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第六章 記憶の蹉跌

翌朝。頬に触れる空気は一段と冷たく、吐く息が天井まで白く舞った。

空腹には勝てず、台所で朝食の支度を始めるが、あるはずのスープが見当たらない。バナナはあるが、まずは体を温めたかった。家中を探したが見つからず、結局スーパーへ買いに行くことにした。

途中で財布を確認すると、現金が心もとなかった。私は予定を変え、銀行へ向かった。年金支給日に全額下ろしたはずなのに、どうやら使い果たしてしまったらしい。

幸い、銀行のATMコーナーには誰もいなかった。カードを入れ、画面の指示に従う。だが、暗証番号を入力しても「番号が違います」と表示される。何度か試しているうちに、今度はカード自体が戻ってこなくなった。

不安に駆られ、行員を呼んで事情を話した。行員立ち会いのもと操作したが、やはり番号が通らない。「連続して間違えたため、カードは一時的に無効になりました」と告げられた。

「他に思い当たる番号はございませんか?」

「いつもの番号のはずなのですが……」

「今日は通帳とお印鑑はお持ちですか?」

「……家にあります」

「では、それらを持って改めてお越しください」

私は落胆して銀行を出た。自分が長年使ってきた番号が、なぜ違うのか。

木枯らしが吹き付ける中、一文無しになった自分に言いようのない寂しさを感じた。重い足取りで歩くうちに、いつの間にか公園の噴水前にいた。

「いぶさん、久しぶり。今日はこっちかい? ここは風が強くて寒いだろう、向こうへ行かないか」

どこかで見た顔だが、名前が出てこない。私は軽く会釈をした。

「いぶさん……徳井だよ、覚えているだろう?」

「徳井……さん……」

「そう、徳井だ。よろしくな」

徳井さんは私を「いぶさん」と呼ぶ。私はやはり、いぶさんなのだろうか。ぼんやりと噴水を眺めていると、別の男がやってきた。

「おっ、集まってるねぇ」

「やっさん、遅いじゃないか」

徳井さんが男に声をかけた。この男も見覚えがあるが、やはり思い出せない。二人は時折、私を見ながら何やら話し込んでいる。

「いぶさん、新しい携帯には慣れたかい?」

やっさんが話しかけてきた。

「携帯……?」

「今日は持ってきてないのか?」

ポケットをまさぐったが、何も入っていない。そもそも、私は携帯など持っていたか。

「……持っていません」

「ああ、そうだったな。いぶさんは携帯、持ってなかったよな」

やっさんは徳井さんと顔を見合わせ、また密談を始めた。まるでおかしな者を見るような目に、居心地が悪くなる。

腹が減った。二人に別れを告げ、スーパーへ寄る。だがレジに並んでいる最中に財布を確認して、愕然とした。金がないのだ。

慌てて商品を棚に戻し、店を出た。銀行へ行かねばならない。

「なんて日だ。前もっておろしておけばよかった」

独り言を吐きながら歩くが、次第に様子がおかしくなった。銀行の場所が分からないのだ。この辺りにあったはずなのに、見当たらない。

道行く人に尋ねると、方向が逆だという。

ようやく辿り着いた銀行でカードを差し込んだが、やはり「無効」で戻ってくる。途方に暮れていると、行員が声をかけてくれた。

「朝、お見えになった方ですね。窓口へどうぞ」

私は首をかしげた。朝もここへ来たというのか。

「通帳とお印鑑はお持ちですか?」

「……今日、銀行へ来るのは初めてですが」

「いえ、朝もお見えになっています。番号をお忘れのようでしたので、通帳をお持ちいただくようご案内したはずです」

「…………もう一度、試してみます」

「申し訳ありませんが、カードはすでに使えません。お引き出しには、通帳、印鑑、ご本人様確認書類が必要です」

私は狼狽した。昼飯も食べられない。家に戻り、またここへ来る気力があるだろうか。なぜこんなに不親切なのだ。

家へ戻り、必死に通帳と印鑑を探した。結局、それは仏壇の引き出しの中から見つかった。

再び窓口へ行き、書類を渡される。氏名、住所、生年月日。

ペンを握ったが、手が止まった。思い出せない。自分の名前が、住所が、どうしても分からないのだ。

「どうされました? 何かご不明な点でも」

行員が覗き込んできた。

「……名前が」

「お名前が、どうしました?」

「名前が……思い出せなくて」

「…………」

「…………」

「何か、身分を証明できるものはお持ちですか?」

私は財布から運転免許証と保険証を差し出した。行員はそれを見て、「ここに記載されている通りに書いてください」と優しく言った。暗証番号も新しく決めるよう言われたが、数字が思い浮かばない。

「一二三四とか、誕生日は避けてくださいね」

私はしばらく固まっていた。行員は察したように、「とりあえず、今日お使いになる分だけお引き出しの手続きをしましょう」と進めてくれた。

やっと手にした現金を持ち、駅前の食堂へ入った。初めての店だ。

「中華丼」を注文した。温かいご飯が、冷え切った体に染み渡る。

店を出ると、空から薄らとみぞれが降り始めていた。冷えないうちに帰ろうと道を急いだが、しばらくして、見たこともない街並みが目の前に広がった。

道に迷ったのだ。

電柱の住所表示を見ても、聞いたこともない地名ばかり。歩いても、歩いても、家に着かない。私は完全に、自分がどこにいるのか分からなくなった。

通りすがりの人に、いつも使っているスーパーの名前を出して道を尋ねた。教えられた通りに歩いたはずだが、すぐに順路を忘れてしまった。

私は立ち止まり、呆然とした。

霙は雨に変わり、体温を容赦なく奪っていく。寒さに震えながら、小さな公園のベンチに腰を下ろした。

辺りはいつの間にか暗くなっていた。

「どうしました?」

不意に声をかけられ、弾かれたように振り向いた。

そこには、一人の警察官が立っていた。

「どうかされましたか?」

警察官の声に、私は弾かれたように顔を上げた。

「家に……」

「家? 家がどうしたんですか?」

「帰りたいのですが……道が、分からなくて」

「身分証か何か持っていますか?」

震える手で財布を探り、運転免許証を差し出した。警察官はそれを見て、私を先導してくれた。辿り着いた先は、紛れもなく私の家だった。

「ここで間違いありませんか。ご家族は?」

「……一人です」

警察官は安堵したような笑顔を見せ、去っていった。

我が家に戻った安堵感と、寒さで衰弱した身体。私は逃げ込むように風呂を沸かした。湯船に浸かると、何もかもを忘れることができた。夕食を摂る気力もなく、そのままベッドに倒れ込み、泥のように眠った。

また、夢を見た。

真っ青な空を、もうどのくらい飛んでいるだろうか。腕を大きく広げ、大海原から陸地へと滑空していく。緩やかな山を超えると、景色は急に断崖絶壁へと変わり、私はそこを吸い込まれるように下降していく。

(墜落する、上昇しなくては!)

必死に羽ばたくが、腕が鉛のように重い。高度は下がり続け、眼下の岩肌が迫ってくる——。

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