4/田町みさお –1 僕は、誰だ
警察署の遺体安置室は、九月とは思えないほどに底冷えしていた。
ステンレス製の台の上に横たわる男の顔を、僕は知っていた。
田町美佐夫。
──僕だ。
「……おじ、さん……」
歌音が僕の手を取る。体温を確かめるように。
「どっち、が……」
「──…………」
「……本当のおじさん、なの?」
「わからない。キツネコさまに聞かないと……」
頭が痛い。混乱し過ぎて発熱しているのがわかる。
目の前の光景すべてに現実感がなかった。
夢と言われたほうが、よほど現実的だ。
「……うん。行こう、キツネコさまの祠へ」
「いや」
僕は、首を横に振った。
頭が痛くても、わけがわからなくても、それでもわかることがある。
「……歌音は、姉さんの傍についていてあげてほしい。姉さんが、壊れてしまわないように」
「──ッ」
歌音が、はっと息を呑んだ。
ケアすべき相手は僕じゃない。弟を失ったばかりの姉さんだ。
「……わかった。でも、何かわかったら連絡してね。絶対に」
「うん」
最後に、僕の遺体を一瞥して安置室を出る。
あれは僕だ。
三十二年間共に過ごしてきた、僕の体だ。
だとすれば。
「──この僕は、誰だ?」
警察署の外に出ると、雨はとうに上がっていた。
警察によれば、僕の遺体は、あの山道の崖下から見つかったそうだ。
雨のせいでトラックが横転し、荷物が崖下にバラ撒かれた。
それを回収する際に発見されたらしい。
死因は検視待ちだが、恐らくは転落死と見られているそうだ。
「──…………」
僕がいつ死んだのか、それはわからない。
妥当に考えるなら、鬼瓦さんと飲んだあの夜──僕がこの姿になる直前だろう。
キツネコさまは、僕が既に死んでいることを知っていたはずだ。
生き返すすべがあったのだろうか。
わからない。
問い詰めてみなければ。
警察署は繁華街のほうにある。
普段とは反対側から山道を登り、キツネコさまの祠へ辿り着くころには、深夜になっていた。
「──……あ」
ガードレールが痛々しく折れ曲がり、引き裂かれていた。
事故があったのはここなのだ。
じゃあ、祠は──
そう思い、周囲を見渡す。
周囲に木屑が飛び散っていた。
「……なんだよ」
残骸。
「なんだよ……ッ!」
祠は、全壊していた。
その場に膝をつき、天に向かって吠える。
「ざッ、けんな! 何が試練だ! 何が元に戻れるだッ! そんなこと、なんの意味も──」
なんの意味もなかった。
その言葉だけは、口にしてはいけない。
それを否定してしまえば、僕の三十二年間と等価値のものを否定することになるから。
「……う、……うあ、あ……ッ!」
わけがわからなくなって、赤子のようにすすり泣く。
僕はどうすればいい。
どうすればいいんだ。
このまま生きていけばいいのか。
でも。
僕の心は、誰なんだ。
僕の体は、誰なんだ。
この僕は、誰なんだ。
それを知ることすらなく生きていけと言うのか。
そんなのって、ないだろ。
思わず、膝元にあった祠の残骸を握り締める。
その瞬間、わずかに声が聞こえた。
『──……、さお、……は、…………レス……』
「……キツネコ、さま?」
周囲に視線を巡らせる。
でも、目当ての姿はなかった。
もしかして──
バラバラになった祠の残骸を集めて、元の場所へと運んでいく。
そこで初めてキツネコさまの言葉が理解できた。
『最後の、……練は、ウエディ……グドレスを着……こと……。頼……だ、ぞ……』
「──…………」
それってさ、意味あるのかな。
僕の体はもう死んでいる。
僕はもう、田町美佐夫には戻れない。
仮に、僕を生き返すすべをキツネコさまが隠し持っていたのだとしても、このありさまだ。
「はあ……」
どうでもよくなって、祠だった残骸の山の隣に腰を下ろした。
もう、いいや。
自分の部屋に戻るのすらリスキーだ。
僕が僕の部屋にいるのがバレたら、きっと追い出されてしまうだろう。
このまま死んでしまえたら楽なのにな。
でも、人間って案外しぶといから、きっと鼻風邪を引く程度で済むんだろうな。
体育座りをしながら、膝と膝とのあいだに顔をうずめる。
そして、目を閉じた。




