第十一章 記憶に残る富士の山
ある時、良子が地方講演から戻ると、屋敷に指宿の姿はなかった。
捜索願が出され、全国紙にもその名が載ったが、行方は杳として知れなかった。
季節は巡り、桜の蕾が桃色に膨らみ始めた初春。
かつて指宿が通った、あの富士山の見える公園のスタジアム。そのベンチに、一人の老人が静かに座っていた。
「いぶさん? いぶさんじゃないか!」
声をかけたのは、旧友のやっさんだった。そこにいた指宿は、無精髭を蓄え、服も汚れ、かつての面影を失うほど貧相な姿で老残を晒していた。
「どこかに引っ越したと聞いていたが……随分と変わったなぁ、いぶさん」
指宿は微かな笑みを浮かべ、やっさんに頭を下げる。
「元気か? 今はどこに住んでいるんだ?」
指宿は、黙って自分の足元の「地面」を指さした。
「……そうか、戻ってきたのか」
「…………」
「やすだよ、覚えているか?」
指宿は、ゆっくりと首を横に振った。
やっさんは、立ち去るふりをして指宿の後を追った。
指宿は公園を出るのではなく、森の奥へと分け入っていく。道なき道を進んだ先にあったのは、枯れ木と枯葉で囲まれただけの、惨めな寝床だった。
「いぶさん、ここで何をしているんだ!」
「……ここが、一番落ち着くんです」
指宿は驚きもせず、穏やかに笑った。
「ここで寝泊まりしているのか? 家に帰らないのか?」
「……家は、分かりません」
やっさんは胸を突かれる思いで指宿を連れ出し、駅前の食堂で腹一杯食べさせた。そのまま役所の出張所へ連れて行き、保護を求めた。
照会の結果、九州から捜索願が出されていることが判明した。君沢良子はすぐさま駆けつけ、変わり果てた指宿と再会した。
良子は、指宿の自宅を担保に、彼を地元の手厚い施設へ入居させる手続きを整えた。
そこはセキュリティが万全で、精神科も併設された穏やかな終の棲家だった。
指宿の個室は、かつての自宅の寝室によく似ていた。
窓越しに差し込む朝の光が、枕元を照らす。
眩しさに目を覚まし、顔を背けてからゆっくりと瞼を開く。それが指宿の新しい一日の始まりだった。
調理場はないが、小さな冷蔵庫には、彼が唯一好む「バナナ」が常に用意されていた。
大食堂で他の入居者と食事を摂り、食後は庭を眺めて過ごす。
何も思い出せない。けれど、何も奪われることのない静かな日々。
指宿翔太の旅は、ようやく、穏やかな凪の中に辿り着いたのだった。
施設での指宿翔太は、食後は自室で過ごすのが常だったが、その日は珍しく娯楽室のテレビの前にいた。
カーテン越しに見える外の風景も、室内の空気も、何ひとつ変わらない。テレビに映る映像は網膜を通り過ぎるだけで、その内容は理解の外にあった。彼の意識は、ただ静かな「無」の中に漂っていた。
「……亡くなったか。有名な俳優だったのになぁ」
背後から聞こえた声に振り返ると、車椅子の老人が近づいてきた。老人は指宿の顔を覗き込み、怪訝そうな顔をした後、パッと表情を明るくした。
「いぶ……いぶさんじゃないか!」
指宿は何も答えず、ただ穏やかに微笑んで会釈した。相手が誰であるかは、霧の向こう側だった。
「なんだ、ここにいたのか! 俺だよ、徳井だよ。昨日からここでお世話になることになったんだ。腰を痛めてしまってね。いぶさんは?」
「…………」
車椅子の老人は、かつての公園仲間である徳井だった。妻を亡くし、独り身で腰を病んだ彼は、子供たちの勧めでこの施設に入所したのだ。徳井はやっさんから指宿の病状を聞いていたため、彼が自分を忘れていることに気づいても、あえて初対面のように明るく振る舞い、積極的に話しかけた。この日を境に、二人は再び、言葉の断片を交わし合う仲になった。
桜が満開を迎える頃、施設の花見行事が行われた。
場所は、かつて彼らが日々を過ごしたあの公園だ。スタジアム前のベンチからほど近い桜の木の下で、入居者たちは甘酒やお茶を手に、春のひと時を楽しんでいた。
徳井は桜よりも、遠くのベンチを気にしていた。
「いぶさん、ここからじゃあいつら……やっさんたちがいるかどうか、分からないなぁ」
「マリンが……」
指宿が唐突に呟いた。
「えっ、マリン? ……ああ、そうだったな。あんた、いつも白い犬を連れてきていたっけ。思い出したのかい?」
「マリンは、もう、いないです」
「……ああ。死んじまったんだよな」
指宿はふらりと立ち上がり、徳井に向き直った。
「今日はこれで失礼します。スーパーで買い物をして帰りますから」
「帰るって、どこへ?」
「アジフライを買って、家に……」
指宿は独り歩き出そうとし、慌てた職員に引き留められた。
その様子を見ていた女性職員は、指宿が口にした「犬の名前」と「スーパー」という言葉が気にかかり、後日改めて彼と向き合った。
「指宿さん、さっきのスーパーの話、詳しく聞かせて。何を買うつもりだったの?」
「公園の帰りに寄るんです。アジフライを……」
「アジフライ?」
「ええ。昨日はコロッケだったから、今日はアジフライ。そう決まっているんです。それを買って、家に帰るんです」
職員から報告を受けた看護長は、身元引受人の君沢良子に連絡を入れた。
良子はすぐさま上京し、施設側の許可を得て、指宿を再びあの公園へと連れ出した。
「翔ちゃん、この公園、覚えている?」
「あの先に行くと、富士山が見えるんです」
指宿は迷いのない足取りで歩き出し、馴染みのベンチを指さした。
「ほら、綺麗でしょう。あそこに富士山が……」
雪化粧をした富士が、稜線の向こうに浮かんでいた。
「翔ちゃん……富士山って分かるのね」
「ここで見る富士山は、心が落ち着きます」
その言葉に、良子は彼の記憶が微かに息を吹き返しているのを感じた。
「翔ちゃん。この後、スーパーに行ってみる?」
「そうですね……お腹も空きましたし。一緒に行きますか?」
二人は公園を後にした。指宿は一度も迷うことなく、道路沿いのスーパーへと良子を導いた。店に入ると足早に惣菜コーナーへ向かい、迷わずアジフライを手に取ってレジへ進む。
「待って、翔ちゃん。お金、持っていないでしょう。ほら」
良子が財布を出した時、レジの女性店員が声を上げた。
「お久しぶりですね!」
店員は親しげに笑っていた。良子はその女性、青木みさに名刺を渡し、翌日、改めて話を聞く約束を取り付けた。
翌日、公園で向き合った青木みさは、指宿の「日常」について詳しく語ってくれた。
「指宿さんは、毎日来られていました。お昼前に、白い犬を入口のポールに繋いでね」
「毎日、ですか?」
「ええ。メンチ、コロッケ、アジフライ、唐揚げ……その四つを、決まった順番でローテーションして買っていくんです。今日はコロッケなら明日はアジフライ、という風に」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「ええ、毎日のことですから。……でも、ある時から、その順番を間違えるようになったんです。連日同じものを買ってしまったりして。そんな時、指宿さんはとても照れくさそうに笑っていました」
青木みさは少し寂しげに続けた。
「それが数日続いた後、パタリと来られなくなったんです」
良子は確信した。
決まったローテーションが崩れ始めたあの日、指宿さんの日常を支えていた歯車が止まったのだ。そして彼は、何かに導かれるように九州へと、己の名のルーツへと旅立ったのだろう。




