暗澹の車中
兄、羋烙漣に厳しく咎められたにも関わらず、羋蒼旅は敖虎の室でくつろいでいた。鵬と名付けた鷹も連れ込み、決して広くはない中を好きに飛び回らせている。
「書簡にだけは止まらせないでくださいよ」
この室の主たる青年、敖虎は諦めたような息を吐く。羋蒼旅が泊まりにきた日はいつもこうであり、敖虎としては、あちらこちらに積み上げた書簡の山さえ荒らされなければ、他はしかたがないと思っていた。
しかし、書簡に手を出された敖虎は怖い。羋蒼旅もそのことは知っているため、口笛を吹いて肩に留まらせた鵬に、
「あれらの上に降りてはならぬぞ」
と、厳しく言った。鵬は喉から甲高い鳴き声をあげる。わかった、と言っているようであった。
――本当に鳥と話しているようだな。不思議なものだ。
はじめは、羋蒼旅が鵬と心を通じ合わせているだけだと思っていた。しかし、鵬はとても羋蒼旅に従順である。既に何年も飼いならした愛鳥のようである。
実際に鵬は、敖虎の書簡を避け、卓や棚の上にしか止まっていない。
ともかく、書物の安全が確保されたのであれば、敖虎としてはそれでよいのだ。敖虎は趣味や娯楽らしいものをほとんど持たないが、唯一そうと呼べるものが読書である。史書に始まり、兵書や占書などまで幅広く、時には父にねだって虞と往来のある商賈から買ってもらったりもしていた。
その中には、巷間の伝承を纏めたような、胡乱な逸話がひたすらに並べ立てられたものもある。ただし敖虎は、その内容については信じておらずとも、そこに記されたものを読むのが好きなのであった。
不真面目で学問を嫌い、外で遊びまわることが大好きな羋蒼旅からすれば、何が楽しいのか分からない。書に割く財貨があるならば、美味いものでも食べたほうがよいとさえ思っている。
「蒼旅さまもいずれ、令尹とは言わずとも、せめて少宰くらいにはなってください。そして私のことを史官として取り立ててください。少史ていどでかまいませんので」
折に触れて、敖虎は羋蒼旅にそう言っていた。令尹とは茨国における宰相のことであり、少宰はその補佐役である。さらに言うと、少史とは史官の末席の位のことである。
史官となれば王宮の書庫に立ち入ることを許される。末席なので、すべての書を閲覧できるわけではないが、それでも敖虎からすれば夢のような地位であった。
羋蒼旅が、
「私は嫌だな。書を読みたいなら、敖虎が令尹になればいいじゃないか」
と言うと、
「無理ですよ。私は所詮、しがない叔ですので」
と、敖虎は朗らかに笑って返すのである。
敖氏は茨国の名家であり、敖虎の祖父は今なお茨国の百姓臣民から慕われる名令尹である。そして、父もまた、今は茨国で令尹を務めていた。しかし敖虎には二人の兄がおり、敖氏を継ぐのは、長兄の敖己伯であろう。
たとえ敖己伯に不幸があったとしても、継嗣の座が次兄の敖玖仲に回るに過ぎず、敖虎は、敖氏として身を立てることなどはじめから諦めていた。
「ならば、私も仲だぞ。そう大した位にはつけまい」
「ですが、蒼旅さまは王族です。よほど放蕩に明け暮れぬかぎり、それなりに偉くはなれましょう」
敖虎の言い方に、羋蒼旅は少しだけ愠とした。血筋だけは尊いのだから、内実が劣っていてもよいと言われれば、まだ子供の羋蒼旅でも腹は立つ。その顔色の変化を目ざとく見て取った敖虎は、
「出自だけの人と思われるのが嫌なのであれば、勉学と武術に励まれなさい。いつまでも、獣を追って山野を走り回っているだけではいけませんよ」
と、耳に痛い言葉を投げた。拗ねた羋蒼旅は、それきり、敖虎の言葉は聞こえないふりをして鵬にだけ構うようになったのである。
ようやく、遊び疲れて横になると、羋蒼旅は仰向けになりながら、敖虎に聞いた。
「父上と兄上は何故、近頃はよく言い争っておられるのだろう?」
「まぁ、色々とあるのでしょう。私にはあずかり知らぬことですし、蒼旅さまにもそうでしょう。嵐が去るのを待つように、遠望なさっておられるのがよろしいかと思います」
敖虎は書簡に目を落としたまま答えた。羋蒼旅としても関わるつもりはないが、聞きたかった言葉はそういったものではない。根拠のない推測でもいいから、何かの推論が欲しかったのであり、無責任なものでもいいから、気休めを口にして欲しかったのである。
そういったことを口にしないのは、敖虎という人の生真面目さであり、機転の利かぬところでもあった。
やがて鬱屈としてきた羋蒼旅は、
「もう寝る」
と言って、横になったまま目を瞑ってしまったのである。
暫くの間、夢の中でまどろんでいた羋蒼旅は、体を激しく揺さぶられて目を覚ます。寝惚けた眼を擦ると、まだ暗い中に敖虎が膝をついて、羋蒼旅の顔を覗き込んでいた。
「なんだ、まだ朝ではないだろう?」
「鶏鳴よりも前ですが――王宮から、急使が来ました。王子は速やかに戻られるようにとの王命でございます」
王命。その一言で、羋蒼旅の頭は一気に醒めた。子供ながらに、何かただならぬことが起きているのを察したのである。即座に体を起こすと、羋蒼旅は急使の下へ向かった。
「火急であり、寝衣のままで構わぬとのことです。さぁ、お早く」
「うむ、分かった」
急使の男に急き立てられて、羋蒼旅は急いで車に乗り込んだ。匣のような、囲いがついていて、乗り込むと外が見えぬ車である。中は薄暗く、しかも、羋蒼旅が乗り込むとすぐに、車は疾駆した。
不穏な気配がする。外に出て、急使の男に事情を聞こうとして、気づいた。
車には、外から閂が掛けられていて、扉を開くことが出来ない。羋蒼旅は大声を張り上げ、中から戸板を叩いた。しかし車が止まる気配はない。
――なんだ。父上の使いというのは偽りであったのか?
只事ではない。ただし、それ以外のことは何も分からないのである。
羋蒼旅を起こしに来たのは敖虎であった。ならば、敖氏も欺かれていたのだろうか。あるいは――この、王の急使を騙る男と結託し、羋蒼旅を連れ去る企てだったのか。
恐怖と疑心に駆られながら、叫び、戸板を叩き続ける。
しかし何も変わらない。快足で走る車は、羋蒼旅を乗せていることなど意にも介せずに進んでいく。
半刻(一時間)もの間、半狂乱でのたうち回っていると、やがて、叫ぶ気力も失せてきた。少し前までは、何事もなく続くと思っていた平穏が、一瞬にして闇の中に落ちたのである。突如として突き付けられた運命に反抗し続ける気力は、まだ十三の羋蒼旅にはなかった。
――もう、知ったことか。なるようになるがいい。
そう諦めた。不思議なもので、開き直ってしまうと、先ほどまでの恐慌が消えて、心が凪いでいった。
叩き起こされたことを思いだすと眠気が湧き上がってきて、そのまま羋蒼旅は横になり、眠ってしまったのである。しかも、一切の邪念もなく、目を瞑ったのとほとんど同時に夢の中へと落ちていった。
やがて羋蒼旅が目を覚ました時、車は止まっていた。そして、閂が外されたのである。
空はまだ暗い。随分と長く眠っていたような気がしたが、まだ夜は明けていなかった。そこで羋蒼旅は、自分が一日ほど眠っていたと気づいたのである。ようやく外に出られたというのに、まだ暫くは天日を拝めそうになかった。
外には、急使と名乗った男がいて、その先には違う車が用意されている。車の近くには褐色の肌をした壮年の男が立っており、その周囲には十人ほどの手勢を引き連れていた。
「では、後は手筈の通りに」
「ああ。承った」
急使を名乗る男に言われ、褐色の男は頷く。どうやら、この場で羋蒼旅を受け渡すという約があらかじめされていたらしい。この場で殺されぬのは僥倖であるが、また、視界を閉ざされた車に乗せられて当てもなく連れまわされるのかと思うと、羋蒼旅はうんざりとした。
その時である。褐色の男が率いる手勢の中から、一人の青年が進み出てきた。
若い男である。敖虎より少し若く、およそ十五、六というところであった。背が高く、猛禽のように鋭い顔つきをしている。青年は羋蒼旅に一瞥を投げると、褐色の男に聞いた。
「商賈の荷の護衛という話であったが、これはどういうことだ?」
「こちらが荷だ。丁重にしろ」
そう言われると、青年は羋蒼旅のほうへ歩み寄った。そして、
「おい、お前がここにいるのは、お前の意志か?」
と、聞いたのである。
「いいや。私も、何故こうなったかまるで分からぬのだ」
羋蒼旅は即断した。どうもこの青年は、人攫いの片棒を担がされるとは知らずにこの場にいるらしい。ならば、扇動するだけしてみようと思ったのである。
男たちがこの場で羋蒼旅を殺すつもりがないのであれば、この青年を焚きつけて騒ぎを起こさせればよい。そうすれば、そのうちに逃げ出す好機がくるかもしれないと考えたのである。
「いいから、黙って従え。銭ならば払ってやっているだろう!!」
褐色の男が口角泡を飛ばして叫ぶ。すると青年は懐に手を入れ、小袋を取り出した。質感からして、中には銭が入っているようである。それを、褐色の男の顔めがけて投げつけた。
「銭なら返す。人攫いか身売りか知らないが、そのようなものに加担するのは御免なのでな」
青年は静かに啖呵を切った。といって、青年は丸腰である。それに対して、他の者たちは皆、長物を持っている。褐色の男と急使の男に至っては、腰に剣さえ佩いていた。
――こやつは、余程の腕利きか? それとも、飛び抜けたあほうなのか?
青年は一瞬にして、羋蒼旅よりも劣勢に置かれた。それも、わざわざ自分から危地を生み出したのである。羋蒼旅は自分の状況を忘れて、ここからどうなるのかと童心を弾ませていた。
青年は、まずは素早く羋蒼旅の下へ駆け寄ると、急使の男の鳩尾に拳を飛ばす。突然のことで対応できず、男は一撃で地に沈んだ。
そして羋蒼旅の体を抱えたかと思うと、先ほどまで羋蒼旅が乗せられていた車の中へと投げ込んだのである。
「少しだけ待っていろ」
そして、自らは戸のところに立ち、褐色の男とその部下たちを迎える構えを取ったのである。
左右から長物が振り下ろされる。刃こそついていないが、それでも、叩きつけられれば痛いことに違いはない。目や喉を狙えば、一撃で相手を倒すことも可能だろう。
ただし青年は少しも怯まず、両手を前に出したかと思うと、棒を掴み、腕を回した。すると、大の男二人が、まるで羽根のような軽やかさで宙を舞ったのである。
青年はそのまま男の棒を奪い取る。すると、次の瞬間には、さらに三人が、膝をついて地に倒れこんだのである。一息の間に三度の突きが放たれたのだが、それは車中にいる羋蒼旅にも、相対している男たちにも捉えることの出来ない早業であった。
褐色の男は、部下たちに戦えと命じる。しかし、元は銭で雇った者たちであり、忠誠などはない。その上、青年の圧倒的な強さを前に腰が引けてしまっていた。
「偉そうなことを言うのであれば、お前が来い。それとも、腰の剣は飾りの木刀か?」
「おのれ、言わせておけば――」
褐色の男は柄に手を掛ける。鞘走った白刃が、東の果てから姿を見せた朝焼けを受けて閃いた。
だが青年に恐懼はない。長物を手放しつつ前に踏み出していき、褐色の男の懐へもぐりこんだ。そのまま剣を持つ右手を掴み、勢いよく投げ飛ばしたのである。頭から地に落ちた褐色の男は、そのまま意識を失ってしまった。
「さあ、お前たちの雇い主は倒れたぞ。まだやるか?」
静かな声に、鋭い闘志が込められている。義理立てすべき相手がいなくなったことで、やがて銭で雇われてきた者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
周囲から完全に敵影が絶えたのを確かめると、車の中にいる羋蒼旅のほうへ足を向けた。
「大事ないか、孺子?」
「う、うむ。しかしおぬし……途方もなく強いな」
「そんなことはないさ。人並みだとも」
青年はそう言うが、その後ろには何人もの男たちが泡を吹いて倒れている。人攫いの用心棒として雇われているだけあって、屈強な者たちばかりだが、それが、十五、六ほどの青年一人に倒されてしまったのだ。相手が弱かったというより、この青年が破格というべきであろう。
「それよりお前は何という?」
「……蒼だ」
本当のことを言うのを避けて、羋蒼旅はそう名乗った。
「おぬしは? その強さ、風格からして、只者ではあるまい?」
「俺は旅の者で、盧武成という。これと言って挙げるべき特徴もない、どこにでもいるような男さ」




