第十三章 ルールと錯誤
そこには徳井さん、田野井さん、吉田さん、そして先ほど消えたはずの箭内さんがいた。
箭内さんは「用があるから」と席を譲ってくれた。ごくありふれた日常の光景だ。
だが、私の心は騒ぎ続けていた。夢の中では、ここにいる田野井さんも箭内さんも亡くなっていた。そして私自身の記憶が消えていった。
(これは正夢なのか? これから起こる現実の予告なのか?)
答えの出ない問いが、頭の中を空転する。
人々の世間話を適当に聞き流しながら、私はただ最後の一人になるまでベンチに残った。
「さあマリン、帰って飯にしよう」
スーパーに寄り、唐揚げを買う。昨日はアジフライだったはずだ――そう思ってレジへ向かうと、店員が意外なことを言った。
「今日はメンチじゃないんですか?」
「えっ?」
「昨日は唐揚げでしたよ」
「…………」
理解が追いつかない。昨日は唐揚げだった? では、アジフライを食べたのはいつだ? 夢の中か?
「……すみません、余計なことを」
「いえ、今日はこれにします」
逃げるように店を出て、マリンと歩きながら考えた。
おかずのローテーションが狂っている。夢と現実の記憶が混濁し、どちらが正しいのか判別できない。
混乱したまま家に戻り、ふとテーブルを見ると、あるはずの携帯電話がなかった。
(公園だ。やっさんに動画を見せてもらった時、あそこに置き忘れたんだ)
食事も摂らずに公園へ引き返したが、管理事務所に届出はなかった。仕方なくショップへ走り、紛失届を出して代替機を契約することになった。
新しく手にした携帯は、早口な店員の説明とともに、私の理解を遥かに超える複雑な機械だった。
家に戻って弄り回したが、元の画面に戻ることさえできなくなり、私は絶望して電源を切った。
夕闇が迫る居間で、私は座椅子に身を沈め、瞼を閉じた。
携帯、おかずの順番、田野井さんの死、そして……マリン。
「マリンが、死ぬ?」
弾かれたように目を開け、寝室へ駆け込んだ。
マリンはベッドの上で、丸くなって健やかに眠っていた。
それを見て、私は力なく苦笑した。夢と現実がごちゃ混ぜになり、私は幽霊に怯える子供のようになっている。
「夢は、夢の世界であってくれ……」
そう願いながら、私は眠るマリンの隣に横たわった。
重い瞼がゆっくりと閉じ、私は再び、意識の深淵へと沈んでいった。
翌朝、陽の光は射していなかった。代わりに、マリンが私の顔をペロペロと舐める感触で目が覚めた。顔を背けながら、今日という一日を始める。
町工場の電源が入り、機械が昨日と同じ動きを繰り返すように、私の日常もまた、何一つ変わらないリズムで動き出す。
私はいつものように公園へと向かった。お気に入りの場所からは、曇天のせいで富士の嶺は見えない。仕方なく、仲間が集まるスタジアム前へと移動した。
そこには長老の徳井さんと吉田さんが、難しい顔をして座っていた。
「……田野井さんが、亡くなったらしいぞ」
徳井さんが唐突に切り出した。
「田野井さんが!?」
「ああ。脳梗塞だったそうだ。昨日はあんなに元気だったのになぁ……。明日は我が身か」
徳井さんの「明日は我が身」という言葉が、胸に冷たく突き刺さる。
夢の物語が、まだ続いている。夢の中で亡くなった田野井さんが、現実でも去った。
ならば、この次はマリンが、箭内さんが……そして私の記憶が消えていくというのか。
(いや、そんなはずはない。これは現実だ。ただの偶然だ)
自分に言い聞かせていると、徳井さんの声が飛んできた。
「おい、いぶさん! 大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「あ……いえ、考え事をしていて」
「あんたも気をつけろよ。田野井さんは俺より若かったんだからな」
その日の井戸端会議は、重苦しい空気のまま解散となった。一人残されたベンチで、私は言いようのない震えを感じていた。それが寒さのせいか、夢の続きへの恐怖のせいか、自分でも分からなかった。
月日は流れ、肌に薄汗を感じる初夏。
スタジアム前のベンチに、指宿翔太は座っていた。少し離れた場所では、やっさんとやまさんが密やかに話し合っている。
「近頃のいぶさんは、めっきり元気がねぇな」
「ああ、ワンちゃんが亡くなったからなぁ。あんな風にリードだけ握っていても仕方ねぇのによ。本人はまだ生きていると思っているみたいだぜ」
二人の視線の先で、指宿は「空のリード」を大切そうに握りしめていた。視線はおぼろげにスタジアムを見つめている。
「なんだか、認知症らしいぞ」
「気の毒になぁ……」
やっさんが立ち上がり、指宿に歩み寄った。
「いぶさん、調子はどうだい?」
「……今日は、試合はないのですか?」
「ああ、今日は何もやっていないよ」
「そうですか。だからマリンは吠えないんだな。あいつは臆病だから、太鼓の音がするとソワソワするんですよ」
指宿は、足元に誰もいないはずのリードを見つめて微笑んだ。やっさんはそれ以上、現実を突きつけることができなかった。そうすることが、今の彼を壊してしまうと悟ったからだ。
一人になった指宿は、ただ呆然としていた。彼の頭を占めていたのは、スーパーで買う惣菜のことだ。昨日何を食べたか思い出せず、ルール通りのローテーションが守れないことに、焦燥を感じていた。
「とにかく、売り場へ行けば思い出せるはずだ」
彼はスーパーへ向かい、惣菜コーナーを徘徊した。だが、見つめれば見つめるほど迷いは深まる。食べたいものを買うのではない。「ルール」を守りたいだけなのだ。
(決断しろ……!)
自分に言い聞かせ、天からの啓示に従うようにコロッケを手に取った。
レジに向かうと、店員が話しかけてきた。
「あら、今日は順番を止めたのですか?」
「……ええ。食べたいものを買うことにしました」
「そうですか」と店員は笑い、ふと彼の足元を見た。「ワンちゃんは、どこに?」
「……?」
「ほら、いつも入口のリードフックに繋いでいらっしゃるでしょう?」
その言葉に、指宿は凍りついた。慌てて出口へ向かったが、そこにマリンの姿はなかった。
動揺を抑え込み、「今日は留守番をさせているんだ」と自分に言い聞かせて家路を急いだ。
玄関を開け、必死にマリンの名を呼ぶ。だが、駆け寄る爪の音は聞こえない。
居間の棚を振り向くと、そこには笑顔のマリンの遺影があった。
彼は安心して、その写真を背にコロッケを口にした。今日もまた、一日が終わる。
それからの日々は、周囲の言葉が意味をなさなくなっていく時間だった。
ある朝のこと。窓の隙間から、微かに波の音が聞こえてきた。
音は次第に大きくなり、巨大なうねりとなって私を飲み込んだ。天地の境も分からぬまま、私は水平線の彼方へと引きずられていく。
「翔ちゃん、翔ちゃん!」
暗闇の向こうから、誰かの手が差し出された。必死にその手を掴んだ瞬間、私は目覚めた。
「気がついたのね、翔ちゃん! 分かる? 私よ、君沢良子よ」
辺りを見渡すと、白衣の男と、二人の女性が立っていた。
「どこか痛むところはありますか?」
医師と思われる男が私の顔に触れる。私はゆっくりと体を起こした。
「……いえ、どこも」
「よかった。丸二日間、眠ったままだったのよ。翔ちゃん、あなたは海岸で倒れているのを発見されたの。覚えている?」
女性――君沢良子が必死に語りかけてくるが、私には何のことかさっぱり分からなかった。
彼女の説明によれば、私は二日前に散歩に出たきり行方不明になり、海岸で倒れていたところを保護されたのだという。ここが保護施設であること、目の前の女性が同級生であること、もう一人の女性・長峰清子が施設の職員であること。
説明を受ければ受けるほど、私は自分が誰であるかさえ思い出せなくなっていった。
私の名前は、この人が呼ぶ「翔ちゃん」なのだろうか。
「私は、なぜここに……」
記憶がない。それしか答える術がなかった。
ただ、脳裏の奥底に「雪を冠した富士の山」と「白い犬」の残像だけが、幻灯機のように映っては消えていた。
こうして、私の「新しいスタート」が始まった。
だが、施設の生活には不満があった。特に食事だ。
朝はバナナとスープ。お昼は四つの惣菜。それが私の絶対的な習慣だった。
「翔ちゃん、ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
君沢良子が説得に来るが、私は首を振る。
「朝はスープとバナナ。お昼はメンチ、コロッケ、アジフライ、唐揚げ。それだけで十分なんです。それが私の……ルールなんです」
自由を奪われ、納得のいかない食事を強いられることは、何よりの苦痛だった。




