熊墟
下山した羋蒼旅たちはそのまま武郢に戻るつもりであった。しかし敖虎が、寄りたいところがあると言ったので迂路を取ることにしたのである。
敖虎が向かったのは茨国の旧都、熊墟である。武郢の東、百里(五十キロ)ほどのところにあり、かつては栄えていたが、今は人の棲まぬ廃城となっていた。
遷都の理由については、今なおもって定かにはされていない。武郢への遷都が行われたのは三百年ほど昔だと言われているが、その頃は茨国に政治的混乱が起きていた時期であり、正確な記録が残っていないのだ。
王室で内紛があったとか、外敵に攻められて防衛上の都合で都を移したなどの説はいくつかあるが、いずれも推察の域を出ていないのである。
数日の旅を経て三人は熊墟に入ったが、城門は壊れて開かれており、城壁もいたるところに蔦が生えている。踏み入ると、朽ちた建物が鳥獣の棲家になっていて、とてもかつての王都とは思えぬ有様であった。
「のう、虎よ。このような所に来て何をしようというのだ? 祖霊に我らの旅路の安寧を祈ろうというのであれば、武郢でよいであろう」
「王の仰られるとおりです。遷都の詳細は明らかではありませんが、茨王室が続いていくために必要なものがすべて武郢に移されたことには違いありません」
羋蒼旅と蔿峨はそう言ったが、敖虎は二人の言葉に返すことなく、熊墟に着くと車を降りて歩き出した。
仕方なく、二人も後を追う。
敖虎は迷いなく歩いているが、蔿峨は剣と矛とを構え、周囲に気を配っていた。人の棲まぬ城とはいえ、何があるかは分からない。それに、こういう廃城は得てして、不埒な賊などの塒になっていたりするものである。
しかし、蔿峨の警戒に反して、そういった者がいる気配はない。時おり、鳥や犬などが物音を立てる程度であった。
敖虎は主君を置いて迷いなく進み、羋蒼旅も臆することなく、疑問を持たずにその後を歩いている。それでも蔿峨は、生真面目な性情ゆえに気を張っていた。
やがて敖虎が足を止めた。その先には、やはり朽ちて零落した建物がある。しかしそれは、ここまでにあった民家などと違い、雑草と苔にまみれてなお荘厳な佇まいを残していた。
「これは、かつての王城だな」
「その通りです、我が君」
「蔿氏の申された通り、熊墟から武郢に遷都するにあたって、ほとんどのものは移されました。しかし一つだけ、混乱の中で失われたものがございます」
にわかに目を見開いたのは蔿峨である。
「それはもしや、龍冠のことですか?」
敖虎は頷いたが、羋蒼旅は龍冠なるものを知らなかった。ただし龍という語を聞いて、先に莫耶から聞かされた南溟の神話の中で出てきた生物のことを想到したのである。
「のう、敖虎に蔿峨よ。龍冠とはいかなる物なのだ? 王家の宝物なのか?」
「私も仔細は知りません。ただし祖父上から聞いた伝承によれば、“茨の王、龍冠を戴きて泰阿剣を佩き、雷衝動を背負う”、というのが、武王より続く茨王即位のための神器だったとのことにございます。ところが武郢への遷都の中で龍冠は失われ、やがてその存在も語られることはなくなっていったのだとか」
王室に生まれた羋蒼旅さえ知らぬ話であった。敖虎の祖父、敖賈がそれを知っていることに疑念を覚えたが、敖賈には莫耶という不老長命の知己がいることを想えば、その不審はすぐに立ち消えた。
「“北より鹿、来る。武王、剣を振るいて燎火を払い、弓持ちて鹿を射る。神鹿死して亡骸を祀れば、天より虹霓の差し込みて、凡そ尋常ならざる鱗、舞い降りん。これを龍鱗と呼び、以て王冠に添える。故にこれを龍冠と呼ぶ”、ですね」
滔々として謳いあげられた言葉に、羋蒼旅と敖虎は耳を傾けていた。巫覡の神託を聞くように畏んでいる。やがて述べ終えた蔿峨は、二人が神妙な顔つきをしているので、驚き焦った。何か間違った知見を披瀝してしまったかと思ったのである。
しかしそうではない。羋蒼旅は元より、実は敖虎も、龍冠というものが失われたと知ってはいたが、その詳しい由来までは知らなかったのである。




