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第七章 県議会議長 君沢良子

目が覚めた。窓からは穏やかな日差しが差し込んでいる。

以前も同じ夢を見た。自由に空を飛ぶ爽快感と、奈落へ落ちる恐怖。非現実的な空想の世界で、二つの自分が交差する不思議な夢だった。

眩しさを避けて寝返りを打つと、再び微睡まどろみが襲ってきた。次に目を開けた時、すでに日差しは消え、部屋の中はしん冷えとしていた。

私は起き上がり、居間の座椅子でしばらく庭を眺めた。それから無意識に、歩き慣れた道へと体が動き出した。

気づけば、公園のベンチに座っていた。風もなく、陽光が肌を優しく温めている。

離れたベンチでは、親子が楽しそうに食事をしていた。親が差し出す食べ物を、子供が笑顔で受け取っている。その光景を眺めていると、私の腹時計も正午を告げた。

私も何か食べなくては。

帰り道、スーパーで唐揚げ弁当を手に取った。レジへ向かうと、店員が声をかけてきた。

「今日はお弁当ですね」

「……」

店員が何を言っているのか、理解できなかった。弁当を買うのが、そんなに珍しいことだろうか。

(きっと、誰かと間違えているのだろう)

そう結論づけ、私は公園のテーブル席へと戻った。

陽の光を浴びながら食べる弁当は、格別に美味しかった。売店で買った缶ビールを飲み、唐揚げを摘まむ。至福の時間だった。

満腹感とアルコールのせいで、心地よい眠気が襲う。

……子供の頃、母の実家の近くで川遊びをした。

夏の暑い日、川に潜ると水は驚くほど冷たく、透き通っていた。川底にはタニシや小魚が泳ぎ、私は夢中でそれを追いかけた。どれだけ泳いでも岸に辿り着かないが、自分も魚になったような気がして、ただただ楽しかった。

そんな時、大きな魚が私に話しかけてきた。

「もっと広いところへ連れて行ってあげるよ」

大きな魚は泳ぎが早く、私は必死に後を追った。待って、そんなに早く行かないで——。

「お客さん、お客さん……」

遠くで私を呼ぶ声がする。体が揺さぶられ、目を開けると、見知らぬ男が立っていた。

「お客さん、終点ですよ」

男は駅員だった。私は慌てて辺りを見回した。

「ここは……?」

「博多です。どちらまで行かれるんですか?」

「…………」

言葉に詰まった。駅員が「切符を拝見します」と言うので、ポケットを探り、握りしめていた切符を差し出した。

「鹿児島行きにお乗り換えですね。隣のホームです。ご案内しますよ」

私は駅員に導かれるまま、九州新幹線の車内へと案内された。

「あと三分で出発します。終点で降りてくださいね」

駅員に会釈をし、私は再び瞼を閉じた。

なぜ、鹿児島へ向かっているのだろう。そこには何があるのだろう。

思考は霧の向こうに隠れ、ただ列車の揺れがゆりかごのように私を運んでいった。

……夜の公園は、昼間とは一変して、凍てつくような静寂に包まれていた。

外灯に照らされたベンチの横で、私は立ち尽くしていた。吐く息が白く霧のように広がる。

遠くから自転車の音が聞こえ、私の前で止まった。

「ここで何をしているんですか?」

警察官だった。

「いや……」

「ご自宅はどちらですか?」

「川を……」

「川? 川がどうしたんですか」

「川を見に来たんです。小魚がいる、あの川を……」

「このあたりに川はありませんよ。何か、身分を証明できるものは?」

私は財布を取り出した。中には現金と鍵しか入っていない。

「お名前は?」

「……」

「ご住所は?」

「……分かりません」

「とりあえず、署へ行きましょう。ここでは風邪を引いてしまう」

パトカーに乗せられ、連れて行かれたのは、警察署の一角にある狭い取調室だった。

二人の警察官と、暖かいお茶を運んでくれた女性。皆、困惑と憐れみの混じったような笑みを浮かべていた。

「カード入れにお名前や住所が入っているはずなんですが、忘れてきたようで……」

「お名前は、本当に思い出せませんか?」

「分かりません……」

「どこから来たんですか?」

「電車で、公園から……。噴水があって、富士山が見える公園です」

「富士山? ……静岡の方ですか?」

私は答えられなかった。

その夜は署内の仮眠室で一夜を明かすことになった。布団の中で、天井を見つめながら考える。

たしか、子供の頃に遊んだ川を探しに来たはずだった。それなのに、なぜ私は警察に保護されているのか。考えれば考えるほど、現実と幻想が混じり合い、足元が崩れていくような感覚に陥った。

明日には、家に帰ろう。そう決めて、私は眠りについた。

翌朝、制服を着た男に起こされた。

「おはようございます。起きてください」

案内された部屋には、昨夜とは違う二人の警察官が待っていた。

「昨夜はよく眠れましたか?」

「……ここは、どこですか?」

「ここは、西南鹿児島警察署です」

「鹿児島……」

「お名前は? 住所は?」

私は首を振ることしかできなかった。

「身元を調べましたが、捜索願も出ていません。身分証もお持ちでないので、とりあえず保護施設に入っていただくことになりますが、よろしいですか?」

「家に帰りたいんです。噴水のある公園の近くなんです」

「それだけでは、こちらでは調べようがありません。施設でゆっくり思い出してください」

その日の午後は、怒涛のように過ぎ去った。

施設の職員だという男の車に乗せられ、長い道のりを走った。車窓の左手には、切れ目のない海が続いている。水平線の先に浮かぶ山。どこかで見た記憶がある。

「あれは、桜島ですよ」

隣の男が言った。

「桜島……」

その響きは、遠い、遠い記憶の底を微かに震わせたが、実像を結ぶには至らなかった。

辿り着いたのは、海を見下ろす山の中腹にある建物だった。

そこでも同じ質問を繰り返されたが、やはり何も答えられなかった。

身元が判明するまで、ここで保護する——。

抗う術もなく、私はそれを受け入れた。

自分自身が何者であるかも分からぬまま、私の新しい、そして「最後」の生活が、音もなく始まった。

施設での生活が一ヶ月ほど過ぎた頃、担当者から仕事の斡旋を受けた。一度はお断りしたが、退屈な日々を過ごすよりは気晴らしになるだろうと、引き受けることにした。

仕事は近くの病院の清掃だ。先輩職員の丁寧な指導のおかげで、不慣れな私でもすぐに独り立ちすることができた。

ある日、病棟の個室を清掃していると、入院患者の女性に声をかけられた。

「ご苦労様です。初めてお見かけする顔ですね」

私と同じくらいの年齢だろうか。凛とした知性を感じさせる初老の女性だった。その優しい眼差しが、私の動きを追っている。

「はじめまして……」

「お名前は、何とおっしゃるの?」

私は少し躊躇した。施設では「平沢」と呼ばれていたはずだ。

「……平沢、です」

「そう、平沢さん。よろしくお願いしますね」

彼女は私の掃除する手元をじっと見つめていた。視線が照れくさく、早く作業を終えて部屋を出たかった。その時、彼女が唐突に言った。

「平沢さんとおっしゃったけれど……指宿いぶすきさんではないかしら? ええ、間違いないわ」

「いぶすき……?」

「指宿さん、養子に行かれたの?」

「……何の事か、分かりません」

動揺が走り、軽い頭痛がした。なぜこの人は私を「いぶすき」と呼ぶのか。

「そうよ、間違いない。あなたは指宿さん……翔太、翔ちゃんでしょう! 東京で仕事をしていると聞いていたけれど、戻っていらしたの?」

混乱した。この人は私を知っているのか、それとも人違いなのか。

「翔ちゃん、今どこに住んでいるの?」

「あなたは……どなたですか?」

「あら、ごめんなさい……忘れてしまったの? 同級生の君沢良子よ。良子……」

「申し訳ありません……分かりません」

「東京からお手紙をくださったでしょう? 会社に入って頑張っているって。何十年も前、あなたがまだ独身だった頃の話よ」

彼女は、私が送ったという手紙を持っているという。同級生だという。考えれば考えるほど、激しい鼓動とともに頭痛が襲ってきた。私は逃げるように部屋を飛び出し、通路のベンチで荒い息を整えた。

一週間後。施設の担当者・長峰清子は、鹿児島厚生病院を訪れていた。

個室に入院中の君沢良子から、「なぜ指宿翔太が施設にいるのか」という問い合わせの電話が入ったためだ。

君沢良子は地元の名家出身で、現在は県議会議長を務める有名人だった。社会福祉に尽力している彼女の名を清子も知っていたが、面会するのは初めてだった。

「お忙しいところ、わざわざお越しいただいて申し訳ありません」

「いえ、先生とお会いできるなんて光栄です」

挨拶もそこそこに、清子は本題に入った。

「先生が仰る『指宿翔太』という人物が、私どもの施設にいる『平沢』……いえ、本名が不明のため便宜上つけた名前なのですが、彼と同一人物であるという根拠をお聞かせいただけますか?」

「ええ。今日、昔の写真と当時文通していた手紙を持ってきました。見てくださる?」

清子は、高校時代のクラス写真と数通の手紙を受け取った。写真に写る若者は、間違いなく「平沢」の面影を残していた。手紙の末尾には、東京の住所と就職先の社名が記されている。

「間違いないわ。あの人は指宿翔太、翔ちゃんよ。なぜ彼が施設に?」

「彼は一ヶ月ほど前、西鹿児島駅近くの公園で保護されました。名前も住所も思い出せず、身分証も持っていなかったため、こちらで保護するに至ったのです。警察の捜索願リストにも該当がありませんでした」

「……そうでしたか。翔ちゃんが記憶を……」

清子は後日、手紙に記されていた指宿の実家跡を訪ねた。驚くことに、施設から車で十分もかからない場所だった。

そこには築数十年は経とうかという茅葺屋根の古民家があった。私道の先で犬が吠え、家主である若い女性が出てきた。

「指宿翔太さんという方を探しているのですが」

「いえ、存じ上げません。私は五年前、大阪から移住してきたものですから」

不動産屋を当たってみると、数十年前、当時の家主だった「指宿」が家を売り払い、その後の消息は不明だという。

地元に地縁は残っていなかった。清子は次なる手がかり、東京の「光友商事」へ連絡を入れた。

会社は現存していた。電話で事情を説明すると、指宿翔太が定年まで勤め上げた事実が判明した。さらに、会社が把握していた現住所と、家族はいるものの現在は東京で独り暮らしであることも分かった。

清子たちが東京への確認作業を進めていた頃、施設では騒ぎが起きていた。

「平沢」が、病院の仕事が終わる時間になっても帰ってこないのだ。定時を過ぎることなど一度もなかった男の失踪に、施設は騒然となった。

翌朝になっても、足取りは掴めないままだった。

その頃、指宿翔太は、福岡の東平尾公園——通称「博多の森」にいた。

福岡空港の離発着が見える展望台付近で、彼はひっそりと空を眺めていた。

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