第九章 見知らぬ公園の人たち
当てもなく歩き続ける。途中で一軒の店が目に入り、空腹に促されるまま中へ入った。売り場には弁当や惣菜が所狭しと並んでいる。迷った末に、コロッケとアジフライを手に取った。レジで精算をしようとすると、店員が親しげに声をかけてきた。
「お久しぶりですね。しばらくお見えにならないから、他のお店に行っちゃったのかと思っていましたわ」
店員は笑みを浮かべて私を見ている。私のことを知っているのだろうか。
「……いえ」
「あ、すみません、余計なことを。ごめんなさいね」
言葉の意味は分からなかったが、私は適当に相槌を打って店を出た。
惣菜を抱え、食事ができる場所を探して歩く。辿り着いたのは、噴水が空高く舞い上がる広い公園だった。その先にある静かなベンチは、食事を摂るには誂え向きの場所だった。
腰を下ろして正面を眺めると、連なる稜線の向こうに、雪化粧をした美しい山が顔を覗かせていた。遠くの山を眺めながら食べるアジフライとコロッケは、格段に美味しく感じられた。
このひと時、この景色。なぜか、おぼろげな幻影が脳裏を駆け巡る。いつか夢で見た光景のような気がした。
妄想に耽っていると、目の前で足が止まった。
「おや! いぶさん……いぶさんじゃないか!」
驚いて顔を上げると、知らない男が立っていた。だが、私を名で呼ぶ以上、知り合いなのだろう。私はとりあえず相手に合わせることにした。
「どうしたんだい? 俺だよ、ヤスだよ。いやあ、久しぶりだな。元気だったか」
「ええ……」
「何してたんだ。てっきり調子を崩したのかと思っていたよ」
「……いえ、元気です」
「そうか。そういえば、あの元気だった山田さんが先週亡くなってな。突然だったよ」
「山田さん……?」
誰のことか見当もつかないが、知っているふりをして頷く。
「亡くなる前日にも公園に来ていたからなぁ……。そうだ、向こうのスタジアム前のベンチに行かないか? 皆いるぞ」
「スタジアム……?」
「ああ。どうした、行かないのか?」
「……今日は、これで失礼します」
「そうか。じゃあ、またな」
今の私にとって、それはごく普通の会話だった。自分の名前さえ自覚していない。今ここにいる自分が誰なのかも分からない。けれど、不思議とそれを気に病むことはなかった。
公園内をさらに歩いていくと、スタジアム前のベンチに座っていた男が声をかけてきた。
「なんだ、来たのか」
軽く会釈をして通り過ぎようとすると、隣に座っていた老人が言葉を重ねた。
「いぶさん、行っちゃうのか? 寂しいなぁ」
無視して通り過ぎることに、微かな抵抗を感じた。私は足を止め、無言で彼らの方へ向き直った。
「なんだよ、他人行儀だなぁ」
「…………」
「忘れたわけじゃないだろう? 俺だよ、徳井だよ。さっき山さんと、いぶさんに会いたいと話していたところなんだ」
「……すみません」
「いいんだよ。ここ、空いているから座りなよ」
私は促されるまま、徳井と名乗る老人の隣に腰を下ろした。
「元気だったか? どこか悪いんじゃないかと心配していたよ。あっはは、冗談だよ」
徳井が笑うと、隣の山さんが続けた。
「今日からここで地区対抗の野球が始まるぞ。いつもと違って人が多くなるから、我々の指定席も座れなくなるかもな」
私は「いぶすき」を演じて話を合わせようとした。だが、次第に得体の知れない不安が胸に広がっていく。この場所が、この会話が、自分にとってあまりにも不透明で恐ろしいものに感じられた。
いっそのこと、あなたたちのことなど知らないと叫べば楽になるだろうか。
じっとスタジアムを見つめる私に、山さんがさらに問いかけた。
「いぶさんよ……」
「えっ」
「以前のいぶさんと、なんだか違うな」
「……何が、ですか」
「何がって言われてもなぁ……」
私は決心した。
「すみません。実は……皆さんのことを、知りません」
二人は息を呑んだように私を見つめた。その視線は冷ややかで、けれどどこか悲しげだった。
「本当に、知らないのか……」
「はい」
「じゃあ、自分のことは?」
「……私は、『いぶすき』と言われています」
二人は顔を見合わせた。驚きに満ちたその視線に耐えられず、私は逃げるようにその場を立ち去った。
どこをどう歩いたのか、小さな公園に辿り着いた。近くを通る線路の音が、低く響いている。その規則正しい音が揺り籠のように心地よく、私は深い眠りへと落ちていった。
真っ白な、何も見えない空間。
遠くから、微かに犬の鳴き声が聞こえる。
姿は見えないが、声は次第に大きくなっていく。そして、目の前に真っ白な小犬が立ち尽くしていた。尻尾を振り、優しい目で私を見ている。
「どうした? もっとこっちへおいで」
近づこうとすると、犬は誘うように後ずさり、やがて白濁した景色の中に消えてしまった。
「おーい! どこだ、どこにいるんだ!」
「旦那さん、旦那さん!」
誰かに体を揺さぶられ、目を覚ました。
辺りはすでに薄暗い。目の前には制服を着た警察官が立っていた。
「どうかされましたか?」
立ち去ろうとする私の肩を、警察官が優しく引き留めた。
「指宿翔太さんですね。捜索願が出ていますよ。さあ、お家に帰りましょう」
そう言われて初めて、私は自分の住む場所を失念していることに気づいた。
「……道に、迷いました」
「私が連れて行ってあげましょう」
警察官に伴われ、見覚えのある一軒家へと辿り着いた。家から出てきた見知らぬ女性に、警察官が「駅前の公園で保護しました」と告げている。
女性からいくつかの説明を受けたが、私の頭には何も残らなかった。彼女が去った後、私は座椅子の沈み、暗い庭を眺め続けた。
冷蔵庫には腐ったバナナしかない。空腹はあったが、動く気力もなく、私は吸い込まれるようにベッドへと潜り込んだ。
翌朝。朝食も摂らぬまま、私は「住まい」を出た。
人の流れに乗って歩くうちに、駅前に着いた。無意識に券売機へ金を入れ、適当なボタンを押して改札を抜ける。
ホームのベンチで電車を待つ。どこへ行くかは重要ではない。ただ、身体が動くままに流されたかった。到着した電車のドアが開いた瞬間、私は吸い込まれるように車内へと足を踏み入れた。
何度か乗り換えを繰り返し、辿り着いたのは新横浜駅の新幹線ホームだった。
待合室で、子供がはしゃいでいる。
「おじちゃん、どこに行くの?」
突然の問いかけに、私は無意識に答えていた。
「……九州だよ」
「あたし、福島!」
「そう……」
母親らしき女性が、慌てて私に話しかけてきた。
「九州方面は、反対側のホームですよ」
行き先を間違えていることすら、私には分からなかった。浮遊物のように、ただ流されていく。
言われるがままホームを移動し、滑り込んできた新幹線に乗り込んだ。
「乗車券を拝見いたします」
車掌の声に、私は切符を差し出した。
「お客さん、ここは指定席です。自由席は隣の車両ですが……どちらまで行かれますか?」
「九州です」
「小田原までの乗車券ですが……九州のどちらまで?」
答えられなかった。行き先など、どこにもないのだ。
「……終点です」
「博多ですね」
「はい」
「では、博多までの切符を精算しましょう。この席も、このままお使いになりますか?」
車掌の言葉に従い、金を払う。彼は笑顔で去っていった。
車窓から流れゆく景色を眺めているうちに、緩やかな揺れが意識を遠ざけていく。
私は、また深い眠りの中へと溶けていった。
真っ白な空間に、白いカーテン。窓際のベッドに横たわる女性が、穏やかな笑みを浮かべて私を見ている。遠すぎて声は聞こえないが、その口元は「何か食べたい」と動いている。
お菓子か、それとも……。問いかけようとした瞬間、彼女は静かに目を閉じた。
触れた頬は、氷のように冷たかった。
「おい、どうした! 目を覚ませ!」
叫ぶ私の背後で、見知らぬ白い犬が悲しげに吠えた。ベッドは遠ざかり、代わりに白い犬が尻尾を振って近づいてくる。
お前もお腹が空いたのか。よしよし、いい子だ。
遠くから声がする。……お客さん、お客さん……。
「お客さん! 起きてください、終点ですよ」
目を開けると、駅員が私を覗き込んでいた。夢だった。ここがどこなのか、自分がなぜここにいるのか、すぐには思い出せなかった。
「どちらまで行かれるんですか? 乗車券を拝見します」
私はポケットを探り、手に触れた紙片を差し出した。
「博多ですね。さあ、着きましたよ」
促されるまま、私は新幹線を降りた。改札を出る気力もなくホームのベンチに座っていると、また別の列車が滑り込んできた。吸い込まれていく人々の波に乗り、私も再び車内へと足を踏み入れた。




