23
伊須升神社は昔から、純にとって近所の遊び場の一つだった。
広い境内は駆け回るのに丁度よく、周りの雑木林や拝殿の建物や物置なんてものは、虫取りやかくれんぼをしたりするにはぴったりだ。
なにより、ここにはいつも純の遊び相手がいた。伊須升神社の神主を父に持つ、洋吉と茜。
能天気な兄妹との思い出が、この境内にはたくさん詰まっていた。
懐かしい湿った空気を思いっきり吸い込んで、純は拝殿の階段に座り、鞄を置く。
茜もその隣に座り、純に話しかけた。
「純くん、昔は毎日ここで私たちと遊んでたよねー。小学校の頃、純くんが東京から引っ越してきた日に、お兄ちゃんが純くん連れて帰ってきたの、今でも覚えてる」
「あー……。東京と違ってなんもないから、びびったな」
「そんなに田舎じゃないでしょ。コンビニいっぱいあるし」
「まあね。でも、この神社見た時はワクワクしたな。すごい昔の建物って感じで」
「ボロボロだからねー。そういえば純くん。ここってなんて神様祀ってるか知ってる?」
純は以前に洋吉に聞いたことがあるのは覚えていたが、どうでもいいと思って聞いていたので、内容を忘れてしまった。過去の自分をぶつように記憶を掘り起こし、思い出そうとはしてみたものの、結局思い出せずじまいだ。
「えー……。なんだっけ?」
「久主竜様だよ。久主竜様。みんなをいつも見守ってくれてる、海の神様なんだって」
「あー、そんなんだったな。そういえば」
「純くんはここの産まれじゃないから知らないかもだけど、伊須升市に住んでるじーちゃんばーちゃんとかはほんとに信じてるからね。適当なこと言うと、すっごい怒られるんだよ」
「年寄りは好きだからなぁ、そういうの……」
純がおかしそうに笑った。つられて、茜も笑っていたけれど、その表情は楽しさよりも、何か気がかりなことでもあるような暗さを含んでいるように、純とエインセルには見えた。
境内に生える大きな木の影が、ちょうど純たちを夏の日差しから守ってくれる。涼やかな空気を、二人はのんびりと肌で感じていた。
すると、茜が何か思いついたように立ち上がり、境内の奥に建つ自宅に向かう。
「そうだ、ちょっと待ってて。私、麦茶持ってくるね」
「お、悪い」
茜が家の中に入っていくと、エインセルが純をしきりに呼んだ。
「純、純! じゅーん!」
「んー? どうしたー?」
「やっぱり、なんだか茜さんの様子、いつもと違いませんでしたか?」
「……。そうだな……」
エインセルはとにかく他人に関心を持ち、よく観察する。茜がどこか緊張というか、恐怖しているというか、苦しそうな顔をしているのに、エインセルは気が付いていた。
なんとなく胸騒ぎがしながら茜を待っていた純は、意外な人物が神社の階段を上ってきて、目を丸くした。
「あ……、先輩。こんにちわ」
神社にやって来たのは、神宮だった。制服を着ているということは、下校途中に神社へ寄り道しに来たのだろう。
「神宮じゃん。どうした? お参り?」
神宮も純がいたことに随分と驚いているらしく、反応するまで間があった。
「はい……。ちょっと、お祈りといいますか……。気分といいますか……」
神宮はしどろもどろに答えた。焦る彼女の表情は暗く、伸ばし過ぎの前髪がいつにも増して陰気な雰囲気を感じさせる。
けれど、神宮は気を取り直すように一拍置いて、いつも通りの嬉しそうな声で純に話しかけてきた。
「そういえば先輩。もう来週ですね、夏祭り」
夏祭り。神宮に二人で行こうと誘われていたのを、純は思い出す。
気恥ずかしくなりながら、純は自然な様子に振る舞った。
「そうだなー。夏祭りには、この境内で演舞やるんだよな。見に来る?」
「わ、わ! そっか、演舞もあるんですよね! 先輩と二人で、一緒に見たいです!」
「あ、ああ……! うん! 二人で……、な……」
純と神宮は、二人で顔を真っ赤にして話している。甘酸っぱい空気に、エインセルは面白くなさそうに純にチャットを打つ。
『茜さんや洋吉さんとは一緒に行かないんですかぁ~? 友達なんだから当然一緒に行くんじゃないんですかぁ~?』
純は見なかったことにした。
「明後日からやっと夏休みだし、気楽になるな。神宮はどっか遊びに行ったりするの? ボクシング部のマネージャー辞めたなら、暇だろ」
「私は……、家で本を読んでると思います。あんまり外出ないかも……。そういう女の子って、やっぱり変ですか……?」
「そんなことないんじゃない? 読書が好きな子も落ち着いてて良いと思うけど」
純がそう言うと、神宮が顔をうつむかせ、恥ずかしそうに鞄で口元を隠した。
不機嫌度マックスのエインセルが怒涛の罵声チャットを打つ。
『“そんなことないんじゃない?”ってか! はぁ~っ? バーカ! カッコつけ! 金玉脳みそ!』
純は見なかったことにした。
神宮は息を整えていたが、どうしても顔のにまつきは収まらない。困った彼女は、照れながらも勇気を出して、純に言う。
「先輩と話してると楽しくて、不安な事なんて忘れちゃいます。最近、ちょっと変な夢ばかり見て……」
神宮が言い終わる前に、戻って来た茜の声が境内に響いた。
「お待たせー! あれ?」
お盆に麦茶の入ったコップを持ったまま、茜は釘を打たれたかの如く立ち止まる。
「神宮ちゃん……。なんで……。これ、これって……、夢で言われたのと同じ……」
「あ……、茜先輩……」
茜と神宮はなぜか、互いを信じられないといった顔で見つめ合う。茜がお盆を落としてしまい、コップが大きな音を立てて割れた。
「ん? え?」
純には何がなんだか分からず、茜と神宮の様子を見守ることしかできない。
純と同じく、エインセルにも何が起こっているのか分からないらしく。
『二人共、急にどうしたんでしょう……?』
『分からん。なんかあったのか……?』
この二人は初対面でもなければ、険悪という訳でもない。純には茜と神宮のこの状況が、全くもって不可解であった。
先に動いたのは、茜だった。地面に散らばったコップのガラスを集め初め、神宮もそれを手伝った。
「俺も手伝うわ」
純が茜たちとガラスの破片を拾っている間、茜も神宮も、一つとして言葉を発しはしなかった。
ガラスの片づけが終わった後、三人は拝殿の階段に座っていた。
「茜先輩……、ひょっとして演舞の練習で巫女服を?」
「うん……。そう。神宮ちゃんは……、願い事か何か?」
「えっと……。なんとなく、ここにこないといけないような、そんな気がして……」
実に歯切れの悪い会話が続く。純はそんな二人の間で、何を言ったらいいのか分からないまま黙っていた。
『本当にどうしたんでしょうね。この二人は』
『まあ、確実に何かあったんだろうな。この様子だと。めっちゃ居づらいわこの空気……』
もう帰りたい純。茜も神宮も遂に黙りこくってしまい、茜に至ってはスマホをいじり始めた。
しかし、救い船はそんな茜からやって来たのである。
「ねえ、これ見て。渋谷で銃持った人が暴れてるんだって。今、ニュースで生中継してる」
純が茜のスマホを覗きこんだ。神宮は気おくれしているようだ。
「え……、茜先輩……。それは……」
「……。ほら、神宮ちゃんも見てみなよ」
「……」
神宮は何か悩んでいるようで、目を泳がせた。けれど、最終的には純と一緒にスマホを覗き込んだ。
茜のスマホが生中継されている映像を映している。短機関銃を持った男が、道路を走り回りながら、ゲラゲラと笑って銃を乱射している。弾薬を大量に持っているらしく、弾倉の弾を打ち尽くしてはリロードし、周囲にやたらめったらと弾丸を放ち続けていた。
「茜先輩、これ……。やっぱり、茜先輩も……!?」
神宮は何故か茜の方を見て、言葉を失っている。茜は黙ったままだ。
一方、純は映像を注視していた。映像を見るに、周囲から人はいなくなっていたが、このままでは危険だ。純はこの危険な男を止めに行くと決めた。
「なんか物騒だな。あー、そうだ! 悪い、俺そろそろ帰んなきゃ!」
神宮と茜が、さらに驚いた顔をしたので、純は思わずたじろいでしまう。
「え? な、なに?」
「いえ……。その……」
「……。純くん」
茜が純に近づき、じっと見つめてきた。純が見たこともないような暗い顔で、純を見ている。
だが、茜が口を開いた時、そこにはいつもの明るい茜の笑顔があった。
「それじゃ、また明日! ばいばーい! まったねー!」
「おう……。それじゃ……」
どうにも、奇妙な雰囲気の時間だった。
純はいろいろと胸に疑問を抱えたまま、事件の現場へと向かった。
もう既に、深淵からの恐怖が自分のすぐ近くにまで迫っているとも知らずに――――