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学校に着くなり、純の中の不信感は増していった。
何故なら、昇降口を歩く生徒の数が普段より極端に少なく、皆が純の様子をちらちらと窺っているような素振りを見せているからだ。
妙な胸騒ぎを覚えながら、純は教室へと入った。教室には、もうすぐホームルームが始まる時間であるにも関わらず、生徒が半分ほどしか来ていない。
「おー、純。おはよーさん」
「純くんおはよー」
閑散とした教室の中に、洋吉と茜の姿を見つけ、純はほっとした。
「おはよう。なんか、今日人少なくね?」
「あー、確かに。なんだろうな。風邪流行ってんのかも」
「そんなら学級閉鎖にして欲しかったんだけど……」
近づいて見ると、洋吉と茜は二人そろって首に包帯を巻いている。
「お前ら、なにその包帯。怪我?」
「そうそう。二人しておんなじとこ怪我しちゃってさ」
「なんだそれ。アホかお前ら」
洋吉は明るい様子だが、茜は少し黙しがちだ。
『純。なんだか、今日は変な日ですね』
『なー。なんなんだろうな』
純もエインセルも、この時まだ、深淵の混沌が這い寄って来ていることに気が付いていなかった。
彼らがそれに気づいたのは、昼休みになった時のことだ。
「おーい、純。飯食おうぜ、飯」
「おう」
洋吉がいつものように昼食に誘ってくる。純はそれに応じて、洋吉や茜と一緒に弁当を食べようと席を立つ。
純が父の作ってくれた弁当を鞄から取り出している間に、茜は洋吉に小さな声で尋ねた。
どうしてか、純に泣きそうな顔を向けながら。
「お兄ちゃん……。本当にやるの……?」
茜と違い、洋吉の顔は決意に満ちている。茜に返す声も、真剣味に溢れていた。
「大丈夫。お前はあいつを連れ出すだけだ。実際にやるのは俺だけ。お前は何も悪くない」
茜は納得いかない様子だったが、洋吉に背中を叩かれると、こくりとうなずいて、純を呼んだ。
「純くん。一緒にジュース買いに行こ?」
「あいよー」
茜は純を連れて、教室から出て行った。
残された洋吉の目の前には、純の昼食である弁当が机の上に置かれている。
洋吉は唾をのみ込み、ぎゅっと目をつむる。これから自分しようとしていることを想うと、激しく胸が痛んだ。
「純……。すまん……」
そして、教室中の生徒たちが見守る中、純の弁当のふたを開けると、洋吉は自分の鞄から紫色の液体が入った小瓶を取り出した。
純は戸惑っていた。
自販機まで歩いていく間、茜は一向に喋り出す気配がない。いつもなら、鬱陶しいぐらい話しかけてくる癖に、この日だけはどうにも人形のように口を開かない。
試しに、純がてきとうな話題を振ってみても。
「あっちーなー、今日も」
「……」
無言である。純はただ気まずい思いをしただけだった。
『体調が悪いんじゃないですか? 茜さん』
『そういうこと? でも、そんな感じさっきまでしなかったけど……』
純が自販機でジュースを買って、茜の番だと場所をゆずっても、茜は暗い顔でうつむいたまま。流石に心配になってきて、純は茜に聞いてみた。
「茜? 大丈夫か? ……、なんかあった?」
茜がぎくりと身を震わせて、純から顔をそらす。これは本当に何かあると純は確信し、もうひと押ししてみた。
「悩み事でもあんなら、相談しろよ。力になれそうなら、なんでもしてやるからさ」
いつも通りの優しい純の言葉に、茜の目頭が熱くなる。
「純くん……。あの……、あのね……!」
一瞬だけ、茜の本心が表に出かけた。けれど、やはり茜はそれ以上話してはくれなくて。
「……、ごめんね。やっぱり……、なんでもない。純くん……。ごめんね……」
茜は走って、どこかへ行ってしまった。
純は茜が泣いていたように見えて、少し罪悪感を覚えた。
少しそっとしておいた方がいいかと思い、純は洋吉にも話を聞いてみようと、教室へと歩き出す。
そして、遂に――――
「―――――っっあああああああああああああああああ!!」
学校に響いた悲痛な叫び声が、純の“日常”を終わらせた。
純が叫び声を聞いて、まず思い浮かべたのは洋吉だった。その叫び声が彼の声とよく似ていたからであり、純の脚を教室へと急ぎ動かした。
「純。今の悲鳴、ひょっとして洋吉さんの……」
「分かってる!」
廊下を走る途中、純を見る生徒たちの視線は、どういう訳か驚きを隠せない様子であった。
奇妙な雰囲気が学校中を覆っている。嫌な予感が膨らんでいく。
何かがおかしい。何かが、おかしい。
純はようやく、その日がいつもと違う何か不気味で、閉塞的な空気に満ちているのが、気のせいなのではないのだと、確信した。
人間という矮小で愚劣な生物である荒井純は、教室の扉を開けた時、ついに旧支配者のような、最上級超越者たちの恐ろしさの片鱗に触れたのである。
純が教室に入ると、頭を抱えてうずくまる洋吉の姿があった。
「だずげっ!! だずっ! だずげでぐれぇえええええ!! おがじい!! こんなの、おがじいぃいっ!! 俺がっ、俺じゃなくなる! 変なんだ、変なんだよぅっ! 誰がぁっ! 誰か……、だずげでぐれ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛っっ!!」
顔を上げた洋吉は獣のような悲鳴を上げ、血涙が出るまでに目を見開いて、自分の顔を爪でひっかき始める。
教室にいる生徒は皆、狂った洋吉を恐れ、遠巻きに見ているだけだ。
「おい! 洋吉! どうした!? おいって!!」
「だずげでっ……! 父ちゃん、母ちゃん……! だれがっ、だれがぁぁぁ……!」
洋吉は完全に我を失っていた。いつもの明るい笑顔はそこになく、あるのは狂人と化して血の涙を流し、赤子のように自我の崩壊に恐怖する醜い人間の姿のみ。
「待ってろ! 今、救急車呼んでやるからな!」
純が洋吉の肩を掴んでそう言うと、一瞬だけ、洋吉の目が純を確かに見た。
「純……っ! 逃げろ……! みんなの夢の中で、“久主竜様”が……、“クトゥルフ様”が……! もう、みんな……。とっくの前から……!」
「クトゥルフ!?」
純は驚愕した。まさか洋吉の口からその名が出るとは、思ってもいなかったから。
「そうだ……。クトゥルフが……。クトゥっ、クトゥルフ! イア! イア! クトゥルフ!! イア……っ! イア……!」
洋吉は叫び続け、最後には電池が切れたかのように、動かなくなってしまった。
救急車を呼ぼうとスマホを取り出した純に、エインセルは悲しそうにつぶやく。
「純……。もう、洋吉さんは……」
スマホを持つ手が、震えていた。
純は目の前で親友に何が起こったのか、全く理解できないまま立ち尽くした。
なぜ、洋吉は最期にクトゥルフの名を呼んだのか。
なぜ、洋吉が死ななくてはならなかったのか。
先ほどの茜の様子も気になるし、何より純は、床に転がる紫色の液体が入った小瓶の存在と、洋吉の首に巻かれていた包帯がほどけていることにも気づいていた。
ほどけた包帯の下には、ディープワンズ特有のエラがあった。
洋吉は、いつの間にかディープワンズになっていた。
そして恐らく、同じように首に包帯を巻いていた茜も、ディープワンズになってしまったに違いない。二人は、このエラを純に見られないよう、隠していたのだ。
「洋吉と茜が……、ディープワンズ……? そんな訳……」
純は小瓶を拾い、まだ蓋が閉まったままのそれを目の前で揺らした。
「なんだ……、これ……?」
混乱が混乱を呼ぶ。純は周囲を見回して、クラスメイトに話を聞こうとしたが、誰も純に寄り付こうとしない。純に視線を向けられるだけで、教室の外へ逃げてしまう。
純はどうしていいか分からず、変わり果てた姿になってしまった親友を、悲しく見つめることしかできなかった。
「純……」
エインセルは必死に純にかける言葉を探した。でも、純に何を言ってあげればいいのか、彼女には分からなくて。エインセルはもどかしい想いで、ショックを受ける純を見守るしかなかった。
そんな時、純のスマホが着信音を鳴らし始めた。
見知らぬ番号からの着信に、純は恐る恐る応答した。
『久しぶりだね。フォマルハウト。グール狩りの友人だ。昨日、クトゥルフが人間に大規模な精神干渉を行ったのが確認された。予定より少し早いが、今から君に招待状を送るよ。この時間は、学校の昼休みだろう? 急いで学校の屋上に行ってくれ』
電話をかけてきたのは、銀の腕のジョルドであった。
「なんで俺の番号を知ってる?」
『僕らにもそれなりの情報ネットワークがあるんだよ。僕らの大将が君に会いたがってる。それじゃ、頼んだよ』
ジョルドは一方的に話を進めた後、電話を切ってしまった。
「どうしますか? 純」
「……、行くしかないだろ。洋吉がこんな目に会った手がかりを聞けるかもしれない」
発狂の末、息絶えた洋吉を見る純の脳裏に、彼と過ごした思い出がよぎる。
伊須升洋吉とは、確かに友達だった。伊須升市に引っ越してきた純の初めての友達だった。時を経て、躊躇いなく親友と呼べる相手にまでなった。
洋吉を狂わせたのがクトゥルフだというのなら、純は決してクトゥルフを許しはしない。例え、相手がどれだけ圧倒的な存在であったとしても。
「絶対にぶっ飛ばしてやる。誰が犯人だろうが、絶対に。絶対にだ……!」




