空を泳ぐ者
申し訳ありません、昨日、更新するのを忘れておりました!!
我に帰った養叔由は、振り向いてそこに羋蒼旅たちの姿を見つけた。
「これは、我が君に敖氏、蔿氏ではございませんか。このようなところまで足を運ばれるとは、何かございましたか?」
主君の到来に気づかなかった非礼を詫びつつ、養叔由は聞いた。
「うむ。私はこれから、南の地に旅に出ることにした。おぬしにも随行してもらうぞ」
「南に、ですか?」
即位して間もない王が、都を離れて旅に出るというのは常ならぬことである。懐疑を浮かべた養叔由に、敖虎が事情を話した。
「なるほど、南溟なる死者の国ですか。しかし、そのようなものが本当にあるのでしょうか?」
「分からぬが、だからこそ赴くのではないか」
「なるほど。実に、王らしいお言葉ですね」
養叔由は微笑をたたえた。
「承知いたしました。期日を教えていただければ、必ずその日、その地に王の下へ参じましょう。ですが、どうかそれまで、この地で修練に励むことをお許しいただきたく願います」
「修練というのは、先ほどまでやっておったあれか?」
「はい。私の射手としての始まりであり、未だ凌げぬ宿敵でございます。彼の者を射止めることが出来た時、改めて、大陸に無二の射手を名乗って王の車左となりたく思います」
養叔由は恭しく拝跪した。羋蒼旅は今でも、養叔由の弓術には並ぶ者などいないと思っているが、養叔由はまだ欠けたところがあると考えているらしい。
「その宿敵というのは、先ほど養氏の手に止まっていたあの銀目の蜻蛉のことですか?」
敖虎の問いに、養叔由は頷く。
「私は幼いころ、空を悠々と泳ぐあの蜻蛉を捕まえたいと思い、はじめて弓矢を手に取りました。しかし一度として、あの蜻蛉に矢が届いたことがございません。他の、凡百のそれらであれば片目を閉じたままに羽根を射抜くことも出来るのですが――」
養叔由は常識から外れたことを言った。羋蒼旅と蔿峨は意に介さず聞いていたが、敖虎だけがそのことに気づいたのである。
「それはつまり、叔由どのは、幼少の頃から同じ蜻蛉を追い続けているということですか?」
「ええ。ただ蜻蛉を射抜く程度のことであれば、射手を名乗る者にとって児戯にございますれば」
「蜻蛉というのは、どれだけ長くとも三月を越えて生きることはないものですが、それは本当に同じ蜻蛉なのですか?」
蜻蛉に限らず、虫の一生というのは儚い。養叔由が幼いころから今日まで生きるようなものがいるとは思えなかった。しかし、敖虎に問われた養叔由は少しの迷いもなく、
「間違いありません」
と断言したのである。
「まあ、茨国には不老不死の人もいるのだから、長寿の蜻蛉がいてもおかしくはあるまい」
「あの御仁を引き合いに出すと、すべてのことが胡乱になってしまいますよ」
羋蒼旅は、曰く不老不死だという“錬華の賢者”こと莫耶のことを想到した。確かにその理屈には筋が通っているが、敖虎としては、己の知見が崩れていくようで、素直に頷きがたいものがあったのである。
敖虎は未だ半信半疑であった。しかし、少なくとも養叔由はそうと信じているらしい。
そして、その蜻蛉を射抜くことこそが何よりも大事だと考えているのだろう。ならば、これ以上は容喙せぬほうがいいと思い、いらぬことを言わぬようにした。
「それで我が君。出立はいつになりますか?」
「十日後だ。その日までに武郢に来い」
「御意に――」
頷いた養叔由は、立ち上がるとまた空に視線を遣った。そして、弓を構えたのである。
もはや今の養叔由には主君のことさえも忘失し、再び、銀目の蜻蛉との対峙のみに集中し始めたのであった。
羋蒼旅たちは、そんな養叔由に声を掛けることをせず、静かに荊山を降りた。




