鷹の導き
盧武成と名乗った旅人は、自らのことを、どこにでもいるような男と言った。しかし、世間のことについては疎い羋蒼旅であっても、それが度の過ぎた謙遜であるということは分かる。
「それで、蒼といったか。お前は、何故こいつらに拐された? 心当たりはあるか?」
「まあ、私の家は少し名の知れた富家での」
羋蒼旅はそう言葉を濁した。まったくの嘘というわけではない。ただし羋蒼旅は茨国の王族であり、その財貨と知名は、少し名の知れた、というような慎ましやかなものではないのである。
「そうか。良家に生まれるというのも、それはそれで苦労が多いものだな」
起伏のない声で言った。この若さで夜半に拉致された羋蒼旅に対して同情するでもなく、ただ淡泊な所感を吐き出しただけの声である。力づけるなり憐れむなり、少しくらい気遣いがあってもいいと思いつつ、そういった情を向けられた自分を想像すると、それはそれで腹が立つのであった。
「ならば送っていってやろう。道は分かるか、蒼?」
「さての。外の見えぬ檻のような車で引きまわされたのでな。ここがどこかさえ知らぬ。なあ、武成とやら。ここは何処だ?」
少なくとも王城のある茨国の都、武郢から遼か遠い地であることだけは違いない。盧武成が旅人というのであれば、何か分かるかもしれないと思ったのだ。
「そのようなこと、俺が知るか。俺はこの国の者ではないからな。道に迷った時に、たまたまあそこで倒れている男に雇われたに過ぎん」
盧武成は頼りないことを堂々と言う。二人して、灯かりのない暗がりの中に投げ出されたのと同じであった。
「仕方がない。こいつを起こして話を聞きだすか」
盧武成はそう言って、急使と偽って羋蒼旅を攫った男の体を、荷でも担ぐように右腕一本で持ち上げた。何をするつもりなのかと聞くと盧武成は、
「少し強めに殴ったからな。どこか水辺を探して放り投げれば目も覚めるだろう」
と、平然と言うのである。羋蒼旅もそれはよい案だと思い、二人で夜道を歩きながら、水場を探すことになった。
「しかし武成は、茨国の者ではないにしては、普通に私と話せているな?」
「片言くらいであれば、父に教わった。だが至らぬところも多いからな。たまにおかしなことを言ったなら教えてくれ」
今のところ話していて、気になるようなところは特にない。そして、このどこか冷淡な物言いも茨国の言葉に不慣れだからだろうかと考えて、すぐに否定した。きっと盧武成はこういう男なのだろうと、何故だかそう感じたのである。
そして暫く二人で歩いているうちに、水のせせらぎが聞こえてきた。二人はそちらに足を向けたが、ややあって、馬の嘶きをも聞いたのである。
二人は咄嗟に、近くにあった茂みの中に身を潜めた。そして馬の嘶きのしたほうを見たのである。
そこには、車が二乗と、数人の兵士たちがいた。その中でも、ひと際身分の高そうな男がいる。月明かりを受けて翠に輝く鎧を身に纏った壮年の男である。黒い鉄製の武冠――武人の被る冠に、象牙の飾りをつけたものを被っている。顔こそ遠くてよく見えぬが、その男のことを羋蒼旅は知っていた。
咸伯明という名の武官であり、羋蒼旅の兄、羋烙漣の側近である。
「王子は見つかったか?」
咸伯明の問いに、兵士は、まだですと返す。どうやら彼らは羋蒼旅を探しているらしい。他にも兄弟はいるのだが、この状況であれば羋蒼旅誘拐のことを知った羋烙漣が捜索に動いてくれたと考えてよいだろう。
羋蒼旅は安堵の息を吐いた。しかしそれは、咸伯明の続く言葉によって凍りつくこととなる。
「茨国の外に出してはならんぞ。見つけ次第、確実に殺せ」
咸伯明の目的は羋蒼旅を殺すことにあるらしい。羋烙漣への叛心が芽生えたのかと、羋蒼旅は息を殺した。
「――それが、烙漣さまの命だ」
そして、続く言葉は、いよいよ羋蒼旅の心を大いに揺さぶった。烙漣の命と、咸伯明は確かにそう言ったのである。
――兄上が、私を殺そうとしている?
あまりの衝撃に、羋蒼旅はすぐには信じられなかった。嘘だと、声を張り上げて否定したい激情を、必死になって抑え込んだ。
といって、咸伯明らは羋蒼旅が茂みに潜んで聞いていることなど知らぬはずである。それなのに、こんなことを嘘として吐く理由など、羋蒼旅には思いつかなかった。
「奴らは何か、物騒なことを言っているな。王子、と聞こえたような気がするが……」
相も変わらず素っ気ない様子で、盧武成が聞いてくる。咸伯明が命を狙っている王子が羋蒼旅であるとは結びついていないらしい。
「王子というのは、茨国では悪党の子の意でな。仔細は分からぬが、あやつらとて善良な者ではなさそうだ。関わらずにやり過ごそう」
盧武成が茨国の言葉に疎いのをよいことに、羋蒼旅はそう言って誤魔化した。平静を装ったが、胸が激しく動悸して収まることを知らない。咸伯明とその麾下の兵が去るまで、羋蒼旅は生きた心地がせず、見えない刃に喉元を貫かれているような想いであった。
やがて、咸伯明らが去ると、二人は水辺に近寄る。そして、連れてきた男を水中へ乱雑に投げた。
意識を失っていた男は、口中に水があふれたことで意識を取り戻した。そこへ、羋蒼旅の鋭い視線が向けられる。
「おぬし、何の思惑あって私を攫った? そして、ここは何処なのだ?」
「ひ、ひぃ……」
男は、喉からからっ風のような音を出した。狼狽は増していき、やがて獣のように四つん這いの体勢で逃げ出したのである。盧武成がその背を追う。すると急に、男の体は水の中に沈んだ。盧武成が掴んで持ち上げると、男は自ら舌を噛み切って死んでいたのである。
「これは、どうにもならんな」
物言わぬ骸になった男を抱えつつ、盧武成は目を伏せた。この地が何処かを知る唯一の者が、二人の手から失われてしまったのである。
「もはや、方角さえも分からぬからの」
「それくらいは分かるだろう?」
盧武成の言葉に、羋蒼旅は眉を潜めた。心底、何を言っているのかが分からないからこそ、この時だけは、我が身を取り巻く数多の理不尽をも忘れ去っていた。
「星を見れば、四方を知るくらいのことは出来るさ。ただし問題なのは、それが分かったからといって、俺たちが何処へ向かうべきかが定められぬということだ」
「……空を見れば、方位が分かるものなのか?」
「それくらいのことは、親から習うものではないのか?」
疑問に疑問を返されて、羋蒼旅は閉口した。しかし思い起こせば、前に敖虎がそのようなことを言っていたような気がしたのである。夜半に敖氏の邸を抜け出し、丘陵で星を眺めていた時に、そのような話をしていたのである。
その時の羋蒼旅はというと、よく分からぬ小難しい話が始まったとしか思っていなかった。まさか拉致され、夜の森の中に投げ出されるようなことが起きるなど、思ってもみなかったのである。
もっとも盧武成の言う通り、進むべき方角が分からぬのであれば、四方だけが分かっても何の役にも立たない。
「もう、勢いで決めた方に歩いてみるかの?」
「それもいいかもしれないな。場合によっては遠のくやもしれんが、さりとて、立ち止っていればお前の家のほうから近づいてくるようなこともないだろう」
他に出来ることもなく、仕方なく、二人は歩き出そうとした。その時、夜の闇をつんざくような鋭い音が聞こえてきたのである。
鳥声であった。羋蒼旅は、それに聞き覚えがあった。
――鵬のものだ。
そう判断した根拠は分からない。所詮は、飼いはじめて一日も経っていない鷹である。それでも羋蒼旅は、違いないと確信したのである。
鳥声は何度か響いてきた。鵬が自分のことを導いてくれているように思えてならない。
「武成、あの鳥の鳴き声のするほうへ向かおう」
そう叫ぶやいなや、羋蒼旅は走り出した。仕方なく、盧武成もその後に続く。羋蒼旅はわき目もふらず、ただ鳥の音を追いかけているので、盧武成はいちおう、周囲を警戒しつつ進んだ。しかしその進む道に何者かがいる気配はない。
――本当に、あの鳥が俺たちを安全な道に教導してくれているようだ。
四半刻ほど走った時である。鬱蒼とした林間の中に小さな灯かりが見えた。その時である。夜空からひとひらの羽根が舞い降りてきたかと思うと、鷹が羋蒼旅の肩に留まった。鵬である。
鵬は小さく鳴いた。あの灯かりに向かって進めと促しているようである。
先ほどまでは一心に走っていた羋蒼旅の足に、わずかな震えが生じた。それでも、拳を強く握って前に前にと歩いていく。そこで羋蒼旅が見たものは、小さな小屋であった。外観に飾り気はなく、明かりこそ灯っているがあたりは薄暗くて、広大な地下牢に一つ置かれた燭台のようである。
鵬がもう一度、鳴いた。
羋蒼旅は腹を括り、その門を叩く。すると中から、粗衣を来た老人が出てきた。
「これは、珍客でございますな」
「……そなたが、何故このようなところに?」
羋蒼旅はその老人を知っている。茨国の先の令尹であり、今は政界から退いた身であるが、茨国きっての名執政と評された人――敖虎の祖父、敖賈その人であった。




