伍氏の零落
養叔由と闘炎淑は、不瑳の家宰である申韻胥――正しくは伍韻胥という人らしいが――について、蔿峨に説明することにした。
酒場であるので、蔿峨としても仕方なく席に着き、一杯だけ酒を頼んだが、口はつけていない。
しかし男二人は蔿峨の生真面目さを倣うことなく、酒杯を積み重ねていた。
「伍氏は代々、箴尹の家でして、その祖は闘氏から分かれたのです」
養叔由が酒で喉を湿らせながら言った。
箴尹とは諫言を司る官職であり、王に過ちがあったならこれを諌めるのが職責である。そのような重要な地位を累代に渡って務めていたことからも、茨国における伍氏の高位がうかがえる。
「先代の頃の箴尹は伍笈という人でして、直言で名の通った御仁でした。ところが三年ほど前に処刑されてしまったのです」
「それは、如何なる咎によるものなのでしょうか?」
「そこがよく分からぬのです」
養叔由があまりにはっきりと断言したので、蔿峨としては拍子抜けしてしまった。しかし考えてみれば、三年前といえばまだ闘氏は山野で雌伏しており、二人とも茨の朝廷から遠いところにいたのだから、王宮での刑事について疎いのも当然のことではあった。
「それでお二人はなぜ、その方の顔を知っているのですか?」
「伍韻胥どのがかつての縁を頼って父を訪ねてきた時に、俺と叔由も同席していたのだ。伍韻胥どのの話によると、突如として勅使が伍氏の邸宅を訪れ、兄弟揃って出頭するならばよし、さもなくば伍笈どのを処刑すると言ってきたらしい」
どうやらその時、既に伍笈は投獄されていたらしい。その経緯は伍韻胥も知らなかったのだが、にわかな勅命に陰黠なものを感じた伍韻胥は、
――王宮に赴けば、父子ともに誅される。
と危殆を感じ、逃げ出したとのことである。
その後、出頭した兄と父は殺されたのだが、そこに陰謀があったのか、それとも、伍韻胥が逃げたがための処刑だったのかは定かではない。
しかし少なくとも、伍韻胥は陰謀だったと信じているのだろう。その証拠に、闘氏を頼ってきた伍韻胥は氏長である闘羽夸に、茨国への反旗を立てて挙兵するよう促したらしい。
だが闘羽夸はその請願を断ったとのことである。
「あの時の父は、伍韻胥どのを跳ね除けこそしたが、かなり揺れていた。茨王室での復権を諦めるかどうかで逡巡していたのだろう。そう思えば、あれは闘氏にとっての大きな岐路だったな」
闘炎淑は、養叔由の倍の速さで酒を飲みながら、しみじみと言った。確かに、闘羽夸が伍韻胥の誘いに乗って兵を挙げていれば、今の茨国はまったく違う形となっていただろう。
「それで、闘氏の助力を得られなかった伍韻胥どのは呉国へ亡命されたということですか?」
「まあ、そういうことなのでしょう。闘羽夸どのは、伍韻胥どのを匿うことに異論はなかったようなのですが、闘氏の下では胸に立てた宿願を果たせぬと悟った伍韻胥どのは、やがて姿を消されました。それがまさか、このようなところでお見かけするとは思いませんでしたがね」
驚きを口にしてはいるが、酒杯に手を伸ばす養叔由は悠々としていて、今ひとつ胸情がわかりにくい。
闘炎淑のほうは淡々と酒量を増やしているし、伍韻胥のことについても、ただ厄介ごとを避けたに過ぎないようである。
蔿峨はどうしていいか分からず、ふと視線を落とした。
そこには、店への気遣いとしてとりあえず頼んだ酒がある。やがて蔿峨は盃に無造作に手を伸ばすと、一息にぐい、と飲み干した。
夕刻になって、羋蒼旅たちは不瑳の邸宅を後にした。
申韻胥は家宰として、泊まっていくよう申し出てくれたのだが、延融が固辞したので羋蒼旅らもそれに倣ったのである。
しかしただ一人、莫耶だけは、
「ただ酒が呑めるなら泊まってやってもいいぞ」
と傲岸に言い放ち、しかも申韻胥がそれを了承したので、一人だけ、不瑳のところで客人となったのである。
一応、莫耶の徒弟となっている敖虎は、
「明日には、師を引き取りに参ります……」
と、申韻胥に頭を下げた。
延融と共に姑蘇の城市を歩く羋蒼旅は、
「我らはあれの弟子ということになったが、よもや不瑳どのたちから、牛飲馬食の術を学んでいると誤解されぬだろうな?」
と、愚痴をこぼした。
「莫耶どのはかつて、“武は食と共に在り、悟は酒と共に在り”と申されておりましたので、それもまた道へ通ずる一つの修練なのかもしれません……」
「暴飲暴食の詭弁にしか聞こえないのは私だけでしょうか?」
延融という人は生真面目で、莫耶に恩があるが故にそう思うのだろうが、その意識と在り方とが莫耶の低俗さから目を背けさせているのでないだろうか。敖虎としては、そう思わずにはいられなかった。
ともあれ、二人としては莫耶のことは今は放念して、闘炎淑たちを探さなければならない。結局、後を追わせた蔿峨も戻ってこなかったので、流石に不安のほうが勝ってきたのだ。
しかし、姑蘇の城市を歩いているうちに、その憂いは失せた。
酒場のほうから馴染みのある声が聞こえたかと思い飛び込むと、そこには、机に伏して青い顔をしている養叔由と、床にうつ伏せている闘炎淑、そして――陽気に酔って、酒瓶で卓上を埋め尽くしている蔿峨の姿があった。
「あ、これは我が君に敖虎どのではありませんか。お二人もどうですか? お酒というのは美味しいですよ。莫耶さまがあれほどまでに好まれるのも頷けます」
二人は暫し唖然としていた。そのうちに羋蒼旅は、
「……のう、虎よ。女というのはもしや、酔えば皆このようになるものなのか?」
と、重苦しい口を開いた。
返しに窮した敖虎は、代わりに床下の闘炎淑に睨視を向け、
「相当に酷い呑ませ方をしたようですね。よくそれで人のことを、女衒のようだ、などと罵れましたね?」
と、初対面のときに言われた悪態を投げ返した。
そんな敖虎に近寄ってきて、蔿峨は酒杯を近づける。既に吐く息は相当に酒臭かった。
「しかし……まあ、臣下の酒を断るというのは、主君として度量に欠けるともいえるかの?」
羋蒼旅がそう言うと、敖虎が眦を決した。
実は羋蒼旅は今まで酒を呑んだことがない。茨国出立の酒宴の際にも、呑もうとしたのを敖虎が強く咎めたため、味わえなかったのである。
ついでに言うなら、その時は蔿峨も酒は呑んでいなかったので、この酒癖の悪さが衆目に晒されることがなかったのである。
「そう堅いことを言わずともよろしいではありませんか。さあどうぞ我が君、お注ぎいたしますよ」
「ふむ。ならば――一杯だけ、もらうとするか」
敖虎の制止も虚しく、羋蒼旅の口に酒が流しこまれた。
それからおよそ一刻(二時間)に渡って、羋蒼旅と蔿峨は浴びるように飲みながら延々と騒ぎ続けた。潰れている闘炎淑と養叔由を尻目に、敖虎は虚ろな目で主君と同輩の醜態を眺めているしかなかったのである。
唯一の拠り所といえば、いつの間にか飛来した鵬がその肩を宿り木として、敖虎を励ますように時おり鳴き声の歌唱を聴かせてくれたことくらいである。




