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第十章 記憶の連鎖

私は窓際の席を選んだ。理屈ではなく、陽の光を求める本能がそうさせた。

列車が動き出す。街並みはすぐに消え、山間を縫うように速度を上げた。

『ご乗車ありがとうございます。この列車は終点、鹿児島中央駅まで各駅に停車いたします……』

車内アナウンスに混じる「鹿児島」という響き。それは私の記憶の淵で、淡い光のように浮かんでは消えた。

五分後に終点へ着くという放送が流れた。周囲が降り支度を始める中、私はただ座っていた。

駅に降り立つと、激しい空腹が襲ってきた。当てもなく街を歩き、暖簾の下がった地味な食事処へ入った。

「お惣菜はありますか? アジフライとか、唐揚げとか……」

メニューも見ずにそう告げたのは、それが私の魂に刻まれた「食べたいもの」だったからだ。

運ばれてきた皿は豪華だった。ふっくらとしたアジフライが二つ、香ばしい唐揚げ、サラダ、吸い物、そしてお新香。どれもが驚くほど美味しく、私は一心不乱にそれを平らげた。

会計のためレジに立つと、店員が微笑んだ。

「三千二百円になります」

財布を開け、中身を掌に広げた。百円玉が数枚と、十円玉が数枚。お札は一枚も入っていなかった。私は呆然と立ち尽くした。

「どうかされましたか?」

「……これしか、ありません」

店員の顔色が変わった。「三百十円? これだけですか? ……店長!」

奥から出てきた店長が、怪訝な顔で私を問い詰める。

「警察を呼びますよ。いいですね」

しどろもどろになる私を救ったのは、店内に響いた一人の女性の声だった。

「あら、どうしたの店長?」

「いや、このお客様がお金をお持ちでないのに食事をされまして……」

女性が私の顔を覗き込んだ。私は気まずさに目を逸らした。

「えっ! 翔太……翔ちゃんじゃないの!?」

私は驚いて顔を上げた。見知らぬ女性が、驚愕の表情で私を見ている。

「やっぱり翔ちゃんだわ! どうしてこんな所に?」

彼女は店長に代金を支払い、「この人は私の幼馴染よ」と言い切った。

彼女は君沢良子だった。偶然にも講演の帰りに立ち寄ったこの店で、彼女は「奇跡」に出会ったのだ。

「翔ちゃん、分かる? 私よ、君沢よ」

「……すみません、どなたですか」

予想通りの答えに、彼女は微かに悲しげな目をしたが、すぐに力強く微笑んだ。

「行く場所がないのでしょう。今日は私の家へ来なさい」

その夜、私は君沢家の離れに泊めてもらうことになった。

翌朝、君沢良子は「夕陽の杜」の長峰清子に連絡を入れた。神奈川の福祉事務所からも捜索願が出ていたため、事態は急速に動き出した。君沢良子の地位と信頼もあり、彼女が私の身元引受人となることが正式に決まった。

それから一ヶ月。私は君沢良子の後援会事務所で雑用係として働き始めた。周囲の人々は皆、温かく接してくれた。

ある日の夕方、私は本家に呼ばれ、良子と一緒に食事をすることになった。

「翔ちゃん、これ。学生時代にみんなで撮った写真よ」

差し出された写真をじっと見つめた。開聞岳の麓、海岸でのキャンプ。

「翔ちゃんが溺れたふりをして、みんなを困らせたこと、覚えているわ」

その言葉が引き金だった。

心臓の鼓動が激しくなり、後頭部を金槌で叩かれるような激痛が走った。

「うわあああ!」

私は椅子から転げ落ちるように崩れ落ちた。

その瞬間、背中に柔らかな衝撃を感じると同時に、右腕に鋭い痛みが走った。

君沢家の愛犬、白い柴犬の「ケン」だった。倒れ込んできた私に驚き、咄嗟に噛みついたのだ。

激痛の中、目の前が真っ白な空間に塗りつぶされていく。

その白の奥から、二つの黒い瞳が近づいてくる。

「マリン……! マリンか! どこに行ってたんだ、もう大丈夫だぞ……」

「翔ちゃん! 翔ちゃん!」

遠くで呼ぶ声に目を開けると、良子が心配そうに私を覗き込んでいた。

「手、大丈夫!? 病院へ行こうか」

「……マリンが、会いに来た」

「マリン? マリンって何?」

「白い……犬だ」

「思い出したのね! 他に何か……」

だが、激痛が引くと同時に、私の心はまた凪のような忘却に包まれた。

「あなたは……どなたですか?」

良子は、私が一瞬だけ過去に触れ、そして再び彼女を忘れてしまったことを察した。彼女はそれ以上問い詰めるのをやめた。翔太の負担を案じたのだ。

翌日、この出来事は関係各所に報告された。君沢良子の記憶を一瞬で失いながら、飼い犬の写真の中の「マリン」を思い出す。極めて稀な症例だと言われた。

しかし、このアクシデントは私に新しい心の寄る辺を与えてくれた。

君沢良子の計らいで、私は離れでケンを世話することになったのだ。

後援会事務所が休みの日に、ケンを連れて散歩をするのが日課となった。

屋敷の近くにある小さな公園へと続く道。コンビニやスーパーが並ぶその見知らぬ道を、私はケンと共に、初めての足取りで歩き出した。

春とは名ばかりの、肌寒い風が吹く日だった。

私はケンを連れて、近所の簡素な公園へと足を向けた。ベンチに座り、ぼんやりと時を過ごしていると、見知らぬ老人が隣に腰を下ろした。

「春と言っても、まだまだ寒いねぇ」

私は軽く笑みを浮かべて会釈したが、返す言葉は見つからなかった。

「おとなしそうな犬だね」

「……私の犬では、ないので」

「おや、じゃあお子さんのかな?」

「いえ……自分も以前飼っていましたが、亡くなりました。ケンは、近くの犬です」

「そうか、ケンちゃんか。どこから来たんだい?」

老人は笑いながらケンを見ている。私もつられてケンを見た。ひと時の柔らかな空気が流れたが、老人は独り言のように街の話をひとしきり喋ると、どこかへ立ち去っていった。

陽が傾き始めた頃、私はケンを連れて公園を後にした。

見知らぬ通行人と会釈を交わしながら歩くうちに、一軒のスーパーが目に入った。なぜか強い興味を引かれ、私は入口の柱にケンのリードを繋ぎ、店内へと入った。

特に買うものがあったわけではない。だが、出口付近に陳列された惣菜を見た瞬間、激しい食欲が湧き上がった。私は吸い寄せられるように唐揚げとコロッケを買い、店を出た。

早く食べたい。その一心で歩き続け、辿り着いた公園のベンチで惣菜を広げた。外で食べる食事は格別で、日差しを浴びながら満腹感に浸る時間は、何物にも代えがたい爽快感があった。

しばらくすると、一人の老人が近づいてきた。

「おや、ワンちゃんはどうしたんだい?」

先ほどの公園で会った老人かもしれない。私は丁寧に頭を下げた。

「ワンちゃん……?」

「そう、さっき連れていたワンちゃん。どうしたんだい?」

一瞬、動揺が走った。だが、記憶の底から一つの名前が浮かび上がった。

「マリンは……もう、亡くなりました」

「マリン? さっきケンとか何とか言っていた気がしたけれど」

「マリンです」

「そうですか……元気そうに見えたけれど、残念だねぇ」

二人の会話は噛み合わないまま終わった。私はケンを置き去りにしたことさえ忘れ、ただひたすらに、目的のない道を歩き続けた。

夕闇が迫る頃、私は指宿市・川尻海岸の防波堤に座り、海を眺めていた。

さざ波の音。右手に聳える開聞岳。絵画のような絶景がそこにあった。目的などない。ただ自然と、この場所に辿り着いたのだ。南風が頬をなでる感覚が、理由もなく心地よかった。

立ち上がろうとした時、若い男に声をかけられた。

「町内放送されていた指宿さんじゃありませんか?」

「……?」

「間違いない、みんなが探していますよ!」

男は私の腕を取り、どこかへ連れて行こうとした。私は手を振り払って立ち竦んだが、帰り道も、自分が誰なのかも分からなくなっていることに気づき、結局、男の後に従うことにした。

パトカーで送り届けられた先は、見覚えのある屋敷だった。

「翔ちゃん! どこに行っていたの、心配したわよ!」

君沢良子が血相を変えて飛び出してきた。

不審に思った通行人が、スーパーの前に繋がれたままの犬を見つけ、首輪の連絡先に電話をしてくれたのだという。私の行方を案じ、街中に放送が流れていたのだ。

その後、君沢良子は自身の地位と情熱のすべてを注ぎ、認知症対策のための活動に身を投じた。しかし彼女が全国を奔走する一方で、指宿翔太の「時間」は着実に削り取られていった。

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