鄙邑の老人
黄昏時の邑に大音声が響き渡り、何事かと人が集まってきた。
集落に棲む者たちは粗衣に身を包んでいるが、中には猪や狼の毛皮らしき上衣を羽織っているものもいた。その手には棒や銅剣が握られており、物々しい眼で羋蒼旅たちを睨んでいる。
「おう、延融はおらぬのか。早く出せ、匿うとためにならぬぞ!!」
莫耶は哄笑しながら叫んだ。その響きが、いっそう邑の者たちを警戒させた。
「まるで山賊のようだの」
「おそらく、師匠にとっては、いるならば早く出してくれと頼んでいるだけのつもりなのです……」
「おや、炎淑どのは随分と莫耶どのの肩を持ちますね」
「あの人を最初に賢者と呼んだ人は、何を見てその綽名をつけたのでしょうね?」
「いえまあ、見識が広く智慧をお持ちであることは間違いではありませんので……」
羋蒼旅、闘炎淑、養叔由、敖虎、蔿峨は各々、莫耶の振る舞いについて小声で囁きあった。羋蒼旅と敖虎は特に辛辣である。
そして、五人がそう話している間に、莫耶と邑の者たちの間には剣呑な風が吹き始めていた。
このままいけば荒事になるだろう。
しかし、そうはならなかった。邑人の間をかき分けて小柄な老人がやってきたのである。杖をつき、背を猫のように丸めた好々爺だが、邑人は畏れをもって、老人が近づくと三歩退いて道を開けていく。
「そう騒がれずともよろしいでしょう。貴女の一喝は、時に天地を揺るがせにするのですから、軽々に號ばないでいただきたい」
「おう、生きていたか延融。この私が赴いてやったというのに電馳してこぬから、死んだかと思ったではないか。そのせいで、無用に號ぶことになったのだぞ」
莫耶は颯爽と下馬して、文句を言った。
「これは、手厳しい。もう老齢ですので、この程度の無礼はご寛恕いただきたく存じます」
延融という老人は、莫耶に対して恭しく話しながら柔和な笑みを浮かべている。
毒気を抜かれた莫耶は、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあいいだろう。それにしても、随分と老けたな。すっかり老爺じゃないか」
「人は月日には勝てぬものにございますからな」
敖虎は二人のやりとりを聞きながら、
――貴女のほうがそちらの延融どのよりよほど老婆でしょうに。
と思ったが、口を噤んだ。闘炎淑からあらかじめ、
『師匠は己の齢のことを、己で言うのはよいが、人に言われると機嫌を悪くする。まして老婦などと呼ぼうものなら、手が付けられなくなるぞ』
と教えられていたからである。しかもその厄介さたるや、熊の癇癪のようだとまで言われていたので、誰も、敢えて莫耶に齢の話をすることはなかった。
「ところで莫耶どの。そちらの方々はどなたですかな?」
延融が白髪首をあげた。
「茨国の新王とその臣たちだよ。ほら、お前たちも疾く下馬しろ。いつまで年長者の前で馬上の不遜を貫いている?」
莫耶に促されて、羋蒼旅たちも慌てて下馬した。
羋蒼旅と敖虎はまだその動作が心もとなく、先に下馬した養叔由と蔿峨が支える形である。
莫耶の紹介を聞いた延融は驚きつつも拝手した。
「これは、大国、茨国の王がこのような辺鄙な地にお越しくださるとは、畏れ多いことにございます」
「ああ、私にも諸事があっての。延融どのと申されたか。済まぬが今宵の宿をお借りしたい」
羋蒼旅の頼みを、延融は快諾した。そして自ら羋蒼旅らを案内したのである。
延融はこの邑では尊敬されている立場であるらしい。ならば案内など誰かに任せればよさそうなものだが、と敖虎は疑問であった。しかしそれはすぐに解けた。
周囲の者たちは何やら話し合っているが、その言語は耳慣れぬものである。どうやらこの地で、茨国の言葉を話せるものは延融しかいないか、そうでなくとも数少ないのだろう。
「しかし此度、莫耶どのが来られたことは私にとっても幸甚でございました。それも、茨王と共にあられるというのは、天祐と呼ぶべきでございましょうかな」
「なんだ、その口ぶりは、また厄介ごとが起きたのか。それでまたぞろ、私にその助力をさせようというのか?」
「莫耶どのと茨王にとっても、悪い話ではないかと思います」
そう言われたが、羋蒼旅らにはまだ話が見えてこない。
ただ一つ分かるのは、この延融という老人が只者ではないということである。とりわけ羋蒼旅と敖虎は、敖賈に似ている、と感じていた。穏やかな相貌の裏に、人界の魔窟を渡り歩いてきた人のしなやかさがある。
「問いが遅くなりましたが、延融どのは如何なるお人なのでしょうか?」
養叔由が訊いた。
「これは、申し訳ありませんでした。私はこの国、呉国の一族の者にございます」
その言葉だけでも羋蒼旅たちは驚いたのだが、莫耶は、
「ついでに言うなら、王子で王弟だぞ。そして、国難よりも己の不羈を望んで諸国を遊蕩していた不孝不悌のろくでなしだ」
と付け加えた。
「厄介ごとなどというが、何があったかはおよそ推察がつくぞ。そして、元を正せばお前に端を発することに違いあるまい」
「ご賢察にございます。返す言葉もありませんが、まずは、旅塵を落とされませ。お話はそれからということに」
延融は、六人を寝床に案内した。石積みの壁に茅葺をかぶせただけの簡素な建物であるが、空を屋根とし木と布を風避けとせずにすむだけで、ここまでの旅を越えてきた羋蒼旅らにとっては贅沢な客舎であった。




