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第十二章 記憶の中のメモワール

良子は翌日、再び指宿をスーパーに連れて行こうと決めた。

彼が再び同じ行動をとった時、その先に失われた記憶の欠片が、あるいは新しい「今」を生きるための光が見つかるかもしれない。

施設の看護長の許可を得て、「今日は外食をしてきます」と告げ、良子は指宿と共に、再びあのスーパーへの道を歩き出した。

公園からほど近いスーパー。君沢良子は、あえて先に公園へと指宿を導いた。彼は毎日この公園で過ごし、正午になるとスーパーで惣菜を買って帰る生活をしていたはずだ――その推測を確認するためだった。

「翔ちゃん、もうお昼よ。何か食べない?」

遠くの稜線を眺めていた指宿に、良子が話しかけた。

「そうですね。スーパーで何か買って、僕の家で食べましょう。あいにく手持ちがないので、貸していただけませんか?」

良子は動揺を隠し、安堵の息をついた。前回と同じ行動。そして、彼自身の口から「僕の家」という言葉が出たのだ。

指宿はおもむろに歩き出した。スーパーの入り口に着くと、彼はふと足を止め、虚空を指さした。

「ここに、いつもマリンを繋いで中に入るんですよ」

「マリン……?」

「ええ。もう亡くなっていますけどね」

自分の愛犬が亡くなった事実を、彼は正しく認識していた。店に入り、惣菜コーナーへ向かおうとしたその時、指宿が不意に振り返って言った。

「君ちゃんは、何にする?」

「……君ちゃん!?」

良子は絶句した。それは学生時代の自分を呼ぶ、懐かしい響きだった。

「忘れたのかい? あの頃、そう呼んでいたじゃないか」

「……思い出したの? 私のこと」

「さっき歩きながら、思い出しました。それより何を食べますか? 私は前回がアジフライだったから、今日は唐揚げにします」

良子は驚きの連続だった。名前を思い出しただけでなく、惣菜のローテーションまで正確に把握している。

スーパーを出た後、指宿は「自宅で食べる」と言い張った。

「翔ちゃん、家まで帰れるの?」

「いつも通っている道だからね。すぐそこだよ」

彼は迷うことなく左に曲がり、一軒の家の前で足を止めた。表札を指さして「僕の家です。どうぞ」と微笑む。良子が預かっている鍵をどうするのか見守っていると、指宿は玄関脇の植木鉢をどかし、そこから予備の鍵を取り出した。

「失くした時のために、ここに隠してあるんですよ。さあ、上がってください」

部屋の中は、長い不在のために薄暗く、冷ややかな空気が沈殿していた。

指宿は迷わず居間へ向かい、棚の上の遺影に合掌した。それから台所へ立ち、「米を炊くから待っていて」と言った。

「翔ちゃん……ガスも電気も、止まっているわよ」

炊飯器の前で立ち尽くす指宿に、良子は優しく声をかけた。

「ご飯はいいから、おかずだけで食べましょう」

「……そうだね、そうしよう」

良子は、彼がどれほどの日常を思い出しているのかを確かめるように、一つひとつ問いかけた。隠し鍵、犬の写真、日々の習慣。彼の答えには一点の矛盾もなかった。

しかし、まだ無理はさせられない。良子は心を鬼にして、彼を施設へ連れ戻した。

「今日は帰りましょう。ここはまだ、不便でしょう?」

指宿は少し不服そうだったが、最後には承諾した。

施設に戻った良子は、看護長にすべてを報告した。

後日行われた精密な認知症検査で、指宿は健常者と変わらない結果を出した。ここに入所した経緯や、放浪中の直近の記憶だけは抜け落ちていたが、それ以外の「指宿翔太」としての記憶は、ほぼ完全に蘇っていたのだ。

「翔太さん、家に戻りたいと思いませんか?」

看護長の問いに、指宿ははっきりと答えた。

「ここは介護が必要な方のための場所です。健康な私がここにいる資格はありません。他の方に席を譲るべきです」

その確かな口調を受け、施設と良子は「監視付きでの外出」を経て、最終的な退院を認める判断を下した。

春の陽光が差し込むある朝、施設の門前に三人の姿があった。

「指宿さん、退院おめでとうございます」

看護長に見送られ、指宿は深く頭を下げた。

良子は事前にライフラインを復旧させ、生活の準備を整えていた。通帳、カード、現金、そして鍵と携帯電話。すべてを指宿の手へと返した。

「翔ちゃん、今日から自分の家よ。何かあったら電話してね」

「ありがとう。……良子さんが鹿児島へ帰るなら、僕もついて行こうかな。……なんて、冗談だけどね」

「ふふ、そのくらいの冗談が言えれば安心だわ」

二人は自宅で最後の昼食を共にし、良子は安堵の胸を撫で下ろして鹿児島へと帰っていった。

翌朝。

カーテンの隙間から差し込む光が、指宿の瞼を叩いた。

いつか経験したような、けれど確かな重みのある目覚めだった。

彼はベッドを抜け出し、台所へ向かった。何かを探して立ち止まる。

(そうだ、バナナだ……バナナがない)

彼は思わず苦笑した。どうでもいいことだ。

湯を沸かし、座椅子に腰を下ろしてお茶を啜る。点けてもいないテレビの画面越しに、雑木林のように荒れた庭を眺めた。

立ち上がり、マリンの遺影に手を合わせる。

家を出て、あてもなく歩き出す。右手にスーパーを見送り、犬を連れた女性と会釈を交わす。本能的に頭を下げたが、知らない人だった。

ひたすら歩き、辿り着いたのはあの大きな公園だった。

噴水の水しぶきが、高々と上がっては水面に砕ける。何の変哲もない光景。

けれど、指宿の心には、かつてないほどの平穏が満ちていた。

ふと横を見ると、一人の老人がいつの間にか隣の椅子に座り、同じように噴水を眺めていた。

どこにでもある公園の、どこにでもいる高齢者の散歩風景。

けれどその横顔は、春の光を浴びて、静かに、燦々と輝いていた。

改めて噴水を眺めていると、一人の老人が近づいてきた。

「今日は水が出ているね」

ベンチに座る私は顔を見上げた。どこかで見かけた気がするが、思い出せない。視線を噴水へ戻すと、老人は言葉を重ねた。

「ほら、前に会った時は止まっていただろう。今日はいいタイミングだ」

見覚えはある。だが、名前が出てこない。

「いつもここへ来られるんですか?」

「以前はよくここで二人、噴水を眺めたものだよ。随分と久しぶりだね」

「あの……」

「忘れたのかい? 箭内やないだよ」

「箭内さん……?」

「おいおい、大丈夫か。もう何度も名前を聞かれているよ」

「箭内さん!」

その瞬間、記憶の蓋が開いた。そうだ、この公園でよく会っていた箭内さんだ。

……しかし、待てよ。誰かから聞いたはずだ。箭内さんは、亡くなったのではなかったか。

亡くなったというのは嘘だったのか、それとも……。

困惑して隣を振り向いた時、そこに箭内さんの姿はなかった。周囲を見渡しても、人影ひとつない。今しがた言葉を交わしていた男が、一瞬でかき消えたのだ。

(あの世から来たというのか? いや、私ははっきりとこの目で……)

訳が分からず、立ち尽くした。

視界の噴水が徐々に滲み、周囲が暗転していく。暗黒の世界に突き落とされ、出口のない闇を彷徨う。背後で誰かの声がするが、意味は届かない。

満天の星空を見上げた瞬間、目の前が真っ白な光に塗りつぶされた。顔に温もりを感じ、光は瞼を射抜くほど強くなっていく。

ゆっくりと目を開けると、そこには早朝の陽光を浴びる、いつもの寝室があった。

長く、あまりにも凄絶な夢の世界から、現実へと帰還した瞬間だった。

ベッドに横たわったまま、天井を見つめる。

身体が鉛のように重い。生涯の記憶を一気に駆け抜けたような疲労感があった。普段、夢の記憶は目覚めとともに霧散するが、今回は違った。現実と物語が入り混じり、自らの記憶が失われていく過程を克明に綴った、呪いのような夢。

嫌な予感が胸をかすめる。

私は這い出すように台所へ向かった。

顔を洗い、粉末スープに湯を注ぐ。バナナを一本手に取り、居間の座椅子に腰を下ろした。テレビを点け、手入れの届かない庭を眺めながら朝をやり過ごす。

やがて、時計ではなく「腹時計」が外出の時間を告げる。

愛犬がドッグフードを食べ終え、散歩を促すように私を見つめている。

夢の中のマリンは死んでいたが、現実のマリンはこうして生きている。それだけで十分だった。

「マリン、行くぞ」

いつものように散歩へ出かけ、いつものように犬連れの女性と会釈を交わす。

公園に着くと、山々の稜線の向こうに富士を望む「一等席」に座った。マリンと寛いでいると、自転車に乗ったやっさんが現れた。

「今日は少し冷えるな」

「そうですね」

「昨日の野球は面白かったぞ。誤審だよ。アウトなのにセーフにしやがって」

「……家に帰ったら観てみます」

「ここで観れるぞ。携帯を出してみろ」

差し出した私の携帯を見て、やっさんが眉をひそめた。

「おい、古いな。これじゃ動画は見られん。俺ので見せてやるよ」

やっさんが手際よく操作する画面を見ながら、私は戦慄した。夢の中で、やっさんは全く同じことを言っていた。

「やっさん、同じことを前にも言いませんでしたか? 携帯を替えた方がいいって」

「いいや、今日が初めてだぞ」

「……そうですよね。私の勘違いです」

夢と現実が重なった。ただの偶然だと言い聞かせ、やっさんに誘われるままスタジアム前のベンチへ向かった。

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