第八章 放浪と再開
奇跡のような偶然が重なった。体調が回復し退院した君沢良子が、姉妹都市の交流事業で福岡を訪れており、たまたま同じ公園を散策していたのだ。
佇む男の背中に見覚えを感じ、彼女は声をかけた。
「翔ちゃん……翔ちゃんじゃないの!」
振り向いた男の顔を見て、彼女は確信した。
「翔ちゃん、なぜここに? 誰かと一緒なの?」
指宿は何事か呟いたが、彼女には聞き取れなかった。彼は、再び出会った同級生のことさえ忘れているようだった。
君沢はすぐさま、長峰清子へ電話を入れた。
「もしもし、長峰さん? 指宿さんが私の目の前にいるわ。福岡よ!」
「えっ、福岡に……!? すぐに向かいます、先生、彼をお願いします!」
君沢が電話を切り、指宿の方を振り返った時——。
そこに、男の姿はなかった。
ほんの一瞬目を離した隙に、指宿翔太は陽炎のように消えてしまった。付近を隈なく探したが、どこにも姿はない。
その後、福岡県警をはじめ九州全域に協力が要請された。
並行して、長峰清子は東京・大田区にある「光友商事」の応接室にいた。対応したのは、室長の高本森定である。
「指宿さんのことは、はっきりと覚えています。忘れられるはずがありません」
高本は懐かしむように、かつての恩師について語った。
「私が新人として配属されたとき、何も分からない私を優しく、厳しく指導してくれたのが指宿さんでした。もう十年以上前になりますが、定年退職される際、いつかまたお会いしましょうと約束していたんです」
「……そうですか。指宿さんは、過去の記憶のすべてを失っておられます」
「そんな……。これが指宿さんの履歴書と、退職時のデータです。お役に立てば」
履歴書の写真は、紛れもなく指宿翔太の若き日の姿だった。
清子は履歴書のコピーを受け取り、光友商事を後にした。
向かう先は、指宿翔太が人生の大半を過ごしたはずの、東京の自宅住所である。
指宿翔太の自宅は、閑静な住宅街の一角にあった。こぢんまりとしてはいるが、手入れの行き届いた佇まいだ。表札には間違いなく「指宿」と記されている。玄関の郵便受けには、主の不在を物語るように郵便物が溢れ返っていた。
施設の担当者・長峰清子は玄関ベルを押してみたが、応答はない。そこには、うっすらと色褪せた生活の残骸が漂っていた。彼女は近隣の役所へ向かい、指宿の今後の生活保護や介護手続きについて確認を進めることにした。
その頃、指宿翔太は福岡市中央区の西公園にいた。
博多の東平尾公園からどうやって移動したのかは定かではないが、かつての日課であった「公園巡り」の習慣を、彼の身体が覚えていたのかもしれない。桜の名所として名高いこの公園で、指宿は隣のベンチに座る初老の男性と、穏やかに笑みを交わしていた。
「ほう、あんたはどこに住んでいるんだい」
指宿は少しやつれた顔に笑みを浮かべ、光雲神社の方を指さした。着ている服は薄汚れ、放浪の影が差している。
「……神社の裏に、住んでいます」
「神社? 神主さんか何かかい?」
「神社の裏です。野宿をしています」
「毎日散歩しているが、あんたは見かけないなぁ」
「昨日からです。その前は……富士山にいました」
「富士山? あの富士山かい?」
「冬の富士山は、とても綺麗ですよ。あっはは!」
「へぇ、富士山か。登ったことはないなぁ」
「僕もです。はい……」
「あんた、名前は?」
「……犬」
「いぬ? いぬって、あの犬かい?」
「そう、犬です」
「ははは! あんた面白いねぇ」
傍から見れば会話になっていないが、二人の間には不思議な充足感が漂っていた。相手の男性も、指宿をいたく気に入ったようで、食事に誘った。
「飯はどうしてるんだい。一人もんなら、うちへ来るか? 富士山」
「遠慮しておきます」
「じゃあ、近くで買い出しをして、あそこのテーブルで食おう。今日は俺が奢るよ」
誘われるまま、公園の一角にある屋根付きの休憩所へ向かった。
「富士山、酒は飲めるか? 一杯だけ付き合えよ」
勧められたおかずは豪華だった。刺身、乾き物、多種多様な惣菜。特に唐揚げとアジフライが、なぜかたまらなく美味しそうに見えた。
注がれた酒が胸に染み入り、身体がじんわりと熱を帯びる。寒ささえ気にならなくなるほどの親近感を感じ、指宿は尋ねた。
「お名前は、何とおっしゃるのですか?」
「名前? そうだな、俺は『阿蘇山』だ。阿蘇山だよ」
「あっ、そーですか。あっははは!」
「ははは! 一本取られたな。もう一杯いこう」
時の流れが早く感じられた。気づけば辺りは真っ暗だったが、何も気にする必要はなかった。今は今、この時間はこれだけで良いのだ。
「お幾つなんですか?」
「俺は六十八だ。生涯独身。富士山は?」
「私は……六十」
「参ったな。俺より年上に見えたよ。これは失礼!」
深い眠りの中、激しい光と手足の冷たさを感じた。遠くで誰かが呼んでいるが、何を言っているのか分からない。
瞼を開けると、朝が来ていた。
ベンチから起き上がると、上半身に見覚えのない分厚いジャンパーが掛けられていた。誰が掛けてくれたのか、思い出せない。少し頭痛がしたが、空腹感はなかった。私は陽の当たる場所を探して移動し、冷え切った身体を温めた。
陽光の心地よさに、再び熟睡してしまったらしい。
「富士山、昨夜は寒くなかったか? 俺のジャンパー、そのままやるよ」
聞き覚えのある声。昨日の男が笑いながら立っていた。
「これ、あなたが……?」
「久しぶりの酒はどうだった? 昨夜は楽しかったなぁ」
「失礼ですが、あなたは……どなたですか?」
「おい、冗談だろ?」
「…………」
「富士山、本当に覚えてないのか? 俺だよ、阿蘇山だよ!」
「申し訳ありません……」
自称「阿蘇山」は、指宿が記憶を失っていることを察したようだった。彼は指宿を駅の方へ誘い出した。警察に保護させるためだ。
大濠公園駅前の交番に立ち寄り事情を説明した結果、「富士山」は鹿児島から捜索願が出ていた指宿翔太であると判明した。阿蘇山のおかげで、指宿は無事に「夕陽の杜」へと連れ戻されることになった。
その日の夕方、施設に戻った指宿を長峰清子が涙ながらに迎えた。指宿は無表情のままだったが、彼女は何も言わずに彼を優しく抱擁した。
南国の九州といえど、真冬の早朝は霜が降りる。
指宿翔太を神奈川の自宅へ戻す日が来た。指宿枕崎線の山川駅のホーム。海からの東風が肌を刺す。指宿は相変わらず無表情だったが、その目元には長峰清子にさえ理解できない微かな笑みが浮かんでいるように見えた。
鹿児島中央駅から新幹線に乗り、東京を目指す。新横浜駅に着いたのは午後だった。そこから電車を乗り継ぎ、地元の保健福祉事務所へ。閉庁間際、清子はかつて対応した職員に指宿の身柄を引き渡した。
指宿翔太は、その夜を仮の施設で過ごした。
(私を連れてきた人は、自宅に戻れると言っていたが、明日はどこへ行くのだろう。自分は誰で、どこに住んでいたのか。お金もない。……いや、明日は明日の風が吹く。気にすることはない。とにかく、疲れた……)
翌朝、見知らぬ女性に起こされた。
「指宿さん、朝ですよ。今日はあなたのお家に帰るんですから」
朝食を済ませ、車で「自宅」へと運ばれた。
「お財布を預かっています。中には現金と、家の鍵が入っています。これで開けてください。週に三回、ヘルパーさんが来ますから、月水金は家にいてくださいね。……では、私はこれで」
女性は一方的に言い残し、去っていった。
私は門の前で立ち尽くし、表札を見上げた。「指宿」と書いてある。
渡された鍵で恐るおそるドアを開けると、部屋の中にはひんやりとした静寂が漂っていた。
玄関の右手にはベッド、左手にはダイニングキッチン。その奥が居間だ。荒れ果てた庭が窓越しに見える。
居間を一巡すると、タンスの上に仏壇があった。そこに見知らぬ女性の遺影と、一匹の犬の写真が並んでいた。
(この人たちは、私とどんな関係なんだ……?)
犬の写真を手に取ると、裏に「マリン」と書かれていた。女性の遺影の裏には「洋子」という名がある。
それを見た瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。心臓の鼓動に合わせて、脳を針で刺されるような刺激。思い出そうとするほど、痛みは増していく。
……真っ白な世界で、何も見えない。
どこからか、犬の鳴き声が聞こえる。
どこだ? どこにいるんだ?
体は動かず、声も出ない。すぐそこにいるはずなのに——。
目が覚めた。窓からの陽光が顔を照らしている。頬を触ると氷のように冷たかった。
布団から出たくなかったが、無意識に体が起き上がる。その虚しさが身に染みた。
座椅子に座り、ただ荒れた庭を眺める。
改めて室内を見渡すと、質素ながらも綺麗に整えられていた。台所の冷蔵庫には、腐りかけたバナナとインスタントスープだけが入っている。テーブルの上には、薬のケースと、見たこともない「携帯電話」という機械が置かれていた。
意味もなく室内を徘徊していると、玄関のベルが鳴った。
訪ねてきたのは、ホームヘルパーの女性だった。
「いいですか、指宿さん。あちこちにメモを貼っておきますから、毎日必ず読んでくださいね」
彼女は事務的に説明し、念を押すようにして去っていった。
また一人、静寂の中に取り残された。
家を出る際、玄関の内側に貼られた大きなメモが目に留まった。「鍵、カードケース、携帯電話を忘れないこと」とある。私は指示に従い、それらをポケットに押し込んで外へ出た。




