闘氏の豪傑
「ところでおぬし、氏名はなんという?」
羋蒼旅は、敖賈と顔見知りらしく、当然のように闘氏の長への案内役として現れた青年に聞いた。
「私は養叔由と申します。そちらにおられる敖氏に、かつて多大なる恩を受けた者でございます」
軽く振り返って微笑を向けつつ、青年――養叔由はそう答えた。どうやら彼は敖賈に世話になったことがあるらしい。
そして敖虎は、養という氏に反応した。
「養氏というと確か、かつて、闘氏の与党と見なされて族滅され氏族ではありませんか?」
「ええ、その通りです。祖父は闘氏の連座を受けて殺され、私も母とともに日陰で暮らしていたのですが、敖氏が密かに便宜を図ってくださり、ここに預けてくださったのです」
養叔由はさらりと言ったが、羋蒼旅と敖虎にとっては驚くべきことである。
穆王は闘氏を滅ぼし、闘氏に迎合したと見なした氏族をも掃討した。しかし、穆王の御代に令尹であった敖賈は、そういった経緯で落魄した氏族の者を庇護していたらしい。それも、闘氏の残党に預けるという形で、である。志は高いが、それは、穆王への叛意ともとれる行いであった。
「偽善に過ぎませんよ。私は王の過ちを諫めることが出来ず、父祖と君主の罪を拭いながら生きてきたにすぎません」
父祖の罪というのは、闘氏を滅ぼしたことであろう。しかし敖賈は同時に、君主の罪とも言った。
敖賈は穆王を輔弼しながら、その治世に否定的だったらしい。ならば、穆王を補佐しながら、仕える王に懐疑を抱いていたこの人の胸中とはどのようなものだったのだろうか。
底知れぬこの老爺の深淵の一端を垣間見つつ、それによって、さらに底が深まったような心地である。とりわけ敖虎は、自らの祖父でありながら、ますます、敖賈という人が分からなくなった。
そうしているうちに、茅葺の建物が見えてきた。
「あちらが、氏長のお住まいです。敖氏と、王子だけ入ってよいとのことでした」
養叔由の言葉に、羋蒼旅は怪訝そうに眉宇を狭めた。
「王子、とは誰のことだ?」
白々しく、羋蒼旅が訊く。羋蒼旅はまだ一度も、自らが茨国の王子であると名乗っていないのだ。
「貴方のことですよ、蒼旅さま」
養叔由は事もなげに言う。字まで知られているとなると、羋蒼旅は嘆息しつつ、
「闘氏の長というのは、多聞の人のようだ」
と、返すしかなかった。そして羋蒼旅と敖賈は、建物の中へと誘われていく。
残された敖虎は、呆然としていた。
養叔由も二人を案内して建物の中へと消えていったので、いよいよ、敖虎は憮然としてしまったのである。
――仕方がない。そのあたりを逍遥するとしよう。
いざ盤外に置かれると、ここが主人の正念場であると知りつつ、敖虎はひどく達観していた。
しかも、もし羋蒼旅、敖賈と闘氏の長との交渉が決裂すれば、我が身さえ危ういやもしれぬというのに、そういった恐懼がまるでない。すべてが他人事であるかのように冷静なのである。
そのような、冷めた心持のまま、敖虎はあたりを歩いていた。
しかし、どれだけ歩いても、人はおろか、鼠の一匹ほども、動くものを見かけないのである。敖賈はここに闘氏の残党がいて、兵力を有しているようなことを言っていた。しかし、とてもそうとは信じられぬほどの静けさである。
――まあ、“闘氏は一人にて佰に値す”ともいうから、十人もいれば、それで千の兵に匹敵するということなのかもしれんが、それにしても静かだな。
佰とは、百人の兵と言い換えてよい。武を練り上げた闘氏の強者は、一人で百人の兵に等しい武威を誇るというのだ。少なくとも茨国の人々は、そういった言葉を生み出すほどには、闘氏の武威に対して敬行と畏怖とを抱いているのである。
少しだけ考えて、その浅はかさを敖虎は鼻哂した。
――そのような者が地上にいるものか。如何なる猛将といえども、長戈を持った十人の精鋭に囲まれれば、たちまちに絶命するに決まっている。
だいたい、闘氏が真にそのような強者の氏族であったならば、滅び朝廷から排斥されているはずがない。そこに政争と暗闘があれど、闘氏は最後には、茨王と敖氏の兵と戦い敗れたのである。他に縋るものがないといえ、敖虎は闘氏に対して懐疑的であった。
敖虎がそのようなことを考えている時である。荒々しい息吹が聞こえた。どう聞いても人のものではない。
我に返って足を止めた。音は背後からした。ゆっくり、首だけで振り返ると、そこには、巨大な熊がいたのである。茶色の毛並みを誇る、岩と見まごうような巨躯である。
――何故、このようなところに!?
心の中で戸惑いつつも、敖虎は体を動かすことはなかった。熊に遭った時には、物音を立てず静かに後ずさりしつつ場を離れるのがよいと知っていたからだ。
しかしその時、不意に敖虎の背後から足音がした。無遠慮で、警戒心のないものである。
「なんだお前。女のような細身をしているな。闘氏の者ではあるまい。何者だ?」
荒々しい声であった。熊が、その蛮声に呼応するように吼える。何者か知らぬが、熊は見えているであろうに、意にも介さず誰何してきた声の持ち主に、敖虎は心の中だけで舌打ちした。前を向いて痛罵してやりたいが、熊から目を逸らすのも恐ろしい。
そんな逡巡をしていると、急に敖虎の体が地に投げ出された。肩を掴まれ、強引に熊から遠ざけられたのだ。
敖虎はそこで、はじめて声の主の姿を見た。
長躯剛腕の男である。しかし顔はまだ若く、敖虎とそう齢は変わらぬようであった。
文句を言う間もなく、熊が絶叫し襲い掛かってくる。男は無手であった。しかし、武器の代わりに右の拳を握ると、熊の巨体に少しも怯むことなく鳩尾に殴打を叩きこんだ。
熊のような野生の強者に、人の力など通じるわけがない。敖虎はそう思ったが、しかしその攻撃を受けた熊は悶絶のような悲鳴を上げた。さらに驚くことに、熊の巨体は大きく後方へと跳ね飛ばされたのである。
熊は仰向けになって地に転げている。男はその傍へ近づいていくと、右足を大きく上げた。そして、斧を振り下ろすような勢いで、踵を熊の喉元に振り下ろしたのである。その一撃で、熊は驚くほどあっさりと絶命してしまった。
「……貴殿は?」
「炎淑だ」
その豪傑は、不愛想にそう名乗った。そして、まだ腰を地につけている敖虎に一瞥を向けた。
「なんだお前、まるで女衒のような男だな」
不躾な物言いである。敖虎が愠怒を見せた。しかし、炎淑は特に意に介した様子はない。
「……私は、闘氏の族長の客人の従者です。主人への同行を断られたので、この辺りを歩いていたところです」
「なるほど。まあ、俺が父でも、お前のような怪しげな男など招き入れはすまい」
「おや、炎淑どのは闘氏の族長の子息なのですか?」
敖虎はやたらと大仰に、驚いたような声を挙げた。ならばどうしたと、炎淑が睨みつける。
「粗野な野人そのものだと思いまして。なるほど、この蛮風を嫌って、茨王は闘氏を排除したのでしょう。獣に冠と服とをかぶせたような廷臣が執政の座にあれば国の乱れる下となる」
「なんだと!!」
炎淑――氏は闘なので、闘炎淑だろう。彼は、怒りに任せて敖虎の首元を掴んだ。岩のような荒々しい掌である。加減をしているだけで、その気になれば敖虎の細首など木の枝のように折ることが出来るだろう。
死の危機に瀕して、敖虎の全身から脂汗が垂れる。それでも敖虎は口を止めなかった。
「そう、それだ。そういう荒々しさが、闘氏が嫌厭された所以だと言っている。戦場で剣と剛腕を誇るのはよいが、朝廷は理知と舌鋒とを巡らせるところだ」
「ふん、礼法というやつか。そのようなものなど役に立つまい。それも、お前のような中原にかぶれた学士風情が幅を利かせるようになれば、大茨の烈風は地に落ちることだろう!!」
茨国は中原――大陸の北地、黄河と呼ばれる大河を中心に栄えた地の人々から蛮と蔑まれてきた。そのような扱いに苛立ちつつも、茨国は中原から文字や貨幣、朝廷の制度や築造の技術などを学びつつ躍進してきたのである。
しかし茨国の人々は元来より猛々しく、その気性は形だけの文化を中原に倣っても変わることはなかった。
その結果として茨国の貴族には、礼制を重んじてより広く敷いて臣民を啓蒙すべしという者と、肌に合わぬ礼儀などを無理に修めてまで中原の者たちの蔑視を気にする必要などないという者に分かれた。闘氏が排斥されたのには、時の茨王と敖氏が前者であり、闘氏が後者だったというのもある。
闘炎淑から赫怒があふれ出してきたが、それに比して手の力が強まることはない。そのために敖虎は生きていられるのだ。おそらく、この上さらに力を込めれば本当に敖虎が死んでしまうと分かっているのだろう。
「どうした? その怒りに任せて、私の素首など捻ってしまえばよかろう?」
「――なんだお前は、命が惜しくないのか?」
「いいや、そういうわけではない。ただしどうにも、お前に諛って見過ごしてもらうのは気に入らぬのでな」
これは本心だが、同時に敖虎としても分からぬ心境であった。
やがてばからしくなったのか、闘炎淑は敖虎の体を乱雑に放り投げた。痛みはあるが、怪我はなかった。
「俺の目に映るところに来るな。お前の存在はどうにも癇に障る!!」
そう言って闘炎淑はどこかへと歩き出していった。その顔は子供のように不貞腐れている。
――やれやれ。これでは祖父君と蒼旅さまも苦戦なさっていることだろう。
せめて闘氏の族長というのが、闘炎淑に似ない人であればよいのだが。そんなことを思いつつ、それは淡い期待であろうとも敖虎は分かっていた。




