第四章 携帯電話とメンチコロッケ
翌朝、窓越しの陽光で目を覚ます。
日課のスープとバナナを済ませ、いざ公園へ。「出陣」と言わんばかりの意気込みで玄関へ向かったが、スマホを忘れたことに気づいて引き返した。
部屋中を探し回り、ようやくベッドの上で見つけた時、私は苦笑した。昨夜、いじりながら寝落ちしたのを忘れていたのだ。
スタジアム前の「いつもの席」に座り、皆にスマホを披露するタイミングを窺った。
だが、やっさんは徳井さんと熱心に話し込み、隣の吉田さんは目を閉じ、山田さんは球場をぼんやり眺めている。入り込む隙がない。やっさんは一番離れた席に座っており、声をかけるのも躊躇われた。
そうこうしているうちに、誰かが自治体の話を始めれば、別の誰かが病院の話で割り込む。結局、タイミングを逸したまま一人、また一人と帰っていき、最後は私だけが残された。
一人になり、私はポケットから新しいスマホを取り出した。
もともとは、部品工場に勤めていた頃、社用で必要だと言われて持たされたのが携帯との付き合いの始まりだった。定年後も解約せずにいたが、掛かってくることも、掛ける相手もいない。
(このスマホも、結局は負の遺産になるのではないか……)
一瞬、そんな考えがよぎった。
適当に画面を押してみるが、案の定、元の画面に戻れなくなった。私は早々に諦め、明日こそやっさんに教わろうと公園を後にした。
帰りがけ、スーパーのレジで馴染みの店員に声をかけられた。
「メンチコロッケ、お口に合いましたか?」
「えっ!?」
「昨日も買っていかれましたよね」
「……昨日は、唐揚げですよ」
「いえ、メンチでしたよ」
はっとした。たしかに昨日はメンチだった。自分の決めたローテーションなら、今日はコロッケのはずだ。だが、カゴの中にはメンチが入っている。
後ろには客が並んでいる。今さら交換するのは面倒だ。
「たまには、パターンを変えてみようと思ってね……」
苦しい言い訳をして、逃げるように精算を済ませた。
家に戻り、昼飯を食べながら考え込んだ。
これまで一週間の献立を間違えることなど一度もなかった。昨日メンチを食べたのに、唐揚げだと思い込んでいた自分に寒気がした。
(スマホのせいだ……)
昨夜からずっと振り回されていたから、注意力が散漫になっているのだ。そう結論づけて納得しようとした、その時。
ポケットにあるはずのスマホがないことに気づいた。
家中をくまなく探したが、どこにもない。
(あのベンチだ……)
座っていた時に置き忘れたのだ。私は食事を放り出し、一目散に公園へ引き返した。
ベンチにスマホはなかった。一時間以上も経っていれば、誰かが持ち去ってもおかしくない。
一縷の望みをかけて、近くの警察署へ向かった。
遺失物窓口で書類を書き終えると、女性係官が確認事項を述べてきた。
「特徴の合致するものが届けられています。確認のため、ご自身の電話番号を仰ってください」
「番号……ええと、090……」
言葉が詰まった。
「どうされました?」
「……すみません、思い出せなくて」
「では、ご自身で設定画面を開いていただけますか? 身分証の情報と照らし合わせますので」
「……設定は、どれですか?」
結局、私は操作すらできず、係官にすべてやってもらった。
スマホは無事に戻ってきた。だが、胸の中には苦い味が広がっていた。
もともと電話を掛ける相手もいないのに、勢いで買った高価な玩具。
それでも、私は後悔しないと言い聞かせた。やっさんが言った「様々な情報」さえ手に入れられれば、また公園仲間の輪に戻れるはずなのだから。
翌朝、いつもより一時間ほど早く目が覚めた。
窓の外では、植木の葉を打つ雨粒が、枝垂れ桜のようにお辞儀をさせている。点けっぱなしのテレビの音を背中で聞きながら、雨に濡れる小さな庭を眺め、インスタントスープを啜る。
雨の日は、ほぼ家で過ごす。私にとって、それは長い一日の始まりを意味していた。
雨は四日間降り続き、長雨となった。
日々変わらない献立。昼はスーパーの惣菜、夜はその残りと即席麺。不思議と飽きることはない。ベッド、居間、座椅子。家の中を回るだけの生活は、まるでプログラムされたロボットのようだが、それが習慣になれば気にもならなかった。
ようやく雨が上がり、久しぶりに公園へ向かった。
スタジアム前の長椅子には、いつものように徳井さんと山田さん、それに山添さんが座っていた。
「やっと晴れましたね」
私が徳井さんに話しかけると、彼は薄く苦笑いした。
「ああ。家に閉じこもっているのも飽きるからなぁ」
そういえば、やっさんの姿がない。
「やっさんは……?」
「なんでも、行きつけの病院へ行くと言っていたよ」
徳井さんの言葉に、山添さんが割り込むように続けた。
「そういえば、箭内さんが亡くなったらしいよ」
「やないさん……?」
「ほら、いぶさんが以前、噴水の前で話していた人だよ」
一瞬、思い出せなかったが、少しずつ記憶の底から顔が浮かんできた。だが、やはり名前までは一致しない。
「病気ですか?」
「脳梗塞らしい。同じ町内会のグラウンドゴルフ仲間から聞いたよ」
会話はそのまま脳梗塞の話題へ流れていった。時が経つにつれ、一人、また一人と知人が他界していく。現役時代は社員の家族の訃報を聞く程度だったが、今は、昨日まで会っていた人間が次々とこの世を去る。その現実は、ひどく虚しく感じられた。
話題が尽き、そろそろ引き上げようとした時、やっさんがどこからともなく現れた。
「みんな、まだいたか」
何やら嬉しそうに声をかけてくる。
「なんだい、病院は?」と徳井さんが訊く。
「薬を貰ってくるだけだからな、わけないよ」
「何の薬ですか?」と私が尋ねると、徳井さんがニヤリと笑った。
「飴玉だよ」
その場に笑い声が響く。その後、私以外の三人は連れ立って帰っていった。
私は思い出したようにポケットからスマホを取り出し、やっさんに見せた。
「これ、買いましたよ」
やっさんは無表情に私のスマホを眺めていたが、唐突に自分の端末を取り出して訊いてきた。
「写真は撮れるんだが、それが見られないんだ。どうすればいい?」
私は戸惑った。スマホを買ったことを報告したのに、彼はそれを忘れているようだ。それに、買ったばかりの私に答えられるはずもない。
「私も、よく分からないんです」
私が自分の画面を見つめていると、やっさんが隣に寄り添ってきた。
「ほら、こうして撮るだろう。だが、どこを探しても写真が出てこないんだ」
やっさんのものと私のものとでは、機種も画面も違う。そもそも私は一度も写真を撮ったことがない。
「実は、私も操作が分からなくて。やっさんに教えてもらおうと思っていたんです」
「そうか……いぶさんも分からんか」
「やっさん、以前言っていた『ニュースを見る方法』はどうやるんですか?」
「ああ、それはこの検索ボタンだ。ほら、ここを……」
やっさんが指したボタンは、私のスマホには見当たらなかった。
「こうして調べたいことを喋れば、表示してくれるんだ。例えば『いぶすき』と喋ると……ほら、鹿児島の指宿が出た。これを押せば詳しく読める」
驚いた。機械に向かって話しかけるだけで、私の名前に関連する情報が次々と現れる。
どこを押せばそれができるのか尋ねたが、やっさんは「機種が違うから分からん」と首を振った。結局、一定の収穫はあったものの、何一つ解決しないままその日は終わった。
その後、ショップに電話して「初心者向け講習」を予約した。
講座の内容は多岐にわたった。電話、メール、写真、検索。一度には覚えきれず、必死にメモを取るのが精一杯だった。
帰宅してメモを頼りに操作してみるが、うまくいかない。メモには要点しか書いておらず、そこに至る最初の手順が抜けていたのだ。
私は結局、操作を諦めた。その一日が、ひどく無意味で虚しいものに感じられた。
暦は駆け足で過ぎていく。




