羋蒼旅の旅路
闘羽夸の餞別とは、泰阿剣と雷上動であった。
「泰阿剣は炎淑、お前が持て。そしてこちらの雷上動は、養氏に」
「炎淑どのはともかく、私に雷上動をお貸しいただきよろしいのですか?」
養叔由は当惑していた。この弓は、此度の闘氏の王室への助力を顕彰するものである。
「貸すのではない。正式に、養氏に贈らせていただく。かつて王室を敵に回した我らを、養氏は救けてくれました。その恩を返さねばなりません」
「ですが――」
「それに、茨において弓といえば養氏に勝るものはございません。雷上動も我らの倉に納められるより、良き弓手の元で弦を鳴らしておるほうがよいでしょう」
闘羽夸は決して、養叔由を試しているわけではないらしい。ならばと養叔由は、膝をつき、両手を前に出して恭しい所作で雷上動を受け取った。
「私は未熟にして、未だこの宝弓を引くに能いません。しかし必ずや、雷上動に相応しき射手となって勤王に励みます」
そう答えた養叔由を見て、闘羽夸は破顔した。
羋蒼旅は敖虎に小声で、
「あの顔も崩れることがあるのだな」
と囁いた。場違いな君主の言葉に、敖虎は苦笑している。
闘羽夸の顔は、巌のような険しさと猛禽の鋭さを併せる強面である。少なくとも二人は、闘羽夸の笑った顔など見たことはなかった。
闘羽夸が、次に闘炎淑の方を見た。その時、先ほどまで寝ていた莫耶が目を覚ました。その双眸は泰阿剣のほうへ向けられている。
「なんだ。やけに騒々しいと思えば、泰阿じゃないか」
莫耶はおかしなことを言った。この場は今は喧騒とは無縁である。
「莫耶どのは、泰阿剣を知っているのか?」
「茨に棲んでいて知らぬ者はあるまいさ」
羋蒼旅の問いに、莫耶は呆れながら返した。しかし、羋蒼旅が気になったのはそこではない。
「騒々しい、というのはどういうことだ? 私たちは特に騒いだつもりはないのだが」
「人の声の話ではないさ。泰阿の剣気がざわめいている。こうも陰に傾いているのは初めて見たので、少し驚いている」
莫耶の言葉を悟了できる者はいなかった。もっとも付き合いの古い敖賈でさえも、怪訝を浮かべている。
そのような周囲の当惑など意に介さず、莫耶は闘炎淑を見た。
「お前、泰阿を手にしたことがあるだろう。その時に何をした?」
「何と申されましても、力付くで剣を鞘より抜き放っただけです」
「――なんだと?」
一瞬、莫耶は声を低くした。
しかしやがて、腹を抑えて哄笑しはじめたのである。
「た、泰阿を力付くでか!! くく、ははは!! なんだそれは、無道にも程があろうというものだ!! それは泰阿も、手籠めにされた生娘のような陰気を放とうというものだ!!」
その喩えに闘炎淑は慍としたが、莫耶は尻を地につけ、腹を抱えて笑っている。どうやら莫耶にとっては痛快なようだが、聞いている者たちから見ればただただ奇異な光景でしかなかった。
「炎淑よ。おぬしの師匠どのにはもう一度、酔って寝ていただくがよい」
「……御意に」
主君にそう言われた闘炎淑は、大杯を持ってきて莫耶に酒を勧めた。笑い転げている莫耶は勧められるがままに酒を飲み、やがて四半刻(三十分)ほどすると、再び眠りこけたのである。
「……ようやく、静かになったな」
羋蒼旅が言った。その声は憔悴している。
誰の耳朶にも、まだ莫耶の哄笑が残って離れないでいた。
闘氏の長が、これから南の果てを目指す羋蒼旅のため、その臣に泰阿剣と雷上動とを与えるという厳かな雰囲気はもうどこにもない。
今も泰然として酒を飲んでいるのは、敖賈と養叔由くらいのものである。
「あの二人の心胆はどうなっておるのだ?」
「祖父上は年の功かもしれませんが、養氏は、その胆は岩か鉄で出来ているのかもしれませんね」
「もしくは、そもそも無いのかもしれぬぞ。持ち合わせていなければ、震えることも冷えることもなかろうさ」
「よく言えば、敖令尹と似た胆力をお持ちの、大器の人ということになるのでしょうか……?」
羋蒼旅、敖虎、闘炎淑、蔿峨はそう囁きあった。
羋蒼旅と敖虎は、武人としての闘炎淑と蔿峨の力量と心力は認めており、度胸において劣っているとは思っていない。戈矛を手に、果敢に敵に向かっていくことの出来る勇士であると心の底から思っていた。
しかしどうにも、敖賈と養叔由の落ち着きようは、そういう度胸とは異なる類のものと思えてならないのである。
「宴は、このあたりで終わるとするか。どうにも、疲れた」
羋蒼旅はそう言った。明日より南溟への旅が始まるのだ。他の者も頷いたが、敖賈と養叔由だけはもう少し飲むという。
好きにさせてやれ、と羋蒼旅が言ったので、二人を残し、各々、眠りについた。
夜半、敖虎はどうにも寝付けなく、起きあがると外に出た。
夜風に当たっていると、一つの影を見つけた。
羋蒼旅である。
その傍には、蔿峨が控えていた。
「我が君、こんな夜遅くにどうなさいました?」
「なんだ、虎か。どうにも目が冴えてな」
羋蒼旅も敖虎と同じような理由で起き出してきたようである。
「寝つきだけはよい我が君には珍しいですね」
敖虎は敢えてからかったが、羋蒼旅の目は据わっていた。
「うむ。我ながら、肝の細いことよ」
自嘲がこぼれた。
「そう気に病まれることはありません。王の旅路には、蔿峨どのがおり、炎淑がおり、そして――私もおります」
「うむ、そうか。そうだな――」
敖虎は多くを口にしなかった。
そして羋蒼旅にとっては、その短い言葉だけで充分だった。




