第十四章 記憶は風の吹くままに
ある日の自由時間。
私は長峰清子に「トイレに行く」と告げ、そのまま施設を抜け出した。
当てもなく歩き続け、辿り着いたのは小さな漁港だった。
岸に引き揚げられた古い漁船の傍らに腰を下ろす。さざ波の音を聞きながら、ぼんやりと水平線を眺める。
目を閉じると、波の音が夢の世界へ誘うように近づいては遠のいていく。
私は、ただその安らかなリズムの中に、自分を溶かしていった。
「夕日の杜」の二階、無機質な会議室。施設長による杓子定規な挨拶で始まった運営会議の末席に、君沢良子は座っていた。議題は、指宿翔太の度重なる徘徊と今後の処遇についてである。
長峰清子が沈痛な面持ちで経過を報告する。「トイレを待っていたわずかな隙に、姿を消されました。注意は払っていたのですが……」。
施設長が良子へ視線を向けた。「先生、指宿さんはこの三年間で何度も行方不明になっています。一度は自立されたかに見えましたが、現状はご覧の通りです。これ以上、地域や警察に負担をかけるわけにはいきません。具体的な方針を伺いたい」
良子は静かに、だが毅然と答えた。
「彼は私の幼馴染であり、天涯孤独の身です。今の状況は決して彼の意志ではありません。……私は、彼を引き取り、自宅で面倒を見ようと思います。もし手に負えなくなった時は、福岡の東西大学病院へ移す覚悟です」
東西大学。認知症研究の権威であり、高度な医療体制を持つが、同時に患者の自由は厳格に制限される場所だ。施設長はその名に驚きつつも、良子の提案を承諾し、会議は閉会した。
良子はその足で、翔太の部屋を訪ねた。
「翔ちゃん、あの港に何か思い出があるの?」
「……海が見たい。海へ行こう」
「今日は無理よ。また今度ね」
「あそこに座って遠くを見ると、富士山がよく見えるんだ。私は、あの場所が好きなんだよ」
良子には分かっていた。彼が鹿児島湾の向こうに浮かぶ桜島を見つめる時、その瞳にはかつて神奈川の公園から眺めた富士の嶺が重なって映っているのだ。
「……いつか、一緒に見に行きましょうね」
「一人で……いつも一人で。いや、マリンも一緒だ。あそこの唐揚げは美味いんだよ。毎日は食べないけれどね」
会話は噛み合わない。それでも良子は、彼の心の奥底に眠る「若き日の翔ちゃん」を呼び戻したい一心で、茨の道であることを承知の上で彼を自宅へ連れ帰る手続きを進めた。
十日後、翔太は良子の屋敷の離れに入居した。
「ここなら、毎日富士山が見えるのですか?」
満面の笑みを浮かべる彼に、良子は胸を突かれた。
「毎日ではないけれどね」
「家に帰って、いつもの朝を迎えるんだ。スープとバナナを食べて、庭を眺める。マリンを連れて噴水を横切り、あの椅子に座るんだ……」
翔太は幸せそうに語り続けた。良子は家政婦の豊美を雇い、翔太の好む「惣菜ローテーション」を献立に組み込み、愛犬ケンを連れた散歩を日課にさせた。すべては彼の望む「日常」を再現するためだった。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
ある朝、豊美が血相を変えて良子の部屋に飛び込んできた。
「良子さん! 翔太さんが、いないんです!」
良子は凍りついた。離れの玄関は、翔太が夜間に徘徊しないよう、外側から施錠されていた。良心の呵責に耐えながら下した苦渋の決断だった。
離れへ駆け込むと、居間の出窓が大きく開け放たれていた。大人の男一人が通り抜けるには十分な隙間。玄関が開かないと悟った彼は、この窓から闇夜へ這い出したのだ。
良子は狂ったように港へ向かった。漁師に聞き込み、街の商店や公園を巡り、日没まで歩き回ったが、手掛かりは一切なかった。
警察へ「特異行方不明者」としての捜索願を出し、一週間が過ぎた。けれど、翔太の行方は杳として知れなかった。
良子が次に降り立ったのは、神奈川県の、あの街だった。
かつて翔太が暮らし、そこから九州への長い放浪を始めた起点。
良子はかつての施設の看護長を訪ねたが、翔太が戻ったという情報はなかった。正直に「行方不明だ」と告げることもできず、良子は「元気でやっています」と嘘を吐いて施設を後にした。
そのまま、主のいない指宿邸へ向かった。
あの日、二人でお茶を飲んだ記憶が鮮明に蘇る。門を叩いても反応はない。庭は荒れ、人の気配は死に絶えていた。
(ここにも、いない……)
絶望が良子を包み込む。だが、最後にもう一箇所だけ、行かなければならない場所があった。
彼が日課のように通い、失われた記憶の中でも鮮明に描き続けていた、あの場所。
富士の嶺を望む、あの公園だ。
あの日、公園の木陰から指宿翔太の背中を見つめていた記憶は、今も鮮明だ。君沢良子は、彼が辿ったであろう道をもう一度なぞってみることにした。
公園のベンチに座る老人に声をかける。「白い犬を連れた、いぶさんという方を知りませんか?」
「ああ、いぶさんなら知ってるよ。よくここで話した。やっさんは元気かな、なんてね」
老人は懐かしそうに目を細めたが、ここしばらく姿を見ていないという。スーパーのレジの女性も同様だった。「もう、ずっとお見えになりませんね……」
良子は指宿の自宅の前にも立ったが、家は静まり返り、主の帰りを待つ気配は微塵もなかった。
鹿児島に戻った良子は、県議会議長としての激務に追われる日々を送っていた。指宿の捜索は警察に委ねるしかなかったが、有力な情報は一向に届かなかった。
季節は巡り、七月の上旬。
良子は福岡市でのシンポジウムに参加していた。講演の後、宿泊先へ向かう途中で「シーサイドももち海浜公園」に立ち寄る。博多湾に面した異国情緒漂う浜辺。夕陽を避けて屋根のあるベンチに腰を下ろすと、少し離れた場所に、薄汚れた服を纏った老人が座っていた。
その足元で、小さな白い子犬が跳ねている。一人の少女が駆け寄り、老人に話しかけていた。
「可愛い! お名前なんていうの?」
「……マリンだよ」
老人の掠れた声が届く。良子の心臓が跳ねた。
だが、少女の母親が血相を変えて割って入った。「このみ、来なさい! 近づいちゃダメでしょ!」
母親は老人を「汚いもの」を見るような目で一瞥し、娘を連れ去った。
長く伸びた髪で顔は見えない。世間から見れば、彼はただのホームレスだろう。良子は自らが推進する「生活困窮者自立支援」という大義名分と、目の前の現実に何もできない己の無力感に、胸が締め付けられる思いがした。
良子は震える足で老人に近づき、そっと名刺を膝の上に置いた。
「……何か、私にできることがあれば、連絡をください」
老人は顔を上げなかった。良子は祈るような心地で、その場を後にした。
翌日の日曜、公園は行楽客で溢れかえっていた。
老人は昨日と同じベンチで、死んだように横たわっている。足元では白い子犬が、通り過ぎる人々を無邪気に見つめていた。
「先週もいたよね、あの人」
「ホームレスか。犬まで連れて」
若者たちの無遠慮な言葉も、指宿には届かない。博多湾の青い空と海が溶け合う水平線。その美しさは、今の彼にとっては何の意味も持たない景色だった。
夢を見ていた。
波の音が、心地よいリズムで私の身体をコントロールしている。
私は海の上を歩いていた。マリンを連れ、どこまでも続く水平線を目指して。
道はない。だが迷いもなかった。
歩を進めるたびに、懐かしい顔ぶれが現れては消えていく。箭内さん、やっさん、徳井さん、吉田さん、田野井さん……。かつて公園で言葉を交わした仲間たちが、微笑んで私に手を振る。
神奈川の看護長や、鹿児島の施設長までもが、慈しむような目で私を見送っていた。
歩き疲れ、私は海の上に腰を下ろした。膝の上にはマリンが頭を預けている。
なぜ、私は海に沈まないのだろうか。
ふと、目の前に柔らかな手が差し出された。顔を上げると、そこには君沢良子がいた。
「翔ちゃん、早く立って! 沈んでしまうわ!」
私は静かに首を振った。
「翔ちゃん、お願い、この手を掴んで!」
彼女の手は、時間とともに遠ざかっていく。暗闇の向こうから、亡き妻が微笑みながら現れ、そして光の中に消えていった。
私はもう、自分がどこにいるのか分からなかった。傍らにいたはずのマリンの姿も見えない。
「ワン……! ワン、ワン!」
鳴き声に、私は目を開いた。
強い陽光に目を細めながら、ゆっくりと身体を起こす。どうやら寝過ぎてしまったようだ。
マリンが尻尾を振って、私を見つめている。
「そうか、腹が減ったな。今、飯をやるぞ」
子犬は嬉しそうに餌を食んでいる。長い、長い夢を見ていた。懐かしい人々が集まって、私を祝福してくれたような、そんな不思議な夢だった。
「あ、マリンだ!」
昨日の少女がまたやってきた。「また会ったね、マリン」
「……なぜ、名前を知っているんだい?」
「昨日、おじいちゃんが教えてくれたじゃない」
少女は笑った。私は、自分が昨日何を話したかさえ、もう覚えていなかった。
少女の母親が近づき、今度は優しく会釈をして、犬用のお菓子を置いて去っていった。
それを見届けて、私はふと、ベンチに置かれた一枚の紙切れに目をやった。
昨日、誰かが置いていった名刺だ。
(……君沢、良子?)
指先でその文字をなぞろうとした瞬間、一陣の海風が吹き抜けた。
名刺は私の指をすり抜け、蝶のようにひらひらと舞い上がった。
それは砂浜を転がり、キラキラと輝く波打ち際へと吸い込まれていく。
私は、声を出して笑った。
名刺も、記憶も、名前も。
すべて、風の吹くまま、好きなところへ飛んでいけばいい。
自由になった紙切れを見送りながら、私はもう一度、どこまでも青い水平線を見つめた。
そこには、ただ燦々と、初夏の光が降り注いでいた。
【エピソード:波紋のゆくえ】
指宿の自宅の庭には、彼がかつて大切に手入れしていた一本の紫陽花があった。主を失い、雑草に埋もれかけていたその花が、今年も淡い青色を湛えて咲き誇っている。
鹿児島へ戻った君沢良子は、あの日、シーサイドももちで手放した名刺のことを時折思い出す。
結局、その名刺の主から連絡が来ることはなかった。
だが、良子の心は不思議と穏やかだった。
あの老人の、汚れを纏いながらもどこか神々しささえ感じさせた横顔。そして、彼を慕うように寄り添っていた真っ白な子犬。
「……翔ちゃん、あなたは今、幸せなのね」
良子は執務室の窓から、遠く桜島の煙を眺めて独りごちた。
その頃、福岡の浜辺では、一人の老人が海辺に落ちていた「何か」を拾い上げていた。
それは、砂にまみれて文字も読めなくなった、古びたプラスチックのカードの破片だったのか、あるいは誰かが落とした貝殻だったのか。
老人はそれを大切そうにポケットに仕舞い、隣で跳ねる子犬の頭を撫でた。
「ほら、マリン。いいものを見つけたよ」
老人の頭の中には、もはや「神奈川」も「鹿児島」も、自分の「名前」さえも存在しない。
あるのは、心地よい潮騒と、太陽の温もりと、目の前で尻尾を振る愛しい命だけだ。
彼は立ち上がり、水平線の彼方、空と海が溶け合う黄金色の光の中へと、ゆっくりと歩き出した。
その足跡は、寄せては返す波に洗われ、音もなく消えていく。
けれど、その背中には、もう迷いも、悲しみもなかった。
ただ、初夏の光だけが、彼の白い髪を透かして、いつまでも燦々と輝き続けていた。
(完)




