王孫と家宰
呉の王都、姑蘇は、城壁こそ低く、茨国の王都、武郢に比すれば見劣りするが、城郭を有していた。
延融によれば、姑蘇は呉で唯一の城市なのだという。
「呉が王国ならば、この地も王畿ということになりますか。それにしては、なんとも物寂しいところですね」
養叔由が小さく呟いた。一応、延融に聞こえぬようにというくらいの配慮はあるらしい。
表立って頷くことこそしなかったが、敖虎らも同じことを思っていた。
人の往来は少なく、住居もまばらである。
大仰な牆壁を有しながら、しかしその中の広さを持て余しているようで寥廓としたものがあった。
ほとんど人気のない往来を進みながら、羋蒼旅たちはやがて不瑳の邸宅についた。
邸宅の前に一人の男が立っており、拝手していた。
その敬意は、延融に向けられたものであろう。長身で、精悍な顔立ちをした壮年の男に、延融はにこやかに話しかけた。
「これは申韻胥どの。お久しぶりにございますな」
「延氏も、おかわりないようで。そちらが、話に聞いていたお客人ですか?」
延融は頷き、
「はい。“錬華の賢者”、莫耶どのとその徒弟の方々です」
と紹介した。
延融はここに来る前に羋蒼旅らに、茨国の王と廷臣であることを明かさぬようにと忠告し、そういうことにしているのだ。
莫耶からすれば、王権など歯牙にもかけておらず、一様に嬰児のようなものなので不服はないが、敖虎は多少の難色を示した。
といって、羋蒼旅の素性を明かすのはまずいという思いもある。他国の王位継承ひ茨国の王として容喙したとなると、後々、厄介なことになるかもしれないからだ。
「我が主人、不瑳さまがお待ちです。どうぞこちらへ」
申韻胥に案内されて羋蒼旅らは邸宅へ上がったが、ふと、あることに気づいた。
「ところで、叔由と炎淑はどうした?」
いつの間にか、二人の姿が忽然と消えていたのである。羋蒼旅に言われて、敖虎と蔿峨も、二人がいないことに気づいた。
「先ほどまでは、お二人ともおられましたよね?」
「そのはずですが……」
蔿峨と敖虎の言葉は弱々しい。
それも、養叔由だけならばそう気にもしないのだが、闘炎淑までいなくなっているというのが三人には不思議であった。
「すまぬ、蔿峨よ。少し探してきてくれ」
「わかりました」
羋蒼旅に命じられて、蔿峨も出ていった。
残った羋蒼旅と敖虎は、申韻胥の後ろをついて邸宅の中を歩いていく。
やがて奥の広間に通されると、凛とした顔立ちの青年がいた。この青年が不瑳であろう。日に焼けた赤い肌の、およそ王族らしからぬ容姿であった。
「季父上、ようこそおいでくださいました。“錬華の賢者”さまも、斯様な南蛮の地に足を運んでくださり、恐縮至極にございます」
不瑳は恭しく恭礼を示した。延融は、困ったような顔をしている。
「その、季父上というのはやめていただけませんかな?」
「そのように仰せにならないでください。貴方は我が祖父のご令弟であり、呉国随一の賢人なれば、その貴位と見識に敬意を示すことに何の問題がありましょうか」
不瑳は爽朗な声で延融の手を取り、そのまま上座へと座らせてしまった。延融は居心地が悪そうにしているが、不瑳の有無を言わせぬ圧には勝てなかったらしい。
それを見た敖虎は、
――不瑳という人は、なかなかに卒のない人だな。
と、内心で舌を巻いていた。
呉国内で賢人と名高い延融と知己を得ていて、しかも、その人を上位として扱っている。それは謙譲の美徳を表しているようで、同時に、延融が不瑳の後見であるかのような図式である。
呉人の輿望を集めるにあたって、これほど有効なものはなく、また、当代の呉王である嬰陵には行えぬことである。
嬰陵は延融に王位を渡さず、また、歪になった王位継承順を正すこともなく即位した。延融が辞して国外に出たとはいえ、国人たちから不義と見られても仕方のない行いである。その嬰陵に、延融を招くことなど出来るはずがない。
それにしても見事なのは、延融と近しむという智慧と、それを為した辣腕であろう。政治の中枢にあることを嫌って一度は出奔した延融が、容易に不瑳の要請に応じるはずがない。
――そのあたりの韜略を授けたのは、家宰の申韻胥どのではないだろうか。
このやり方には政治的な老獪さを感じる。若い不瑳にそれが為せるかといえば、なかなかに難しいだろう。そうなれば、家宰の申韻胥が主人のために奔走したと考えるほうが自然である。
敖虎は目だけで申韻胥のほうを見た。
その氏名を聞いたときから、何かが気に掛かっているのである。聞き覚えのある名のように感じるのだが、未だに思い出せないでいた。
蔿峨は姑蘇の城市を走り回り、やがて闘炎淑と養叔由を見つけた。二人は酒場にいて、昼日中から一献傾けていたのである。
「おや、蔿峨どのも来られましたか。よければご一緒にどうですか?」
養叔由は悪びれもせず、酒瓶を差し出した。蔿峨は珍しく、柳眉を逆立てて憤慨している。
「何を考えておられるのですか。叔由どのはともかく、炎淑どのまで!!」
「怒られていますよ、炎淑どの」
養叔由は澄まし顔を闘炎淑に向けた。
「非行を諦められているお前よりはいいだろう」
転嫁された叱責を皮肉で返しつつ、闘炎淑は酒杯をあおる。蔿峨の眼光がいっそう鋭さをました。
「仕方がないでしょう。私たちがあの邸に入れば、よけいに話が拗れますので」
「こいつに賛同するのは釈然とせぬが、その通りでな。延融どのが我らに素性を隠すよう言われたのも、今であれば頷ける」
そう語る二人を見て、蔿峨は怒りを収めた。どうやら二人のこれはただの懶惰ではなく、何か事情があるらしい。
「不瑳どのの邸に壮年の人がいたでしょう。私たちはあの人とかつて会ったことがあり、そして、この場では合わぬほうがよいのです」
「家宰の申韻胥どのですか?」
「今はそう名乗っておられるのですか」
養叔由は含みを持たせて呟き、
「あの人は、元は伍韻胥どのと言いまして、かつて茨国に仕え、先王の元で箴尹を務めていた方の次子なのです」
と教えた。
「箴尹どのの次子、ですか? そのような方が何故、呉の王孫の家宰などをされているのですか?」
「おそらく、亡命の果てに呉に辿り着いたのだろうさ。あの人の父と兄は、我が君の父王によって処刑されているからな」
酒精を含んでいながら、闘炎淑の声には、苦草を舐めているような渋さがあった。




