第五章 記憶とアジフライ
それでも窓からの柔らかな光は、何も変わらない朝を連れてくる。
ロボットのようにスープとバナナを済ませ、座椅子で庭を眺め、無意識に公園へ向かう。
道すがら、犬を連れた散歩仲間に会釈される。そのたびに、昔の記憶がかすかに疼くような気がした。
ベンチに座り、離れた場所にいるやっさんに会釈したが、それ以上の会話はなかった。他のメンバーもいない。手持ち無沙汰になり、やっさんの真似をしてスマホを取り出そうとしたが、どのポケットを探しても見当たらなかった。
講習まで受けたのに、肝心の本体を忘れてきたのだ。
やっさんが器用に画面を操る姿を眺めながら、ふと思った。
(私には、前の携帯で十分だったのではないか。こんな高価な道具は、宝の持ち腐れではないのか……)
一人、そんな考えに沈んでいるうちに、いつの間にかやっさんの姿も消えていた。
結局、誰も来ない。私はただ意味もなく座り、時が過ぎるのを待った。
家に戻り、ふと時計を見ると正午前だった。
私の腹時計は狂っていない。さて昼飯を、と思った瞬間、スーパーへ寄るのを忘れていたことに気づいた。いつも帰り道に献立を考えているはずなのに、今日に限って頭から抜け落ちていた。
慌てて家を出て、惣菜売り場へ向かう。唐揚げとカット野菜を手にレジへ行くと、顔なじみの店員が声をかけてきた。
「今日は遅いですね。もうお昼過ぎですよ」
「買い物、忘れちゃってね」
「唐揚げ、連チャンですね」
「えっ?」
「昨日も唐揚げでしたよ」
「……いや、ここのは美味しいからね」
咄嗟に答えたが、昨日の食事の記憶が全くない。
「今日はメンチの日だと思っていたから……」と店員が笑う。
「気が変わったんですよ」
私は少し躊躇して答えた。なぜ彼女が「メンチの日」などと言ったのか理解できなかったからだ。店員は続けた。
「いつも、メンチ、コロッケ、アジフライ、唐揚げの順番で買われるでしょう? だから今日はメンチかなって」
彼女の説明によれば、私は固定のメニューをローテーションしており、昨日は唐揚げだったから今日はメンチの番だという。
だが、私はそんな順番を決めた覚えはない。今日はたまたま唐揚げを選んだだけだ。
(この店員は、誰かと間違えているのだろう……)
私はそう結論づけた。
季節は移ろい、容赦ない日差しが降り注いだ夏が終わりを告げた。冬の気配が忍び寄る今日、私は「秋のベンチ」に座っていた。澄んだ青空と、初冠雪をいただいた富士の調和を眺めていた時のことだ。
「よっ! いぶさん、今日はここかい?」
隣に座ってきた老人が、親しげに笑いかけてきた。
「久しぶりだなぁ。調子が悪くて、なかなか来られなかったよ」
老人は屈託のない笑みを浮かべている。だが、私はこの男を知らない。
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「えっ! 冗談だろ、悪ふざけはやめてくれよ」
「…………」
「徳井だよ、徳井」
思い出せなかった。だが、相手が私の名を知っており、自ら「徳井」と名乗る以上、面識があるのだろう。埒があかないので、私は思い出したふりをして話を合わせた。
「冗談ですよ。お久しぶりですね」
「ああ、この年になるとあちこち壊れていくよ。あんたも、ワンちゃんが亡くなって寂しいだろう」
「…………」
何を言っているのだ、この男は。私は犬など飼ったことがない。やはり、人違いをしているのだ。
「どうした?」
「……いえ。少し、昔のことを思い出しまして」
「可愛がっていたもんなぁ。死んでから、もうどのくらいになる?」
「…………」
「……そうか。この話はやめよう」
徳井さんは話を切り上げた。私は内心、ほっと胸を撫で下ろした。嘘が露呈するのではないかと、気が気ではなかったのだ。
その後、他愛のない雑談を交わして「徳井」と名乗る男は去っていった。
一人になり、今の会話を反芻してみる。
私の名前を知り、犬を飼っていたと言い、その死を悼む。そこまで詳細な勘違いを、赤の他人がするものだろうか。
(やはり、あの人は誰かと私を間違えているのだ。私はあんな人を知らない)
狐につままれたような虚無感が広がる。視線を遠くへ向けると、富士の頂がいつの間にか雲に隠れていた。その光景に、得体の知れない虚しさを感じて私は席を立った。
帰り道、スーパーで夕食の買い物をした。ミックス野菜と唐揚げ。
レジで支払いという段階になって、ポケットにあるはずの財布がないことに気づいた。
後ろには客が並んでいる。焦って順番を譲ろうとすると、店員が気を利かせてくれた。
「いつも来ていただいていますから、代金は後で結構ですよ」
「すみません……すぐに持ってきます」
恥ずかしさに顔を伏せ、私は店を飛び出した。
家に戻り、惣菜をテーブルに置く。居間へ戻り、家中を必死に探した。
ふと、仏壇が目に入った。
吸い寄せられるように近づくと、小さな犬の写真の前に、私の財布がちょこんと置かれていた。
その犬の写真を見て、何か、胸の奥がざわついた。
だが私はすぐに財布をひっ掴み、スーパーへと引き返した。
慌ただしく、落ち着かない一日だった。
冬になると、我が家の室温は外気温とさほど変わらなくなる。特に早朝は、室内でも吐く息が白く凍る。
ある朝、ベッドに横たわる私の顔に日差しが当たったが、眩しさは感じなかった。雲が厚いのだろう、今日は厳しい寒さになりそうだと目を閉じたまま思った。布団の中は暖かいが、外に出ている顔だけが冷たい。私はいつまでも起き上がりたくなかった。
空を飛んでいる夢を見た。
どこかの街の上空を、羽ばたきながら進んでいく。とても気分が良い。街を外れ、切り立った山々を抜けると、不意に深い崖が現れた。吸い込まれるような深淵。私はそこへ向かって、緩やかに落下し始めた。必死に上昇しようとするが、羽ばたく腕が鉛のように重い。
(激突する!)
跳ね起きると、そこはいつもの寝室だった。二度寝をしていたらしい。窓際の日差しはすでに消え、かなりの時間が過ぎたようだった。
重い足取りで居間へ向かい、座椅子に座ってテレビを点ける。しばらくして空腹を覚え冷蔵庫を開けたが、中は空っぽだった。私は食べ物を求め、スーパーへ向かうことにした。
一歩外へ出ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。どんよりとした雲が陽光を遮り、木枯らしが体温を奪っていく。道行く人々も、肩をすくめて小走りに通り過ぎていった。
気づけば、私は公園のベンチに座っていた。手元には、スーパーで買ったアジフライの袋がある。
「いぶさん、今日は珍しく遅いじゃないか」
端に座っていた老人が声をかけてきた。誰だろうと考えたが、どうしても思い出せない。黙り込んでいると、男は私の手元を見て続けた。
「なんだい、その袋。いつもは持ち歩いていないじゃないか」
友人のように親しげに話しかけてくるこの男は、一体誰なのだ。それに「いぶさん」とは誰のことだ。私はとりあえず応えた。
「さっきスーパーで買ってきたアジフライです。食べますか?」
「いや、要らんよ。それ、あんたの昼飯だろう」
いぶさん……。そういえば、私の名前は……。
「いぶさん、って誰ですか?」
「えっ? ふざけてないで、早く帰って飯にしろよ。アジフライが冷めちまうぞ」
「あなたは、どなたですか?」
私が真面目に問い返すと、老人は怪訝そうな、どこか私が悪いことでもしているかのような顔で私を凝視した。
「いぶさん、俺だよ、やっさだよ。忘れたのか?」
「…………」
「隣にいるのは徳井さんだ。知ってるだろう?」
「『いぶ』というのは、私の名前ですか……?」
「そうだよ。苗字しか知らんが、鹿児島の指宿だって自分で言ったじゃないか」
「やっさん」と「徳井」と名乗る二人が、顔を見合わせて何やら囁き合っている。
ただ公園に来ただけなのに、知らない人からあれこれ言われ、戸惑いと恐怖がこみ上げてきた。居たたまれなくなり、私はその場を後にした。
いつもの道を通り、日課のスーパーへ入る。昼の食材を選ぼうとアジフライを手にレジへ行くと、店員が声をかけてきた。
「お代わりですね。アジフライ、美味しいですもんね」
店員が何を言っているのか分からず、私は曖昧に笑って店を出た。
家に戻り、食事の準備をしようと炊飯器を開けると、中には米一粒入っていなかった。朝、米を炊くのを忘れていたらしい。そのうえ、カット野菜を買うのも忘れ、手元にはアジフライの袋が二つあった。
その日は、ひどく遅く、寂しい昼食となった。




