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ジョルドに指定された通り、校舎の屋上に上がった純を待っていたのは、一匹の超越者だった。
巨大だが細身で、全身が漆黒の、コウモリに似た羽が生えた人型の怪物。人が想像する悪魔そのもののような外見であったが、その仕草や佇まいは温厚そうだ。
「これは夜鬼ですね。なんか悪役みたいな姿ですが、割と穏やかな性格らしいですよ。ノーデンスに仕える種族の超越者です」
夜鬼は細長い腕を伸ばし、純に便箋を手渡した。純がそれを開け、中に入っていた三叉の矛の印章が彫られたコインを取り出すと、夜鬼が空間を指で円状になぞった。すると、なぞった場所に光の輪が浮かび、別の空間への入り口が出来た。
円状の入り口の向こうには、真っ青な空と広大な湖の上に建つ城が見えた。
「この先は、ドリームランドと呼ばれる世界です。本来ならもっと入るのに手間がかかるはずですが、そのコインを持っていれば簡単に入れてくれるみたいですね」
「とっとと話が聞けるならありがたい。行くか」
夜鬼がうやうやしく礼をして、純をドリームランドへ招き入れる。
その後、夜鬼もドリームランドへ入り、入り口を閉じた。
ドリームランドの南方海に浮かぶオリアブ島。島の中心近くにある、夜鬼たちが住み着くングラネク山から北のヤス湖の水上に、その城は建てられていた。
城へと続く石橋を渡ってきた純を、巨大な城門がぎりぎりと音を立てて開き、城内へ招き入れた。
イルカの黄金像が並ぶ城のエントランスで純を迎えたのは、ジョルドだ。
「ようこそ。フォマルハウト。銀の腕本城へ」
「……、ノーデンスとかいうのはどこだ? 今すぐ聞きたいことがある」
「案内するよ。こっちだ」
城の中では、銀の腕の構成員たちが慌ただしく走り回っていた。普通の私服を着た人もいれば、ファンタジーチックな奇抜な色使いの服を着た人もいる。
「銀の腕は、地球の人やドリームランドの人が集まって、日々超越者と戦っている。君がフォマルハウトだと知れば、みんな集まって来るだろうな」
「なんで……?」
「純はすごい人ですからね! やっぱり有名なんですよ!」
元気をなくした純を元気づけるように、エインセルが声を張り上げる。
純たちの様子を見て、ジョルドは微笑ましい気持ちになった。
「本当に仲が良いんだね。実際、君は有名だよ。クトゥルフとの決戦が近づいている今、大きな戦力が現れたのは嬉しい誤算だ」
銀の腕の人たちは、確かに純に好意的な視線を向けていた。
けれど、今の純には、その期待が重しにしか感じられなくて。
(勝手に期待すんな……。友達一人助けられなかった俺に、一体どうして見知らぬ他人を守りきれるってんだ……)
「兄さん!」
ジョルドを呼ぶ声が背後から聞こえ、ジョルドと純が振り向いた。
「エレナ。悪いけど、今、例のお客さんを案内してるんだ」
「あ……。ご、ごめんなさい!」
「いや、別に……」
「初めまして。エレナ・カーターです。兄が助けられたそうで、本当にありがとうございます」
ジョルドと同じサラサラの金色の髪を揺らし、エレナは頭を下げる。
「おっぱいが小さい。合格!」
どこからともなく聞こえたエインセルの声に、エレナは驚いたようだった。純がエインセルのスマホを取り出し、エレナに見せてあげると、エレナは目をキラキラさせてエインセルを眺めた。
「可愛い! この子はなんなんですか? 妖精さん?」
思わず、純は噴き出してしまった。“妖精さん”とは、あの謎の踊り子と同じく、このAIに随分と似合わない表現をするものだ。
そんな純の反応に、エインセルはむっとした。
「なに笑ってるんですか! そうです! 私は純を守る妖精みたいなものなんですよ! エインセルといいます。以後、よろしくお願いします!」
妹の嬉しそうな様子に、ジョルドも気分がよさそうだ。
「よかったな、エレナ。可愛い友達ができて」
「はい。よろしくお願いしますね。エインセルさん。フォマルハウトさん」
礼儀正しいエレナに、純は少しだけ心の傷を癒してもらえた気がした。
「ごめんね。いきなり妹が迷惑かけちゃって……」
ああいう純粋な人を守ってあげなくてはならない。洋吉が死んでからずっと失意に陥っていた純は、気を強く持ち直した。
「いや……。救われた気がするよ」
城の中を進んでいくと、ドリームランドの神々の彫刻が並ぶ、旧神ノーデンスが座す神殿へとたどり着いた。
老人の風貌でありながら、屈強な巨体を巨大な玉座に腰かけるその威容は、初対面の純にもノーデンスの底知れぬ力を感じさせた。
「ノーデンス様。フォマルハウトをお連れしました」
ひざまずくジョルドが報告すると、ノーデンスはぼけっと立ったままの純に目を向ける。
「ご苦労であった。ジョルド。さて、フォマルハウト。これで会うのは二度目になるが、一度目に私と会ったことは覚えているか?」
純は少し考え、答えた。
「夢の中……、ですかね?」
「その通りだ。以前、私はお前の夢の中に入り込んだ。普通、私にとって眠っている人間の夢に入り込むのは難しいことではない。しかし、お前の夢にはなかなか入ることができなかった。その機械が、私の干渉を邪魔していたのだ」
ノーデンスが指さしたのは、純のポケットに入っているエインセルのスマホだ。純がスマホを取り出すと、画面ではエインセルが得意げに笑っていた。
「ふふん。純は私が守ります!」
「ほんとかぁ?」
「実際、守られているのだろう。クトゥルフは封印されていても、厄介な敵に精神干渉を行い、ことごとく発狂させてきた。お前が無事でいられるのは、間違いなくその娘のお陰だ」
「ほーら。この方、なかなか分かってるじゃないですか。純も見習ってください」
夢の中で、クトゥルフと出会った記憶が微かに残っていた純は、エインセルがいなかったら洋吉のようになっていたのかと思うと、湧き上がる怖気にぞっとした。
「……、ありがとう。お前がいなかったら、本当に俺はあっという間に死んでたんだろうな」
「いいえ。お気になさらず。私が純を選んだのですから、守るのは当然のことです」
純はエインセルの頭をそっと撫でてから、ノーデンスに尋ねた。
「ついさっき……、俺の友達が死んだんです。クトゥルフの名前を呼んで発狂しながら、俺に逃げろって最期に伝えて……」
純がポケットから取り出した小瓶を、ノーデンスがテレキネシスで手元に引き寄せた。
「これは?」
「死んだ友達の近くに落ちてました。中身は一体なんなんです?」
ノーデンスのそばに控えていた、長身で細身の眼鏡男がずいと前に出てきた。
側近のルイスだ。ノーデンスから小瓶を受け取り、中身の紫色の液体を興味深げに眺める。
「失礼します」
それから、ルイスは小瓶の蓋を開けて、手であおいで臭いをかいだ。
「これは……、即効性の毒薬ですね。ディープワンズがよく武器に塗ったりして使う毒です」
「毒!? なんでそんなもんが……」
答えたのは、ノーデンスだ。
「推測でしかないが……。お前の友人は、お前をクトゥルフの魔の手から守ったのだ」
「え……?」
「今朝、クトゥルフが大規模な精神干渉を行った。復活の予兆だ。それに呼応して、ディープワンズの血を引く者は、皆体が人間の物からディープワンズの体に変わり始めた。そして、恐らくクトゥルフは命じたはずだ。フォマルハウト。お前の身近なディープワンズに、お前を始末せよ、と」
あの時何が起こっていたのか、純は分かってしまった。我慢しようとしたが、どうしても目が潤んできてしまう。
「じゃあ、洋吉は……」
「そうだ。お前の友人は、お前をクトゥルフからかばったのだ。クトゥルフの命令に背いて、毒を盛ることをしなかった。だから、クトゥルフに発狂させられた」
「あいつ……、俺のために……。そんな……、馬鹿野郎……!!」
どんなに恐ろしかっただろう。どんなに苦しかっただろう。
それでも、洋吉は最期まで純の友達でいることを選んだのだ。
洋吉は純との友情を守り、クトゥルフに屈しなかった。
「人間は脆く、弱い。我々超越者からすれば、矮小な弱者でしかない。しかし、時に人間は超越者にもできぬ偉業を成す。かのラバン・シュリュズベリィしかり、その友人しかり」
涙が止まらなかった。
純は我慢できず、ひざを折り、しばらく友との思い出に身を委ね、泣き続けた。