第三章 愛犬マリンの死
噴水の周りのベンチに座り、一縷の寂しさが込み上げてきた。公園で知り合った人の死という現実。人も動物もいつかは必ず亡くなる。それは逃れられない宿命だ。分かってはいても、つい先日まで笑い合っていた人がいなくなるのは、やはり堪えるものがあった。
その日の晩、座椅子に腰掛けながら自分の体のことを考えた。田野井さんの死を自分に重ねてみたのだ。
現役時代は年二回の健康診断が義務で、しぶしぶ会場へ足を運んだものだ。定年後は自治体から通知が届くが、束縛する者は誰もいない。だから一度も行っていない。一人暮らしという点では、私も彼と同じ境遇だ。診断を受けていようがいまいが、死ぬ時は死ぬ。
そう思うと、言いようのない不安が蘇ってきた。
今の献立のままでいいのか。不調を感じた時の市販薬だけでいいのか。何より病院嫌いのままで、この先どうなるのか。考え込んでいるうちに寝入ってしまい、慌ててベッドへ潜り込んだ。
翌朝、目が覚めたのはいつもより一時間も遅い時間だった。
カーテンの隙間から差し込む光が弱い。曇りだろうかと思いながら、無意識にマリンの姿を探した。
いつもなら傍にいるはずのマリンがいない。そういえば今朝は、顔を舐めて起こしてくれなかった。そのせいで寝坊したのか。
私は苦笑いしながら「マリン」と呼びかけた。返事はない。居間へ行くと、マリンは座布団の上で丸く蹲っていた。舌を出し、荒い呼吸を繰り返している。
「どうした、マリン!」
慌てて腹を触ると、呼吸がひどく乱れている。表情も苦しげで、いつもの彼女とは明らかに違っていた。
私はマリンを抱え、近くの動物病院へ駆け込んだ。
健康診断も血液検査も受けさせてこなかったツケだろうか。獣医は「とりあえず血液を調べ、今日は応急処置として鎮静剤を打って様子を見ましょう」と言った。
公園どころではなかった。病院から直行で家に戻り、マリンを専用の敷物に寝かせる。注射のせいか呼吸は少し落ち着いたが、その目は虚ろに見えた。
気づけば昼を過ぎていた。どのような状況でも、腹は減る。スーパーへ行くついでに、マリンの好きなおやつを買ってきてやろう。そう自分に言い聞かせ、家を出た。
買い物を終えて戻り、玄関を開ける。
「マリン、ただいま!」
いつもなら必ず出迎えてくれるはずだった。だが、今日はいない。当然だ、彼女は病伏せっているのだから。私は一目散に居間へ向かった。
「おやつ、買ってきたぞ!」
マリンは、ぴくりとも動かなかった。目を閉じ、静かに横たわっている。
「マリン……」
その顔に触れた。冷たかった。腹に手を当てても、上下する鼓動はない。
死んでしまった。十一年間、苦楽を共にしたマリンは、別れを告げるように安らかに眠っていた。
涙が滲んだ。昨日まであんなに元気だったのに。あっけなく逝ってしまった彼女を想い、私はただ嘆いた。翌日、動物病院で紹介してもらった専用の墓地へ、彼女を葬った。
その日から、私は本当の一人になった。
公園へ行くのも、食事をするのも、眠るのも。すべてマリンと一緒だった。生き甲斐が消え、心の中にぽっかりと虚空が広がった。ただ、ひたすらに寂しかった。
公園に足を運んだのは、葬儀から三日後のことだった。
スタジアム前の長椅子には、いつものメンバーがいた。
「おはようございます……」
「おや、いぶさん。マリンはどうした?」
やっさんが声をかけてきた。
「三日前に、亡くなりました」
「ここ数日見かけないと思ったら、そうだったのか」
「何歳だった?」
長老の徳井さんが訊ねる。
「十一歳でした」
「十一歳か、そりゃ早いな。ワシのところは二十年近く生きたよ」
「病院へ連れて行ったんですが、間に合いませんでした……」
「まあ、人間も動物も、年を取ればあの世は近いからな」
徳井さんは空を見上げて、小さく呟いた。
「また新しく飼ったらどうだ?」
吉田さんが言ったが、私は首を振った。
「もうこの年じゃ飼えませんよ。そもそも、高齢者には売ってくれない」
「この年じゃ、人間が先か犬が先かって話だからなぁ」
徳井さんが話を締めくくった。
次の話題に切り替わるまで、一分もかからなかった。
私の愛犬の話は、それで終わり。彼らに私の涙は見せられなかった。所詮、公園で集まるだけの他人同士。かける言葉も、形ばかりの同情に過ぎない。私は心の中でそう毒づいた。
改めて公園を見渡すと、球技やジョギングに興じる人々、健康遊具で体を動かす人々が視野に広がる。そのほとんどが高齢者だ。
彼らにとって、ここは憩いの場なのだろう。だが、私はどうだ。ただ時間を潰すために椅子に座っているだけではないか。
脳裏にさまざまな思いがよぎったが、ひとつだけ結論が出た。
マリンがいなくなった今、ある意味では「自由」になったのだ。これからの生活、何か違う生き方を考えてみるべきではないか。
公園で座っているだけなのに、時が経つのはやけに早い。
現役時代の一日とは比べものにならない速さで、腹時計が昼を告げる。帰り道、習慣のままにスーパーに寄り、家に戻る。
家の中には、マリンの面影がいたるところに残っていた。私は食事を済ませると、彼女の遺品をかき集め、段ボールに入れて処分した。思い出せば、また辛くなる。記憶を消したかったのだ。
ただ、ひとつだけ。妻の仏壇の横に、マリンの写真を添えた。それが私にできる最後の供養だった。
窓越しの朝陽だけでは起きられず、もちろんマリンが起こしてくれることもない。
不規則になった朝、今日も起床は遅れた。居間に置いてあるマリン専用の小皿を手にし、無意識にドッグフードを入れようとして——手が止まった。
虚無感が押し寄せ、私は薄笑いした。すべて処分したはずなのに、なぜかその皿だけは残っていたのだ。
私は仏壇に供えたマリンの写真を皿の中に置き、改めて手を合わせた。
公園へ向かう時間は、いつもより遅くなった。
生き方を変えると決意しても、実際のところ、何をしていいか分からない。
それでも、家に閉じこもっているよりは、外にいた方が「閃き」があるかもしれない。そう自分に言い聞かせ、私は重い玄関の扉を押し開けた。
公園の噴水の前を通りかかると、以前見かけた老人が椅子に座っていた。
(たしか、お名前を聞いたはずだが……)
どうしても思い出せない。記憶を辿っていると、向こうから先に声をかけられた。
「やあ、指宿さん。久しぶりですな」
相手が私の名前をしっかりと覚えていたことに、私は軽い衝撃と羞恥を覚えた。自分より年配の方が覚えているのに、私は相手の名さえ出てこない。
「お久しぶりです。お元気そうで」
「今日はワンちゃんはお留守番かね?」
「……先日、亡くなりました」
「おや、それは……。心中お察しします」
沈黙が流れるなか、老人はふと思い出したように前を指さした。
「ほら、まだ出ていない」
私はその指の意味が分からず、首を傾げた。
「何が、ですか?」
「噴水の出る時間だよ。この前、あんたが教えてくれたじゃないか」
教えられたという記憶が、私には全くなかった。それどころか、やはりこの人の名前が出てこない。私は意を決して尋ねた。
「恐縮ですが、以前お名前を伺ったのに忘れてしまいまして……。失礼ですが、もう一度よろしいですか」
「箭内だよ」
「どのようにお書きになるのでしたか」
「竹冠に前で『箭』。内外の『内』で箭内だ」
「珍しいお名前ですね」
「そう多くはいないよ。……前にもそう言っていた気がするがね」
顔は覚えているのに、会話の内容が抜け落ちている。私の名字だって、そうありふれたものではないはずだ。箭内さんはそれを記憶している。
(私は相手の話を、上の空で聞いていたのだろうか……)
そんな不安が脳裏をよぎった。
「ああ、噴水が出た。やはり時間通りだ」
吹き上がる水飛沫を見て、箭内さんは子供のように嬉しそうに笑った。しばらくして彼が用事で立ち去るのを見届け、私はいつものスタジアム前のグループへ向かった。
メンバーとはほぼ毎日顔を合わせるが、話題は日替わりだ。前日のニュース、公園の管理状況、球場の予定、通りかかるペットの噂。
話が尽きると、皆それぞれの行動に移る。携帯を眺める者、黙り込む者、独り言を呟く者。多様な人間模様のなか、やっさんが私に話しかけてきた。
「どうした? 携帯は買ったのか?」
一瞬、何のことか分からなかったが、すぐに思い出した。
「店には行ったんですが、説明が面倒くさくてやめましたよ」
「簡単だよ。ほら、ボタンひとつで何でもわかるぞ」
やっさんがスマホを手に寄ってきた。
「こうして、こうすれば、ニュースもすぐだ。写真も撮れるし歌も聴ける」
やっさんの実演に、私は見入ってしまった。
「面倒くさい」というのは嘘だ。本当は、一ヶ月の生活費ほどもする購入費用がネックだったのだ。私は改めてやっさんに聞いてみた。
「毎月の支払いは、どのくらいかかるんですか?」
「いぶさんの今の携帯と、さほど変わらないよ」
「でも、本体の代金が……」
「これか? これは安いよ。少し型落ちのやつを選べばいいんだ」
趣味のない私だが、あの魔法のような板一枚で世界が広がるのを知り、考えが変わった。もっと安く手に入る方法があるのではないか。
翌日、私は再び携帯ショップを訪れた。対応した店員は、営業用の笑みを浮かべて言った。
「お決まりになりましたか?」
「……何がですか?」
「以前こちらで、機種変更を検討されていましたよね?」
私は、この店員が前回と同じ人物であることに気づかなかった。あの時はパンフレットを眺めながら上の空で話を聞き、逃げるように店を出たのだ。彼女の顔など覚えているはずもなかった。
「あ、いや……まだ決めたわけではないが。古くてもいいから、毎月の支払いが安いものはないかと」
「それならございますよ。二世代前の機種ですが、機能はさほど変わりません」
「支払いは……?」
「今のプランとほぼ同額でいけます。すぐにお持ちしますね」
店員の説明に、私は何度も頷いた。だが、内心では何一つ理解できていなかった。
「何か分からないことは?」と聞かれても、「何が分からないのかが分からない」のだ。
気がつけば、マインドコントロールでもされたかのように契約書に判を突いていた。
それでも、店を出る時の心は弾んでいた。これで公園の話題にもついていける。仲間と対等になれる。そう信じていた。
帰宅して早速触ってみたが、電話の掛け方以外はさっぱりだ。箭内さんが言っていた「情報の検索」ができない。説明書を探しても、箱の中には入っていなかった。
結局、その日は諦めて、明日公園でやっさんに教えてもらおうと自分を納得させて眠りについた。




