隠棲の賢者
敖賈という人は、羋蒼旅の祖父――穆王の代に令尹を務めた人である。当時、茨国では乱があり、敖氏も多くの死者を出した。茨国は乱れており、常であれば争ってその座を求める令尹という顕職に誰もなりたがらないという有様だったのである。
結果として、後ろ盾もなく、家格の足りない敖氏の傍流であった敖賈が令尹となった。
この時の敖賈は二十に満たず、一つの失策でもあらばすぐにその責を負わされる、生贄の牛のような立場であったといってよい。それでいて敖賈は、辣腕をもって茨国を立て直した。今は隠居しているが、茨国の人は今もなお敖賈のことを深く慕っているのである。
「厄介なことに巻き込まれたようにございますな。陋居でございますが、入られませ」
「あ、ああ。ではとりあえず、一夜の宿を借りるとしようか」
戸惑いつつも、羋蒼旅は敖賈の招きに応じて小屋の中に入る。盧武成は背を屈めつつ、耳元で聞いた。
「このご老人は、お前の知己か?」
その問いに羋蒼旅は頷く。詳しいことは話さなかったが、信のおける人である、とだけ告げた。
案内されて二人は敖賈についてく。陋居との言葉通り、閑散とした広間のほかには、室が二つほどあるだけの、外観どおりの小さな小屋である。
敖賈の素性を知らぬ盧武成は、隠棲の老人の住処だと思って疑わなかったが、かつて茨国の令尹であったと知る羋蒼旅からすれば不思議でならない。ここは、当代敖氏の長であり実子たる敖宜伯の邸宅に及ばないどころか、その一角の厩舎よりも小さいのである。
敖賈の功績と立場があれば、豪邸に家人を十人と奴婢を五十人ずつほどつけて、悠々の隠居生活が出来るはずであった。実際に羋蒼旅は今の今まで、敖賈はそのような暮らしをしているものと思い込んでいたのである。
「の、のう敖――」
「もう夜も更けました。話は、明日にいたしましょう」
羋蒼旅の言葉を穏やかにさえぎった敖賈は、盧武成のほうを見た。視線を向けられた盧武成が怪訝そうな顔をすると、敖賈は好々爺然とした微笑を浮かべるのだった。
――関わりなき者がいては出来ぬ話がある、ということか。
敖賈は目ざとい人であり、盧武成が茨国の者ではないことはすでに見抜いていた。羋蒼旅からすれば、敖賈が辺鄙な地で隠居していることは衝撃であるが、敖賈からしても、王子たる羋蒼旅が他国者と二人で山中にあるのは奇異なことである。今は、迂闊に口を開かぬほうがよいと思い、羋蒼旅にも暗にそう諭したのであった。
敖賈が二人を案内したのは、狭い寝所である。牀が一つ、燭台が一つという粗末な部屋だった。それでも、野宿をしないで済んだだけ有難いと思うべきだろう。
「牀はお前が使っていいぞ。俺は、てきとうに床で寝る」
盧武成がそう言うので、羋蒼旅はその言葉に甘えて牀の上に体を投げた。しかし、体は疲れているはずなのに、少しも眠れない。落ち着かない羋蒼旅は、壁にもたれ掛かって目を瞑っている盧武成に話しかけることにした。
「のう、武成」
「……なんだ?」
既に眠りの坂を転がりかけていた意識を引き戻されて、盧武成は少しだけ不機嫌そうな声を出す。
「武成は何者なのだ?」
「さっきも言った通り、ただの旅人だ。つい先日、父に叩き出されてな。仕方なく、あてもない旅をしているにすぎん」
「そうか。どこの国から来たのだ?」
「窮国の尤山という地だ」
そうか、と相槌を返したが、羋蒼旅にはそれが東西南北どこにある国のどのような山なのか、少しも分からなかった。この場に敖虎がいれば、窮が東方にある虞の功臣の末裔の国であり、尤山が有名な霊峰であると教えてくれただろう。しかし、博覧強記の従者は今の羋蒼旅の隣にはいない。
「旅というのは、楽しいものか?」
「そうだと言う人もいるが、今の俺にはその楽しさが分からん。はじめてすぐ、悪党に騙されて人攫いの片棒を担がされるなどという災難に遭ってしまったからな」
「ならば、旅などやめてしまおうとは思わぬのか? どこかに根を張り職を得て、妻でももらえばよかろう? 茨国は……良いところだぞ」
そう勧めるには語気が弱い。つい先日までは、心の底からそう思っていた。茨国の外になど出たことはないが、この国に勝る至高の天地などないであろうと信じていたのである。しかし今は、楽土と信じていた地が実は砂上に成り立っていたのではないかと思えてならない。
「そういう気にもならんな。それに、父に、少なくとも一年は旅をしろと言われた。変わった人だが、それでも俺にとっては唯一の親だ。言いつけを破るわけにもいかん」
「なんだ、叩き出されたのではなかったのか?」
「叩き出されたさ。旅をしろと言われたその日に、そのままの勢いで下山させられたのだからな」
なるほどと思う。確かにこれは、盧武成が変わった人と評するのも納得の父親であった。
しかし、親の言いつけに盲従して、目的もなく旅をする人生とは楽しいのだろうか。そう考えた時、羋蒼旅は、
――しかし、蒙昧という意味では、私も似たようなものか。
と感じた。いずれ兄が父の跡を継いで王となると信じていた羋蒼旅は、今、何故か兄に命を狙われているらしい。そして、これから我が身と茨国がどうなるのか、想像さえ出来ないでいる。境遇こそまったく違うが、先行きが見えぬという意味で、羋蒼旅と盧武成は変わらないのであった。
「なあ、武成」
「……なんだ?」
しつこく話をされて、盧武成は苛立っていた。それでも会話を拒絶しないのは、羋蒼旅の現状に対して少しの同情があるからである。
「――私に仕えるつもりはないか?」
「ない」
羋蒼旅は、どうしてそう言ったのか自分でも判然としていなかった。そして、思い付きのままに放った言葉は、思考が整うよりも前に断ち切られてしまったのである。
そして盧武成は、もう寝ると言って、今度こそ完全に口を閉ざしてしまった。
何に起こされるわけでもなく、羋蒼旅は自然と目を覚ました。
あれからも暫く眠れなかったのだが、不思議なもので、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたのである。すでに日は蒼天に姿を見せているらしく、小屋の木々の隙間からは白光が差し込んでいた。
開ききらぬまぶたをこすりながら周囲を見回すと、壁にもたれて寝ていたはずの盧武成の姿がない。
皺だらけの寝衣を引きずって部屋から出ると、そこでは敖賈が長椅子に座って書簡を読んでいた。しかしやはり、盧武成の姿はない。
「おはようございます、王子。よく眠れましたかな?」
「……ああ、ええ。感謝しています。ところで武成は……私と一緒にいた旅人はどちらに?」
「あの青年でしたら、もう発たれましたよ」
あまりに唐突な別れである。羋蒼旅は稚気を顔に出した。そんな若い王子に、敖賈は微笑を浮かべてみせた。
「あの人は危殆を感じ取って逃げたのでしょう。何かいらぬことを言われたのではないですか?」
絹のような肌触りのよい言葉が、急に羋蒼旅の首を絞めつける。昨晩のやり取りを思い出して、返す言葉を失ってしまった。ようやく少し落ち着いた羋蒼旅が臣従の話をすると、敖賈は口元を抑えた。
「それは、逃げられても仕方がありません。あの人はおそらく不羈を好むのでしょう。そういう人を求めるのであれば、直截なやり方はいただけませんな」
敖賈はそう忠告してくれたが、手遅れである。盧武成という豪傑は、すでに去ってしまった後なのだ。
若さによる稚拙を笑われたようで、羋蒼旅は頬を膨らませている。しかし実際、まだ十代の頃から令尹として奔走してきたこの老人にとって、羋蒼旅は王子といっても生まれたての嬰児のようなものであった。
羋蒼旅を一とおりからかった敖賈は、何か食べるものを、といって奥へ向かった。やはり、家人はおろか奴婢の一人も置いている様子がない。
食事の段取りも敖賈がしているのかと思うと、羋蒼旅は落ち着かなくなってきた。元とは言えど一国の執政に炊事をさせて、自分は待っているだけというのが、とても悪いことをしているように思えてきたのである。
せめて何か手伝いをと思ったとき、きゅうに小屋の戸が開け放たれた。
――敵か。
警戒したが、無遠慮に踏み込んできた相手に見覚えがあり、羋蒼旅は胸を撫でおろした。
そこに現れたのは敖虎だった。それも、息を切らして汗まみれであり、腰に剣すら佩いていない。
「……蒼旅、さま? ご無事でしたか。よかった――」
短い言葉であったが、それは羋蒼旅の胸中を安んじるに十分なものであった。何やら茨国で遠大なたくらみが動いており、誰が味方で敵なのか分からない。しかし、幼い時分よりの知己であるこの従者は羋蒼旅の味方であるらしい。
「ああ、どうにかな。ところでおぬしこそ、何故ここに?」
「……武郢で大事がありまして、まずおじいさまにお知らせをと、昼夜馬を駆って参りました。まさか、蒼旅さまがおられるとは夢にも思いませんでしたが」
敖虎の顔を見て、いつもならば安心するはずである。しかし今は、都で起きた大事への恐怖のほうが大きかった。
「それで敖虎よ、何があった?」
「……簒奪です。太子さまが王を殺し、新たな茨国の王を名乗りました」




