず、誰かの監視下にあることを窮屈だと思いながらも、今とは比べ物にならないくらいのんきに過ごしていたこの場所で。
まだ新学期がはじまったばかりだろうに、グラウンドには休みも関係なく部活で汗を流す生徒たちの姿がある。生徒がいるのだからもちろん先生たちの姿もあった。
なんとなく古くなったように見える校舎も、散りそうになっている桜も、ところどころで挨拶した少し老けた先生たちも、それなりになつかしく、感傷的な気分を誘われたが、足りないひとに対するさみしさの方を強く感じた。彼が来るとわかっていてもこれなのだから、いなかった場合は一体どこまで落ち込んだかわからない。欠席にマルをつけたときの自分の判断は正しかったと言えるだろう。
みんながばらけてしまったのを見計らって、おれは輪の中から外れてひとり学校を出た。先に飲み会が開かれる予定の店へ向かい、どこかで時間をつぶそうと考えたのだ。
思い出深い場所で、なつかしい顔ぶれが揃う中、高梨の姿が欠けているのがせつなかった。意識するまいとしても、彼がいなくなったあの日の光景が頭に浮かんでしまう。
でも、絶対に夜には会える。それは確実。
とぼとぼとバス停までの道を歩き、おれは自分を励ました。
どうしても今日、高梨に会っておきたい。
会って言いたい。あのときどうしても口にできなかったことを。七年間ずっと体の底に沈め、大事にしまいこんでいた言葉を。今さら言ってどうするんだと思われるかもしれないけれど。
バス停は、相変わらず閑散としている。
休日の昼過ぎだということも、もちろん関係しているだろう。周囲にはびっくりするほどひと気がない。ぽつぽつとある民家も、人間が住んでいないみたいに静まり返っている。
ベンチはあの頃よりさらにボロボロだ。欠けるどころか一部大きく剥がれて錆びた骨が見えている。時刻表は当時と変わらず、歯が抜けまくっている老人の口みたいにものさみしい。今もここを利用している後輩たちは、山側は不便だとぼやくのだろうか。
おれは小さく笑い、それからあっと気がついた。飲み会は、駅の近くで開かれる。駅に行くなら市内行きのバスに乗らなければならない。逆である。
七年経つのに、癖って抜けないものなのか。
自分に呆れ、向こう側へ渡ろうとしたとき、ちょうど市内行きのバスが来て、待つひとのいない停留所に止まった。誰かひとり降りたらしい。
間に合うかと思って車道に足を踏み出そうとしたが、左側から迫ってきた車に邪魔された。
あと十二分後か。休日だし、七年も経ったし、もしかしたら多少のズレがあるかもしれないが、どうせ飲み会まではまだ時間がある。ちょっとくらい待つ方が都合がいい。
大きなタイヤが動き出す。
ひどい排気ガスを撒き散らしながらバスが去り、停留所にスーツの男が現れた。長身で足が長い。
まばたきもせずに、おれはそのひとの姿を眺めた。向こう側で、彼も同じく立ちつくしている。
我に返ったのは、あちらの方が先だった。
「有森!」
ほんの数メートルしか離れていないところで、何も変わらないなつかしい声が自分を呼んだ。教室の、日の当たらない廊下側の席にいたときと同じに。
高梨、と口には出さず、胸のうちだけでつぶやく。そのとたん、せつなさとか、もどかしさとか、いとしさとか、そういういろんな感情が押し寄せてきて、おれは泣いた。気がついたら泣いていた。いい年をして。高校生の頃のように。
ぼろぼろぼろ、と涙はとめどなくあふれてくる。言いたかった言葉が喉の奥で震えている。
「え。え……?」
にじむ視界に、あたふたする高梨の姿が映った。
ついさっきまでどこにいるとも知れなかった彼は、確かに今そこにいて、車を気にしながらこちら側へ駆けてくる。嘘じゃないか。夢じゃないか。おれはうつむき、涙を拭った。手のひらで、ぐいぐいと。
走ってきた高梨はおれのすぐ前に立ち、無言で、たぶん頭のてっぺん辺りを見下ろしている。伏せた目に動く彼の手が見え、次の瞬間には髪を掻き乱された。
目で見るよりもはっきりと、なまなましく彼の存在を感じた。
「もう、終わっちゃった?」
どうした、なんて訊かず、撫でながら別のことを問う彼に、かぶりを振った。
話し方が昔とおんなじだ。七年も経つのに。あんな別れ方をしたのに。忘れたように屈託ない。いや、高梨はもう忘れたのかもしれない。だってもうずいぶん前なのだ。でも、おれは----。おれは、忘れられなかった。
「おまえがいなかったから抜けてきた。おまえに会えるかもしれないって聞いて、それで今日ここに来たんだ」
ぴた、と撫でる手が止まり、離れてゆく。おれは涙を全部振り払い、うつむかせていた顔を上げた。
改めて間近に見た彼は、高校生のときとほとんど変わらない。精悍な顔立ちも、明るい眼差しも。背は、当時より少し伸びただろうか。
この七年を高梨がどう過ごしてきたのか知らない。今どういう気持ちでいるのかも知らない。だけどおれはやっぱり言いたい。
「昔のこと、もう忘れちゃってるかもしれないけど、言えなかったことを言いたくて」
あのとき、おれの気持ちはぐちゃぐちゃで、うまく区別がつけられなかった。ひどく子どもだったし、とても鈍かったし、信じられないくらい頭が悪くて、時間が全然足りてなかった。
別れてからやっとわかった。口にできなかったのはこわかったからだ。言ってしまったら何もかも崩れてしまうような気がしていた。そのくせ何年も引きずって、今も消すことができないでいる。
「おれはおまえが好きだったよ」
胸の奥の方にずっと居座っていた言葉が、するりと口からこぼれ出る。想いに七年分の怨念みたいなものが絡みついているんじゃないかと想像したが、それはただふわりとやさしげで、なんのかなしさもなく、素直に空気に溶けていった。
ひどく胸が楽になっている。すう、と体の中から目に見えない何かが抜け出ていくような感じだった。
高梨は、まるで時間が止まってしまったみたいに動かない。困っているというよりも、放心している。
しばらく黙って見守っていると、彼は小さく首を傾げた。
「……過去形?」
前髪が揺れた。おれはぼんやり首を傾げ、やがて目の裏側が熱くなるのを感じた。
「おれは今も好きだ。忘れらんなかったよ」
高梨は、はっきりとそう言った。
戸惑ったり迷ったりしないのかな、とおれは思う。
しないのだろう、きっと。そういうのをやめてしまったのだろう、彼は。
おれだって、もうやめた。彼が行ってしまってから、あの保健室の先生の言ったことを理解したのだ。あのひとは当時のおれよりも、たぶん今のおれよりもずっと大人で、物のわかったひとだった。
「おれも好きだよ」
七年では忘れられなかった。会えないのだと思えば思うほど、もどかしく恋しくてたまらなかった。
じりじりする胸のうちを告げると、高梨はひどくうれしそうに目を細めた。おれはなんだか苦しくて、うずくまりたいような心地でいるというのに。彼はただ素直にうれしそうなのだ。
久しぶりにこんな顔を見たような気がする。思い出の中の彼はいつも困ったように笑っていた。眉を下げて。どこかかなしそうに。あんなのは、別れる前のたった数日の間にしか見せなかった表情なのに。
「うれしいの?」
じわ、と苦しいのがとけていくのを感じながら、おれは訊ねた。
高梨は猫みたいに目を細くした。
「うれしいよ、すごく」
ゆるやかに漂う甘い何かが、体にまとわりついているような気がする。
おれもだ、と思った。それを素直につぶやいた。その瞬間に、苦いものはみんな消えてしまった。
ふ、と息を漏らしたとき、風がゆるりと吹き抜けていった。さわさわ髪が揺らされる。
後ろから、ちりりん、と軽やかな音が聞こえてきた。自転車だ。右側から走ってきた自転車に大きなビニール袋を積んだおばさんが乗っていて、よたよた近づいてきたかと思うとすぐ側を通り過ぎていった。
その姿を見送り、ひと気のない古びた町並みを眺めて、おれはなんだか急に正気づいてしまった。自分を包んでいた薄ぼんやりした甘い何かが、風に吹き飛ばされてゆく。
「なんか、恥ずかしくなってきた」
今は昼間で、ここは往来。
おれが頬に血を上らせると、高梨は後頭部をくしゃくしゃと掻き乱した。
「おれも」
高梨がはにかんで言ったから、おれは笑った。つられたみたいに彼も笑う。
そのとき、道の向こう側から声が聞こえた。高梨ー、と。
ひとしきり昔をなつかしんだ級友たちが、学校を出てバス停に向かってきているのだ。
まだ遠い彼らに、高梨は手を上げて答えた。そしてけろりと言う。
「同窓会だったな」
すっかり忘れていたみたいな言い方で。
「そのために来たんだろ」
呆れてつっこんだら、彼はこちらを見て、いたずらが成功したときの子どもみたいな顔をした。
「違う、おまえに会うためだ」
不意打ちに、情けなく声が詰まる。
「みんなには内緒な」
明るく、罪のない笑みを浮かべて言い、高梨はみんなの方へ向き直って大きく手を振った。
「バッカ、おまえら駅に行くのはこっちだよ」
山崎が叫ぶ。手をメガホンみたいにして。
「わかってるわかってる」
高梨はおれの腕をつかんだ。そしてニコッと明るく笑い、左右を見渡して向こうへ渡った。
バス停でみんなと合流したら、自然と高梨は真ん中になっていた。
いなくなった後のことを誰かに問われ、彼は愛想よく笑って「色々な」などと答える。
輪から少し外れてその様子を眺め、「色々」の詳しい内容を後で訊こう、とおれは思った。すると、それが聞こえたみたいに高梨はこちらに顔を向けた。目があったとたん、彼の口角が子どもっぽくニッと上がった。
別に何か言葉があったわけじゃない。だけどおれは自分でも驚くくらいにしあわせな気持ちになった。目の裏側がまたじんわりと熱くなってくる。
そこにいる、笑っている、話ができる。
たったそれだけのことに胸が震える。
泣いてしまいそうだったから、おれはすっと顎を上げて空を仰いだ。
水色のそこに、吹き飛ばされた綿菓子みたいに薄っぺらな雲が浮かんでいる。風はやわらかく、ほのかにあたたかい。冬はもう遠い。
みんなの笑い声がひときわ高く響いたとき、停留所にゆっくりとバスが止まった。
高梨はすぐに乗ろうとせず、輪の中からこちらを見て、
「バスが来たよ」
と、おれに言った。
400字×100枚以内におさめたくて書いた話でした。
派手さはまったくないですが、楽しんでもらえたらうれしいです。